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今日はいつもの腐れ縁の幼馴染と飯にいっていた。幼馴染と書くとまるで美少女を想像してしまうが、残念ながらそんなことはない。ただの男である。実は女の子だったりもしない。ナニもついている。おとこの娘だったりもしない。わたしを含めむさい男三人衆である。
ただ友であり、それ以上にもそれ以下にもならない。ただそういった変わらない関係というのも、私は好ましく思う。いや人として歳を重ねる以上はお互いの環境など変化はしているのだ。それでも、三人が集まってただ飯を食うというこのあり方に変化はない。
小学生のころ、将来の夢にこの三人で大人になってもい一緒に仲良くしていたいと書いた覚えがある。こんな薄汚れた私にも純粋無垢な少年時代はあったのだ。その願いはある程度叶えられているといえるのだろう。互いの趣味が変わってしまったので昔のように頻繁に遊ぶことはなくなってしまったが、それでも十年以上、こうして話すことができる友があるというのは珍しいことではないだろうか。
ただ今でも、この関係が漠然としたもので、ふとしたきっかけで消えてしまうのではないかと思っている。例えば単純な話、この関係は私が彼らを飯に誘うことを辞めたら、そこで終わってしまうものであるように思う。それぐらいに今の互いの関係は薄くなりつつある。彼らはなんというか、そういうことをあまり気にしない性分であるから、誘われないならわざわざ誘おうなどということにはならないだろう。
私はそれがもったいないというか、残念なことに思えてならないのだ。だから多少腹がたつようなことがあっても、この関係を維持することを辞めようとは本気で思わなかった。長く慣れ親しんものというのは人に安心感を与える。それは人間であってもそうだ。いつものメンツと、いつもの関係で、いつもの飯にいく。それだけではダメだが、そういう関係があってもいいはずだ。何事もバランスというわけだ。
地元にそういった関係の人間がいると、ここは確かに自分が育ってきた場所だと感傷に浸ることができる。もしそうでなかったら、街中のちょっとした工事や新しい店構えを見て、「あぁ、俺の故郷も変わっちまったな」なんてセンチメンタルな気分になってしまうのだ。
ドラゴンクエストで始まりの街に幼馴染や母親がいると、ふと冒険の途中で用もなく立ち寄ったときになぜだか思い出に浸れる気分になる。大冒険を中断して故郷の街に帰省した、実際にはイベントなどほとんど用意されていないのだが、そういったものを探してしまう。世界へと飛び出したあの日がずいぶんと昔のことのように思えてならないのだ。
逆にFF2など始まりの街が破壊されると、もう二度と入ることができない。街のBGMがよかっただけに、余計おセンチな気分になったものだ。




