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実はここ最近色々なことがあった。言い訳をするわけではないが、少しばかり陽キャばりに忙しかったのだ。親がきたり応援にいったり、連続で友人が泊まりにきたりと、家ベントが目白押しだったのである。もちろん私はそのようなものに耐性がないのでいたく疲れた。私は一人でいる時間がないと死んでしまうのだよ。
別に人間が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。知らない人と関わるのも好きだし、話すのは楽しい。人間というのはそういうものだ。人と関わることが嫌いな人間でも、誰かと関わらずには生きていけない。ハムスターみたいに、悲しいと死んでしまうのだ。それは人間という生物としてなら異常性がない限り持ち合わせていなければならない性質である。
人間というのは自然界ではとても弱い、らしい。普通に犬ぐらいなら勝てそうな気もするけど、まあ弱いらしい。YouTubeでサバイバルものの動画とか見ていると、確かに人は自然では生き難いのではないかと思える。しかし、生き残るのが当然という前提があるだけで、自然界では死ぬことは普通ではないだろうか? その前提を考慮するとやはり別に特別弱いわけではない気がする。
話を戻して、まあ人というのはそういう社会性が遺伝子に刻まれた生物であるが、それでもプライベートというものもある。これはどんな生物も本来持ち合わせているものではないのだろうか。いわゆる、縄張りというものだ。敵対者や見知らぬ人に踏み込まれると不快感を感じ、攻撃的になる領域だ。人間というのはこの縄張りと社交性という相反する二つの領域をのバランスによってなっていると思う。
社交性に偏った人。これは現代の適応者だ。逆に自然界なら淘汰されていたのかもしれない。縄張りが極端に狭く、あらゆる人間と親密に関わることができる。自分の縄張りに踏み込まれることを恐れないため、逆に相手の縄張りも無意識に侵入していく。自然ならその時点で争いが始まるのかもしれないが、現代はそうではないので、まさしく適応者といえよう。思うに、しばし危険に対し無頓着で愚かなこともするし、言い換えれば挑戦的で失敗を恐れない。
縄張りが大きい人。私はどちらかといえばこちらだ。自分の支配領域を大切にしているため、そこに他人が入り込むことを嫌う。また、他人の縄張りに手を出すこともめったにない。よく言えば慎重で堅実、そして陰キャで臆病な愚か者である。他人に自分を明かして攻撃されることを恐れるため、自分のプライバシーについては黙秘する。この動物的な本能は、暴力が日の目を見ない現代では不要なものとなりつつある。だけどなくすことはできない。でも、もしかしたら将来の人類はこの臆病さを捨て、誰もが社交的な人間になっているかもしれない。
ひと昔前の農村と聞けば、非常に排他的で外から来る者を恐れ、よそ者を殺してしまうなんてことは当然のようにあったらしい。そう考えると、現代でも十分に社交性が成長しているのかもしれない。ただし、求めれるものが高くなりすぎて、それに適応できない私たちは苦労するのだ、まったく。
そろそろオート君が反駁してきそうな気配がするので終わるとしよう。




