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だいぶ間が空いてしまった。
やらないということは、変化の拒絶だ。人間というのは行動によって変化する。同じことを継続的に行うというのは、特異な変化を起こす。適応というのだろうか。ゲームにしろ、ピアノにしろ、絵でも仕事でも、専門家しそれに適応した人間というのは普通では信じがたいことができるようになる。それはきっと、小説家もそうなのだろう。
文字を書き起こすというのは、聞けば簡単で誰にでもできることのように思える。実際、誰にでもできるだろう。いや、誰でもではないかもしれないが、日本人ならほぼすべての人ができるのではないだろうか。字を書くというのは誰もが義務教育で教わってくるものだから。
しかし小説を書くというのは、同じように文字を書いているだけのように見えて、そうでもないのだ。そこには物語があるし、連続性があるし、何より文字という概念だけであらゆるものを表現しなければならない。
言葉とは積み木に似ている。自分の中にある混沌の中から、その言葉にぴったりな制限を引いて、相応しい形を組み合わせるのだ。それらを積み木のように組み合わせることで、情景や物語を作り出すのだ。これほど高度なことができる生き物が果たして人間以外にいるだろうか。
しかし難しいのは、言葉を聞いて描かれる積み木の形が個々によって少しずつ異なってくるということだろう。これがイデアのように、完璧な概念なら人間同士で言葉に食い違いがでるというわけではなかっただが、現実はそうではない。猫ときけば三毛猫を思い浮かべる人もいれば、黒猫を考える人もいる。その小さな食い違いが積み木となれば、大きな崩壊を招く恐れもあるだろう。どの分野も専門的になると難しい言葉がでてきがちだが、まさしくこの食い違いを防ぐための、より限定的で専門的な言葉なのだろう。
なんか話の方向がずれてきたな。まあいつものことか。今回言いたかったことは、小説家っていうのもちゃんと専門的なもので、パンピーがいきなり始めておお売れするなんてことは基本ないよね、という話だ。他のものと違って視覚的に可視化されていないだけで、小説にもきちんと技術というのが必要なのだろう。書きたいものを書きたいように魅せる。プロの小説を読んでいると、文字がスラスラ頭に入ってくる。恐ろしいほどに容易に情景を動かすことができるのだ。ああいうのは、やはりちゃんと研究しているのだろうか。あのようになりたいものだ。




