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これは日記のはずだが、最近は一日の出来事を記すことがなくなった。それは私が今日のできごとについて、何か特別なことがあったわけではないと考えているから、特別に記す必要もないだろうと考えているからだ。
しかし、それは本来の日記の趣旨とは反する。日記というのは、なんでもない一日の出来事を振り返り、自分がそれについてどう思ったかなどを記すものだと思う。
「貴方はすっかり向上心というものを忘れてしまったようだ。去年の貴方は今の貴方よりできることが少なかっただろうが、それでも向上心は持っていた」
そんなことないよ。去年はどちからというと迷走していたような気がする。自分のやりたいことが見つからないことを言い訳に、現状から逃げるように他のことを学ぼうとしていた。それは向上心とはいえない。ただ逃避行の旅支度だ。
「飛行機で運ぶと死んでしまう魚の話を知っているだろう? 自然な状態で生きた魚を運ぶと死んでしまうが、天敵を入れておくと生きるものがいる。今の君は安楽の地で浮かぶ死んだ魚のようだ。向上心というのは無から生まれる活力ではない。コンプレックスや危機を跳ねのけるための衝動的欲求だ。今の君に必要なのは敵だね」
必要ない。ストレスというのは様々な形がある。それは君が述べたように敵というのもそうだろう。私の安寧を脅かす存在というのは確かに私にストレスを与え、否応なく私に変化を促す。戦争がそうであるように。
しかし強引で大きな変化というのは代償を伴うものだ。争いに焼けた大地に花が芽吹かぬように、強引な変化は人格を歪ませる。実際、去年の私は店長のパワハラで苦しい状態になっていた。仕事に行くのが嫌で仕方がない日があった。今思うと普通に私の先輩もパワハラ気質だったし。あれらが私に良い変化を与えただろうか? 確かに、「色んな人がいる」ということは知ったのかもしれない。だがそれは変化というより、ただの諦念を覚え、負の感情に慣れてしまっただけだ。それは将来的に確かに役には立つだろうが、あまりポジティブなものではない。
「認めよう。だが、それは貴方が何も考えずに生きる理由にはならない。では、貴方に必要なストレスはなんだ?」
それは「期待」だ。
こいつはできる、こいつならやってくれる、周りにそう期待されると、私はその期待に応えようと思うことだろう。そして
「では、君が皆に期待されるにはどうする?」
それには宣言が必要だろう。「これは私がやります」という宣言だ」だから、あとは私にまかせてください。現代人は責任を背負いたがらないらしい、昇給をしたくない人がいるらしい。そんななか、私にやらせてくださいと言える人間は多くはない。だが、私の成長のためにはこれが必要だ。
「では、具体的に何をやるのかい? 目標というのは明確であるほうが良い。何より、目標というはのぼりではなくフラッグでなければならない。君は責任を負うという素晴らしい宣言をしてくれた。では、何を背負うのか決めなければなるまい」
そういわれてもね。今でもそこそこ手一杯なんだよ。やることもしっかりできていなし。やるべきことがまだできていないのにこれやりますっていわれても上司も困ってしまうよ。
「いつになったら君の手は空くのだろうね。お茶を飲みながら肩肘をついてジグソーパズルを眺めて、『なかなか終わらない』という。なるほど、これは忙しいわけだ。特に口はいい訳をしなければならないからね」
本当に嫌なやつだねお前は。
でもたるんできているのは認めたくないが、そういうところもあるだろう。明日は月初の処理についてしっかりと覚えなおそう。メモも取りなおそう。




