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 昔はなんとなく、自分は主人公だと思っていた。どれほど科学的に自分とそっくりな人間たちがいたとしても、この世界を見ているのは私のみなのだ。というか、他人の意識というものを自意識として認識できないから、それは当然のことだが。だからこそ、自分という存在は唯一にして絶対なのだ。私という存在からすれば、この世界、すべての宇宙は私のために存在していると言ってもいいぐらいには。私は悲しむために、喜ぶために、成長するために、あるいは何かを成すために。

 私は何かをするために生きているのではないかと、そんな気持ちになったことはないだろうか。自分が存在し、生きているその意味を探したことはないか。人が生きる意味ではない。私という世界の観測者がここに存在する意味だ。いや、主人公が存在する意味だ。

 だから私も、自分が何か大きなことをしなければならないのではないかと考えていた。今も心のどこかでは考えているのかもしれない。学べば学ぶほど、大人になるほど、自分がただの人間だと思い知らされる。周りと同じように生き、同じような身体構造をして、同じようなことを考えている。だから諦めを感じるようになったのだろうか、やはり同じように。そして自分はその同じような人間の中ですら何も特別でないことを思い知っていくのだ。


 それでも、私は主人公なのだろう。なぜならそう思う私は私しかいないからだ。デカルト的な証明方法である。我思う、ゆえに我あり。世界というのは、目の前にあり触れることができるものですら真実であると証明できない。ならば他人の意識などというふわっふわなものをどうして信じられようか。絶対なのは、ただこうして思考している私という存在だ。例え見ているものが全て仮想でも、足のかゆみも、センチメンタルな心も、聞いているマイナー音楽も、触れるノートパソコンの感覚も、すべてがまやかしであっても、まやかしに踊らされる私だけは確かなのだ。

 そういう意味では、世界はやはり私だけのものなのだ。世界は世界中の皆のものではなく、まさしく存在している私だけのものでしかない。それ以上にはなりえないのだ。ただ主人公であるかはわからない。主人公だと思えるぐらいにこの世界に喜びや悲しみ、怒り、何かの激情をもって生きることができたら、そのときは主人公といえるのだろう。

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