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芸術について考えてみたことがある。
近代アートといえばよくわからないものとしてよく揶揄されているが、思うにああいった現象が起こるのは芸術というものの在り方ゆえなのだろう。
では、芸術の在り方とはなんだろうか。それは何かを伝えることではないだろうか。強い感動や喜び、あるいは喜びや抗議。芸術という銘で作られたものには、等しく創作者の意味が込められているのだ。例えそれが落書きにしか思えないものだったとしてもだ。もっとも、説明がなければその意味が伝わらないようでは本末転倒な気はするが。
世界で初めて絵を描いた者は、いったい何を思い何を描いたのだろうか。いずれにせよ、それは気まぐれではなく、誰かに何かを伝えたくて描いたのではないかと思うのだ。ヒエログリフとは文字であるが、それは絵のようでもあった。様々な文明でいくつもの文字が存在していたが、その前身には絵が描かれていたことだろう。となると、芸術とは原始的な文字であり、言葉であるのだ。
ではなぜそんな古臭いものがいまでも人々に親しまれているのだろうか? それは文字というものが持つ限界が存在するからではないか。
夕日が綺麗だ。
西の山へと沈む真っ赤な夕日。稜線の影を境に、まるで街を昼夜に隔てているようであった。
黄昏時、草原は黄金に染められていく。その幻想的な光は昼よりずっと優しく、私たちを包み込んでいたのだ。
気づけば戦場には赤が落ちていた。生者も死者も等しく赤く塗られ、その様は戦場のすべての者たちの内心を代弁しているようであった。
何がしたかったかというと、夕日を色んな言葉で表現しようという試みである。皮肉なことに私の貧弱な語彙のおかげで、予定の数倍ほど言葉の限界を知ることができた。要するに、言葉では当てはめられない事象や思いというのがあるということだ。より繊細な心情などを表したいのなら、その障害はより大きくなるだろう。
外国語を習っていると、日本語に相応しい言葉というのが見つからないときがないだろうか? というか、そもそも英語がまったくそれだろう。英語といのは単語の概念の括りが大雑把すぎるのだ。だから日本語にするといくつも意味を持っていたりしてややこしい。
とにかく、絵というのはそういう言葉にならないものを表現することができるのだと思う。なにより基本的には視覚情報のみなので、言語の壁もなく感情にダイレクトに伝わるのだ。むろん、当人が表現したいものが伝わるとは限らないだろうが。
なんか頭がごちゃごちゃしてきたのでテキトウにまとめよう。今の心境を描くなら、ぐるぐる線が乱雑に描かれたそれだろう。
ただの妄想であるが、最初の芸術というのは綺麗なものを共有したいというものだったのではないだろうか。そう、例えば夕日のような。
その光景を伝えるには言葉や手振りでは足りなくて、その人はきっと描いたのだ。




