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昔時間について考えたことがある。
私の中の結論では、時間というものは存在せず、存在するのは今という状態だけだ。というものだった。今もその考えは大きく変わっていない。
まずもって時間とは何かと考えたときに、それは物質的なものではないから当然人間が考え出した概念となる。時間が存在しないといいたいのはそういうことだ。しかしながら時間という概念について語ろうとするとき、自然と存在しないはずの時間をもってそれ自身について説明しなければならないのでそのジレンマに悩まされる。
時間や数字というのは本来ならこの世界になかったものであるのだが、それが視覚的に共有される現象であるためあまりに鮮明で、存在しないといわれてもピンとこない。まあそこまでいくとどんな事象も観測しない限りは存在しないという話になってしまうので、時間が存在しないというのは強引な言葉を使っているかもしれない。そんな哲学的な話もあった気はするが。確かゲームのような考えだったか。世界は認識範囲と同時に描かれるものであり、視界後方や地面の中、あるいは目の届かない遠いところに世界は存在しないという考え方だ。オープンワールドのゲームなどそのような表示法をするらしいので、それに近いだろう。
話を戻そう。どこかの作者が話を戻すときに閑話休題〈それはさておき〉ってよく使うのだが私はあまり好きではない。なんか、嫌じゃないか?
閑話休題。
私は過去や未来というのが、ただ現在と原子の位置が異なるものであるといいたいのだ。もし仮にだ、百年前の街を人も空気も何もかも含めて、完璧に同じように原子、分子が配列されたような状態を再現できたとしよう。おそらくその街は百年前と何ら変わらないように動き出すだろう。
その中に私があったとき、過去にいったといえばよいのだろうか。それとも過去がきたといえばよいのだろうか。それは未来もまったく同様だ。そしてどちらの表現も適切ではないだろう。ただ単に、過去の状態に成ったというのが正しいのではないか。
ならば過去という別次元的なものは存在するのではなく、そのような状態があったというのが正しい。しかしここでジレンマなのだが、あったという表現は過去形であり、つまり過去を表現するには過去を使うしかないのだ。
昨今では時間の概念が独り歩きしていると思う。タイムマシンというのは、完全に過去と今、未来を別次元的に分断した産物だ。過去に戻るというのは今をビデオテープのように逆再生させ、その原子たちが辿った軌跡をなぞり直す行為に他ならない。だから思うのだ。過去にいく、ましてや未来にいくという事象は、どれだけ人間が進歩したとしても不可能ではないかと。




