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人は不便な生き物だと思う。やることがあると、これをやらなければいけないと心があせり落ち着きかない。やることがなければ、退屈を持て余し時間を無駄にする。私は大学において中庸という言葉について論文を執筆したが、人にとってはこの中庸というものが一番よいのだろうと思う。
最も、中庸という意味は本来ならまったく違うものであったのだが、現在で使われていない意味などたいした必要性がないと思っているので、中庸なんで言葉はほどよいとか適当な、とかいう意味でとっておけばよいのだ。わざわざそのことについて研究し、論文をしたためるような無駄なことはなおさらである。
話をもどすが、この世界というのは何事にも丁度よいという落としどころがあって、それに逆らうと世界に歯向かうにもにた手痛いしっぺ返しが用意されているように思う。薬について詳しい方が、すべての物は適切ならば薬になり、過ぎれば毒になるといっていた。まったくなるほどと思ったものだ。
睡眠導入剤をがぶ飲みして自殺を図るなんて話は聞いたことがある。酒は飲めば気分がよくなりストレスを和らげる効果があるが、過ぎれば酩酊し体調を崩す。麻薬とてただしく用いれば興奮剤や鎮痛剤としての運用が可能だ。まったくの毒という物質はこの世にあまりないのではないだろうか。
しかし私が言う、丁度良い落としどころというのはもっと大きなスケールの話も含める。たとえば食物連鎖なんかがそうだろう。食物連鎖の循環は自然に保たれるようにできており、生物とたちが全力の営みの上に中立が保たれている。すこし連鎖にズレがおきても、自然と修正されるようになっている。そのようにして生物界というのは上手に回っているはずだ。しかしながら人間とかいう生き物はその摂理からまったく外れている。そのため本来ならふさわしい罰があったように思える。集団での生活は食物連鎖の崩壊であり、人間の食べるものは失われるはずであった。しかしながら人は保存という手段をつかい、農耕によって大量の食物を生み出す方法を見つけた。まるで世界のシステムの悪用だ。
人間は用意された適切なシステムから、極端に発達した知恵をもって逸脱した。そのように考えてしまうことがある。
そもそも生き物はなぜ生きるのだろうか? 生き物の目的はいつだって増えることだ。そしてより自分に近いものを増やそうとする。優先順位は最初に私、あるいは子供、次に肉親、関係の深い人、何らかの関連性がある人、自分と同じ人種、人間、有益な生き物、ほかの生き物、地球外生命体。自分に近い情報を増やすというのはおそらく生物の最小単位で刻まれた本能なのだろう。あるいはDNAにそのようなことが記されているのか。そんなことを考えるのである。




