第3楽章 「鏡の中からの使者」
あれからどれだけの時間が経過したのだろう。
恐ろしくて時計を見る気にはなれないけれど、これまで演奏した曲数を考慮すると、決して短い時間ではない事だけは確かのようだ。
習い始めだった小学生の頃に覚えた「アメイジング・グレイス」は、曲調が美しくて私のお気に入りだったけど、それが讃美歌であるのを知ったのは習得し終えてからだった。
作詞者であるジョン・ニュートンの逸話を知ってからは、それまで何気無く弾いていた自分の無神経さを恥じ、威儀を正して演奏するようになったものだ。
ドボルザークの「ユーモレスク」は、初心者向けに易しくアレンジされた物なら楽譜なしで演奏できるけど、原曲の難しさには衝撃を受けたっけ。
いつか原曲で弾いてみたかったけど…
エルガーの「愛の挨拶」は、いつか親戚のお姉さんが結婚する時に演奏してあげたかったなぁ。
バッハの「G線上のアリア」も、暗闇の中で恙無く演奏出来た。
題名通りにG線だけで弾くのは難しいから、これもアレンジ版だけど。
どの曲にも個人的な思い出が色々と染み付いていて、演奏する度にそれらの思い出が蘇ってくるよ。
まるで自分の人生の走馬灯に、自分で伴奏を付けているみたい。
暗記している曲を一通り弾き終えた私は、課題曲を弾くためにカバンから譜面を取り出したの。
この頃になると、暗闇にも目が慣れてきている。
大まかにでも音符が判読出来れば、演奏は出来るだろう。
そう思って、譜面台に歩み寄ったんだけど…
「えっ?!」
譜面台の奥に置かれた、姿勢確認用の全身鏡。
そこに何やら、奇妙な影が蠢いている。
「そ、そんな…!?」
何の気なしに覗き込んだ事を、私は後悔した。
髪がボサボサになった見知らぬ男性が、私の鏡像より手前に立っている。
その構図で鏡に写ろうとすれば、男は私の前に立っていなければならない。
しかし現実の地下練習室には、私以外に誰もいなかったんだ。
『地下練習室に閉じ込められただけじゃなく、幽霊と出くわすなんて…』
恐怖と混乱で正気を失いかけている私の目前で、更に驚くべき光景が展開されようとしていた。
本来ならば平面なはずの鏡が水面みたいに波打ち、波紋さえ生じている。
「ひっ!」
そうして鏡から現れたのは、先程のボサボサ頭をした見知らぬ男の顔だったの。
鏡面から首だけ突き出した男が、不思議そうに室内を見渡している。
続いて肩と胸が出て、男の上半身全体が鏡面からニョッキリ姿を現した。
元は仕立ての良かったはずのスーツは、所々が傷んで擦り切れており、長い年月の経過を感じさせた。
「う、う~んっ…!」
そうして見知らぬ男の全身がこちらに抜け出た辺りで、私の意識は暗転した…