第2楽章 「ヴァイオリン奏者の諦観と、誇り高き決意」
空調も止まった真っ暗な地下練習室に閉じ込められていると、想像力が悪い方向ばかりに働いてしまう。
今の私の状況を客観的に見ると、オカルト番組で見た怪談話その物だった。
確か、手違いで女の子が体育倉庫に閉じ込められてしまい、そのまま夏休みが終わるまで忘れられてしまうという話だったっけ。
女の子の御両親は警察に捜索願いを出したものの、夏休みに入った学校の体育倉庫は盲点となり、そのまま発見される事はなかったんだ。
それで新学期が始まり体育倉庫が開けられると、そこにはミイラ化した女の子の死体が転がっていたとの事だ。
助けを求めて引っ掻き続けたのか、女の子の爪はボロボロで、体育倉庫の壁面は血だらけだったらしい。
女の子の葬儀が行われた後でも、何かをガリガリと引っ掻くような音が体育倉庫から聞こえるという…
-私も、もう駄目なのかな…?
諦観が心を支配した時、私はケースからヴァイオリンを取り出し、暗闇の中で演奏を開始した。
どうせ死ぬんだったなら、最後に思いっ切りヴァイオリンを弾いてからにしようと思ったんだ。
「手始めに、小学校の時に覚えた『きらきら星』から…」
こうして正しい演奏姿勢を取ると、不思議と腹が据わってくる。
ネックを握る左手も、弓を引く右手も、何もかも普段通り。
さっきまでの震えが、まるで嘘のようだ。
正直言って、「未練が無いか?」と聞かれたら嘘になる。
期待に胸を躍らせて堺音楽大学の正門を潜った奏者の卵として、そりゃ私にも色々な夢があったんだよ。
胸に抱いた憧れが、叶えたかった夢が。
ヴァイオリンで曲を奏でる度に、脳裏に浮かんでは消えていく。
今はまだ習得出来ていない曲を、自分のレパートリーに加えたかった。
友人達と一緒に卒業証書を手にしたかった。
プロのヴァイオリニストとしてデビューしたかった。
オーケストラに参加し、名立たる奏者達と肩を並べたかった。
ソロヴァイオリニストとして世界中のコンサートホールを飛び回り、自分の演奏で世界中の人々を魅了し、「音楽は世界の共通語です。」と伝えたかった。
いつか結婚して母になった時、産まれた我が子に自分の演奏を聴かせたかった。
そして私の演奏を音源として記録して商業販売し、死後も語り継がれる名奏者として歴史に名前を刻みたかった。
大それた夢かも知れないけど、夢を見る事は誰にも阻めないはずだよ。
たとえ地下室に閉じ込められ、二度と再び日の目を見る事がなかったとしても…
それらの夢がもはや果たせないとしても、ヴァイオリンを握って事切れる方が、きっと音大生として相応しい死に様だろうね。
壁面をガリガリ引っ掻きながら死ぬという無様で惨めな最期よりも、己が美学に殉じる誇り高き死を、私は選びたい。
最期まで突撃ラッパを離さずに中隊ラッパ手としての役目を全うした、日清戦争時の大日本帝国陸軍兵士である木口小平二等兵みたいに。
「千恵子さん…私、貴女の叔母さんに会ってくるよ…先生達や千恵子さんの事、報告してくるからね。そしたら、セッションをさせて貰うんだ…」
千恵子さんの叔母にあたる笛荷栄江さんは堺音楽大学の卒業生で、将来を期待されたピアニストだったらしい。
ところがプロデビューの直前、暴走トラックに轢かれて亡くなられたそうだ。
「プロデビュー出来る実力の名ピアニストと、弦楽器専攻1回生の私とじゃ、演奏レベルが釣り合わないかな?でも、千恵子さんの友達って事で、栄江さんも私のバイオリンに合わせてくれるよね?」
こう問い掛けても、返事をしてくれる人はいない。
私の奏でるバイオリンの音色だけが、闇に閉ざされた地下練習室に響いていた…