逃げるヒーロー
ある若い、将来有望な陸上競技の短距離走者がいた。マルヤマと言った。彼はこの年から大学生になったが、高校時代から好記録を出して注目され、方々の大学から「ぜひ、ウチの大学へ!」と誘われていたが、最終的にK大学に進学し、当然のように陸上部に所属した。
彼への期待は大きく、100M走をメインに出場するが、その他の距離にも期待が掛かった。高校時代から、遊び半分で走っても高校では相手になる者がいないほどだったからだ。
けれど彼の運命は、ここに来て暗い影を帯び始めた。「軽い気持ちでも勝てる」という慢心があったのかもしれない。ある日練習中に「少し腿の辺りがピリッと」とコーチに言って、それきり彼のタイムは伸び悩み、僅かながら低下して行った。
「あんなに期待されていたのが、この状態では、並の選手になってしまった……ゆっくり足を治して出直しだな」
陸上部の監督にそう言われた。それは彼にとっては、絶望の淵に追いやられるようなことばだった。足を治すと言っても、痛みを感じずに走れる時もあった。それでもかつてのようなタイムで100Mを走ることは出来なかった。「自分の価値が無くなってしまった」そう思った。
彼は自信を喪失し、このまま足が元に戻らないなら、100Mで頂点を狙えないのなら競技を辞めようかと考えるようになった。そんな時、陸上部監督から知り合いを紹介された。その人物は科学者で、いろいろと変わった研究をしているらしい。そして、「特殊な薬」に精通しており、監督を通じて多くの陸上部員が「世話に」なっているのだと聞かされた。
「監督。俺はそう言う、いかがわしい薬は……」
マルヤマは監督の顔を面と向かって見てハッキリそう言った。それが彼の意地であった。けれど監督は、彼のその態度を見て、
「うん。分かるぞ。皆、最初はそう言うんだ。けれどタイムが思うように出なかったり、ケガをしたりすると、発揮できるはずの才能が惜しまれる。……持った才能が無ければ、私も勧めはしないよ」
マルヤマも自分の才能がここで終わってしまうのかと嘆く心があった。「才能があればこそ……ですか」呟いた。「そうだよ。お前には才能がある」
科学者は独自の研究により特殊な薬を作り出していた。マルヤマは定期的に注射で投与を受けた。
「練習を続けながら投与を続けて、1ヶ月くらいで効果が現れ始めるだろう」
科学者はそう言った。
「薬物検査には引っかからないんですか?」
マルヤマは今はそれが一番の心配事になった。
「ああ。それは全く心配ない。そう言う薬品とは別物なのだ……ただ、ちょっとコツが必要になるから、その練習が必要なのだが」
科学者は自信ありげに頷き、マルヤマに説明した。
「コツ、ですか」
「ああ……それは、陸上部の監督やコーチも知っている。注射の効果が出始めたら、あの人たちの言うことをよく聞いて練習してみてくれ」
あの科学者が言ったとおり、1ヶ月が過ぎた頃からマルヤマは100Mのタイムがよくなり始めた。けれど、彼には「速く走っている」という実感が薄かった。自分が走っているのでは無いような感覚に襲われた。「自分の足が勝手に走っている」そんな感じがするのだ。陸上のトラックを誰かと走っていると、自分でその気が無くても自然と足が加速していった。それは、魔法でも掛かった様な急加速だった。
部の他の選手たちもマルヤマが特殊な薬を使い始めたことは分かっていた。選手同士、互いに話はしないが誰しもが監督を通じてあの科学者の世話になっているのだ。そして、今のマルヤマに起きている効果は目を見張るものがあった。
「さすがに、元になっている才能があっただけのことはある。「ものが違う」そんな感じだな……いくら追っても、追いつける気がしない」
部員の一人が呟いた。マルヤマは、実際の速さと心の動きが連動しない今の状態にいささか不安はあったが、結果として満足すべきものがあった。
マルヤマは瞬く間に記録を伸ばし、手始めに地方の陸上競技会に出ては優勝を続けていった。彼の激走ぶりは、凄まじかった。スタート音が響き100Mを走り始める時は、そろりと余裕を持っているが、そのうちに一人抜き、また一人抜きと、加速しながら次々抜いて行って、最後にトップに立った上で他の選手を置き去りにして勝ってしまうのだ。
こうして、いい結果が出てくると彼の不安は小さく消えて行った。栄光に酔うのは誰でも気分がよいものだ。彼は一層練習に励んだ。
マルヤマの練習は少し変わっていた。まず誰か他の選手に追われるように、やや後ろから走り始め、加速しながら前を行く選手に追いつき、その選手に今度は追われるように走る。そして最後にすべての選手の前に立って、突き放し、1着でゴールするのだ。こういうレース展開になるように常に心がけていた。
3ヶ月が過ぎた頃、丸山の足は以前に比べてかなり毛深くなっていた。針のような真っ直ぐの、しかししなやかな毛だった。彼は、この毛の手入れも入念にしていた。
「今度の全国大会で優勝すれば、国の代表だ。失敗するなよ」
監督がマルヤマにする指示は、レース展開の失敗が無いように、いつもそれだけだった。
「はい。分かっています。僕は必ず勝ちますよ。見ていてください監督」
彼はかつての自信を完全に取り戻し、もはや国の代表だけで無く世界を見据えてさえいた。
「博士。マルヤマに投与した薬は、以前とはだいぶ感じが違うと思いますが、どういうものなんです?」
ある時、例の科学者の研究所を訪ねたK大学の陸上部の監督が聞いた。科学者は含むような充実した笑みをたたえて説明してくれた。
「監督。あなたは「逃げ足」と聞くと何を思い出しますか」
「逃げ足ですか……ううん。泥棒とか、あるいはゴキブリ……とか」
「いい勘をしているね。ゴキブリ。そうなんだよ。一部のゴキブリは、足に感覚毛という毛が生えていて、その毛が周囲の動きを感じ取り、例えば人が近づいて危害を加えようとすると、その時に起きた微妙な風の動きを察知して、それを脳で判断するのではなく「感覚毛から直接情報を得た足が判断して瞬時に走り出す」のだよ。その性質を生かして作り出したのがマルヤマ選手に投与した薬だ」
「ゴキブリから作り出した薬ですか……」
「ああ。そう聞くと、嫌な気分だろうが、結果は見てのとおりだよ。素晴らしいだろう?……彼は他の選手から追われると彼の足に生えそろった感覚毛がそれを感じ取って逃げようと走り出す。頭で判断する前に足が走り出す。しかも彼の元々の才能にプラスした強靱に変化した脚力でだ……彼は、もう「進化した人間」とも言えるかな」
遠くを見るような目で語る博士のことばに、監督は呆気にとられてしまった。まさかそこまでの薬だとは思わなかったからだ。
「そうすると、マルヤマはもう改造人間と言ってもいいような……発覚したら大変なことに」
監督のことばには、かなりの怖じ気が含まれていた。
「私の薬はそんなに安易では無いから大丈夫。当局がいくら調べても分かるまいよ」
「そ、そうですか……なら、いいので、すが……」
監督は、以前のように簡単に勝ち誇ったような返事ができない気持ちだった。
いよいよ陸上競技の国内最大の大会が開催された。そして陸上競技の華、男子100M走、決勝に当然マルヤマは進んだ。彼は予選からすべて1位。決勝では第5コースとなった。
「これに勝てば世界にデビューできる。俺は世界を相手に勝負できるはずだ」
彼はこの国内大会も、あくまで「世界への予選」と思って臨んでいた。それだけ自身があった。
「今まで通りにやれば間違いない」
それだけを考えた。
レースがスタートし、マルヤマはいつものように後ろから一人ずつ抜いていく。足が加速を強める。二人抜き、三人を抜き……そして最後の一人をゴール前30Mほどで捉えた。だが彼の足は「追われないと動かない」。トップに立つのが少し早かった。そのせいで速度が少し緩み後続が迫って抜かれ掛かる。するとまた彼の足はそれこそ目にも止まらぬ速さで回転し再度、他の選手を突き放して1位でゴールを突き抜けた。
『タイムは……日本記録です!日本記録どころか……もう少しで世界記録でした!』テレビのアナウンサーもここぞとばかりにまくし立てた。
マルヤマは興奮した。驚愕した。世界が自分の目の前に近づいてきたと思った。
彼は、レース後は足がむやみに反応しないように訓練していたが、この日はそれが勝利の興奮のあまり乱れた。報道陣に追い回された彼は、心と裏腹に競技場を逃げ回った。
「マルヤマ選手!マルヤマ選手!待ってくださいー。インタビューを~!」
インタビュアーが新聞記者がカメラマンが彼を追いかけたが、追いかけるほど加速して、追いつけるはずも無く、彼は全力で逃げ回った。そして、インタビューも何も無しに人目の無い建物の暗いロッカーの間の中へ飛び込んでしまった。
翌日のスポーツ紙は彼の記事が踊った。
『シャイなスーパーヒーロー誕生』と。
タイトル「逃げるヒーロー」




