1話
今世間で爆発的に売れている物語がある。
それというのも若い青年が誰もが羨むような力と信頼に足る幾人かの仲間を得て、強大な悪へと立ち向かう英雄譚である。道中、幾度となく困難に直面するが仲間と、もしくは旅先で出会った数々の人々とそれを乗り越え成長する。そして死闘の末、巨悪の権化である「魔王」という存在を打ち倒す、と言った具合の勧善懲悪的要素が強いものである。
ちなみに魔王討伐後、青年は旅先で育んだ友情を愛情に変え、悪を倒した後多くの美女を自分の妻として迎え入れる展開まであるようだ。自分の旦那にされたら底なし沼のような夫婦喧嘩に発展しそうなこの後日談の展開だが、意外にも世間の奥様方は「この子は器が大きいわね、いい旦那さんになるに違いない」と概ね好感度が高い様子。何故なのか。
作者からの後書きには「私の欲望を全てつぎ込みました。同じ夢を抱いたことのある男性諸兄ならきっと理解していただけると思います。女性の中には私の作品に嫌悪感を抱く方もいるやもしれません。それは申し訳ありません」とある。
なるほど。一夫一妻制をとっている我が国では誰も成すことができず、かつ多くの男性が一度は夢見たであろう一夫多妻という幻想を主人公が叶えてくれるという寸法なのかと妙に感心した覚えがある。
残念ながら私は一夫多妻というものを好まない人間の一人であるが故に、彼らの幻想とも言える夢には全くもって共感できない。……それならば何に対して感心したのか?それは世の男性たちにこの作品が売れた背景に、作者自身の欲望を作品に丸々詰め込んだものが結果として彼らの抑圧されていた欲望と合致した結果あるということである。
興味がないと言って差し支えない本の思考をしているには理由がある。今私は職場にいるのだが、始業前という事もあり準備をしながらも各々で会話を楽しむ部下たちの会話がこぞって、件の本の話で持ちきりだったからである。そんな私を現実に引き戻したのは、背後から聞き飽きた爽やかな男の声が投げかけられたからであった。
「いい朝だなアルベルト。こんな清々しい朝には読書が似合うって知ってるかい?」
30年来の付き合いであるこの友人は流行に常に敏感である。先の挨拶もそうだ。こいつが朝の挨拶でこんな頓珍漢なことを言い出すということは、何らかの本にのめり込んだということだ。今流行っている本といえば例の英雄譚であろう。
「読書の季節は秋が相場だぞレジー。今は春真っ只中だ。俺を現実に引き戻してくれたお礼として、どうやら未だに休暇の気分が抜け切っていないお前を現実に引き戻してやろうか?」
「それは遠慮しとくよ。君の現実への引き戻し方は、いつもいつも物理的でそろそろ頑強が売りの僕でも怪我をしそうなんでね。冗談はここいらにしとくよ」
握り拳をちらつかせると、笑顔で身をさっと引くその早さには目を見張るものがある。こうなることがわかっているのだから、初めから普通にしていれば良いものを……。この中年は年中ふざけていないと死んでしまう病気にでもかかっているのかと疑いたくなるくらいだ。
「冗談は置いておくとして、巷で流行りのその書籍はどうなんだ?最終的に一夫多妻になる展開はお前から聞いたが、物語として面白いのか?」
「一人の女性に一途な君からしてみれば天地がひっくり返ろうとも相入れない部類の書籍ではあるよね。物語としては知っての通り勧善懲悪の展開を地で行き、多くの女性と幸せを共にするというありきたりっちゃありきたりだよね。面白いかって聞かれると、どうかな……。まぁ普通じゃない?」
「普通、か。なるほどなるほど。なら私は読まなくても良さそうだな」
「そうだね。その判断が賢明な判断だよ。さてそろそろ仕事の時間だ、ぼちぼち切り替えようかな」
「その切り替えを仕事以外でもして欲しいものだが、それはもう何を言っても無駄とわかっている」
「脳筋の君にしてはいい判断だね、アルベルト。春は人を馬鹿にするというけれど、君にとっては知能を与える非常にいい季節みたいだね。それが年中続いて貰えると友人の僕としても一緒に仕事がしやすいことこの上ないんだけどね〜」
やはりこの男の口は風船よりも軽い。一度開けば息を吐くように軽口が溢れ出てくる。仕方がないので肝臓があるであろうあたりに一撃を見舞い黙らす。良い感触が手に伝わってきたので、どうやら素晴らしい一撃を見舞うことができたと心の中でほくそ笑む。案の定レジーは「ヴッ……」と一言唸りその場に座り込んだ。鈍いながらも悶絶するほどの痛みが身体中を走っているらしく、よく回る口からは今回は言葉にならない嗚咽しか出なくなっていた。大満足である。
「ロック部長!?何をされてるんですか!?ラーク次長大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だよ、リーシャ君。君は始業準備を続けて?」
「……わかりました」
レジーが想定外の大きな声で唸ったせいで、近くにいた女性職員が血相を変えて飛んできた。本人が大丈夫というため止む無く引き下がるが私を見るその目は非常に険しく、訝しげであることは言うまでもあるまい。事情を知らない人からしてみれば、いきなり私がこいつを殴ったようにしか見えない。半分そうなのだが。無論私でもそんな奴が職場にいれば距離を置きたくもなるし、気味が悪くてしょうがないだろう。まぁそんなんことはどうでもいいんだが。
「さぁて友よ、仕事を始めようか!」
朝からこんなにも気分よく仕事を始められるとは、こんな環境を用意してくれた友には心から感謝しなくてはいけない。