terminal
アルツハイマー型認知症は、脳細胞が病変し破損することによって起きる。
現代の医学では根本治療の方法は見つかっておらず、コリンエステラーゼ阻害薬やNMDA阻害薬による対処療法が行われている。
治験薬NP666GTAAVは、特殊な遺伝子を使って脳細胞を再生させるという、新しいアプローチによるアルツハイマー治療を目的として開発されたものだ。
この薬が画期的なのは作用機序だけでなく、吸入式エアゾルになっているというところだ。患者の周囲に散布しておくだけで自然かつ連続的に投与され、健忘症においてもっとも厄介な薬の飲み忘れを防止することができる。
遺伝子導入剤(GT)は破損した脳細胞でのみ活性を示し、また遺伝子を脳細胞まで運搬し導入するベクターには病原性のないアデノ随伴ウイルス(AAV)が選ばれている。健康な人が吸入しても影響がないので、病人と家族が同居していても使用することが可能だ。
無色無臭透明な薬剤エアゾルには百合の香りがつけられていて、実用化されれば『カサブランカ』と呼ばれることになっている。
NP666GTAAVを開発したのは、俺が医薬情報担当者(MR)として勤務しているナノテックファーマ社だった。
俺が鷹取美緒と出会ったのは、ちょうど治験の第Ⅱ相試験が始まったころだった。
*
「当医院の看護師、鷹取美緒です。今回のフェイズⅡで、治験コーディネーターとしてお世話をさせていただくことになりました。では法令に基づいた説明を行います。この薬は……」
美緒の説明を、俺は上の空で聞いていた。
栗色の長い髪をかき上げながら話す美緒に、俺の目と意識は釘づけだった。
透けるような白い顔に、薄いブラウンの瞳と小さな唇が、絶妙に配置されている。週刊誌の表紙を飾りそうな美女で、白衣を着せておくには惜しい女だった。
「……治験に参加していただける場合には、ここにご署名をお願いします」
本来なら薬を売る側である俺が、治験に参加するにはもちろん理由がある。
俺自身が初期のアルツハイマー型認知症だからだ。
診断されたときは絶望したが、この治験薬の存在を知って希望の灯が点った。なんとしても早く治験を成功させ、厚生労働省の承認をとる必要があった。
だから俺は、フェイズⅡが始まると進んで治験に参加した。そのおかげで、こんな魅力的な看護師とお近づきになれた。
まさに、一石二鳥だった。
俺は迷うことなく、その書類にサインした。
書類を確認した美緒は、ああと色っぽい声を上げた。
「副作用に関する承諾欄にもチェックしてください。発症事例はありませんが、食欲不振、嘔吐、眩暈、幻覚、幻聴、記憶障害、猥褻行動、暴力行動などの可能性があります」
*
俺はすべてを思い出し、そして理解した。
熱病に浮かされたようだった意識が、急速に冷却される。
この記憶障害や体調不良の原因は、あの薬――NP666GTAAVの副作用なのだ。
フラッシュバックした猟奇的なシーンは、ホラー映画やアダルトビデオに触発された幻覚や妄想にちがいない。綾乃を襲おうとしたのだって、薬によって引き起こされた異常行動のせいだ。
なんにせよ、すべてが妄想や未遂で良かったと、俺は胸をなでおろした。
立ち上がって深呼吸をした。
ほのかに百合の香りがする。
視界の隅にはあいかわらず、NP666GTAAVという文字が明滅する。これも副作用の一種だろう。
深江医師が来たら、事情を説明して、処置をしてもらおう。治験もすぐに中止すべきだ。
タオル掛けにバスタオルを吊るし、バスルームの扉を閉めて灯りを消す。
それにしても、深江医師は遅いな。ああそうか、きっと鷹取さんと一緒に来てくれるんだ。
そう思ったときだった。
「サトシ」
また幻聴だ。
俺の背中を、なにかがふっと撫でた。
今度は幻覚か。
振り返ると、タオル掛けに吊るしたはずのバスタオルが、床に落ちていた。
「脅かしやがって」
呟いた声は、なぜか震えていた。
蒸し暑いはずなのに、背筋がぞくっと冷える。
得体の知れない恐怖が、俺に襲いかかってくる。
俺は、首を振って、洗面台を向く。
鏡の中にいる、青白い貌の男と目が合った。
百合の匂いが濃度を増し、 NP666GTAAVの赤い文字が激しく点滅する。
ちくしょう、うっとおしい。
俺の背後で、閉めたはずのバスルームの扉が、ぎいっと軋んで開く。
そして。
闇の中から、美緒の声がした。
「ユルサナイ」
幻聴だ。
自分に言い聞かせる。
なのに、全身を冷気が包み、ぞわりと身の毛がよだつ。
だめだ、もう。
わかっていても、この恐怖から、俺は逃げられない。
俺の背後に、ふっと二輪の白い百合が咲いた。
よく見ようと目をこすった瞬間、それは二本の白くて細い腕になって、俺の首筋をがっしりと掴んだ。
どれほど力が入っているのか、爪が俺の肌に食い込む。
だというのに、痛みはまったくなかった。それどころか、掴まれている感覚すらない。
けれど、俺の身体は身動きもできないほどに、その手によって自由を奪われていた。
心臓が激しく鼓動を打つ。
喉が締め付けられて、声も出ない。
鏡に映った俺の貌が歪み、血走った目が見開かれる。
その真横に……。
ぬうっと、血にまみれた美緒の顔が現れた。
「うわああっ」
かすれた叫び声とともに、身体の呪縛が解ける。
俺は夢中で美緒を振り払う。
だがいくら暴れても、そこにはあるべき質量も手応えもなく、俺の腕は空を切るだけだった。
ドンドン。
どこからか、何かを叩くような重い音がする。
鼓動が早くなり、息が切れる。
鏡の中には、俺と美緒の顔を覆い尽くすように、点滅する赤い文字が溢れている。
NP666GTAAV
NP666GTAAV
NP666GTAAV
くそ、くそっ。
なにもかも、コイツのせいじゃないか。
俺は、美緒の顔と、その文字を睨み返す。
こんな薬を俺に使いやがって……。
カタンと音がして、俺の手が何かを掴んだ。
鈍い光を放つ果物ナイフだった。
鏡の中で、俺の顔が、にやりと歪む。
「しねっ」
俺はそう叫んで、美緒の顔にナイフを突き立てた。
だが。
なんの手応えもなく、ナイフは美緒の顔に吸い込まれる。
美緒の顔が、ふっと嗤ったように見えた。
ナイフを握った俺の手を、美緒の白い小さな手が掴む。
感触はないのに、俺の腕は操られる。
ぬらりと光る刃が、俺の首筋に触れる。
助けてくれ、という叫びは、もう声にならない。
鼓動が激しくなり、冷や汗が背中を流れ落ちる。
ドンドンドン。
また、あの音だ。
さっきよりも激しいような気がする。だが、その意味を考える余裕など、まったくなかった。
ふっと、ささやくような猫なで声が、耳元をなでた。
「オマエガ、シネ」
ザクリ、と。
こんどは、はっきりとした手応えがあった。
鏡に赤い液体が飛び散った。
からん、と音を立てて、ナイフが洗面台に落ちる。
どくどくと脈打つ鼓動に合わせて、どくどくと血が洗面台に流れ落ちる。
目の前が赤くなり、暗くなる。
こんなことが、あっていいはずがない。こんな薬が、世に出てはだめだ……。
俺は、必死に指を伸ばして、鏡に飛び散った血をなぞる。薄れていく意識を繋ぎ止めるように、指が赤い文字を書いていく。
N
P
6
6
6
G
T
A
A
V
だが、美緒の手がふたたび俺の腕を掴み、その掌がぬらりと鏡面を撫でた。
その直後。
俺は、闇に落ちた。