worse
俺は、口の中に溜まっていた唾を、ごくりと飲み込む。
違う。
あれはきっと、ホラー映画の場面だ、いやアダルトビデオの……。
俺はそう思おうとする。
だがそれにしては、あまりにリアルだった。ナイフの手応えも、血液の熱さも。なぜそんな感覚を、俺は知っているんだ。
しかも、あの女は、どう見ても美緒だった。
エアコンから生暖かい空気とともに、むせ返るような百合の匂いが吐き出される。
視界に見え隠れしていたNP666GTAAVという文字は、開き直ったように赤くはっきりと見えている。
「サトシ」
その声が、耳に木霊する。
どこから聞こえているのか、もうわからない。
俺はふらふらと立ち上がって、玄関の扉を確認する。鍵が開いていた。園田さんを送り出した時のままだったのだろう。
俺は慌ててサムターンを回し、ドアチェーンを掛ける。
だが、外からの侵入に備えて、なんになるというのだ。
あれは、この部屋のなかに『出る』のに……。
『出る』
『出る』
『出る』
その言葉が、何回も脳内に響く。
そうだ、やはり『出る』んじゃないか。
園田さんの嘘つき。
バスルームから、生臭い錆びのような悪臭が漂ってきた。百合の香りと混ざり合い、気分が悪くなる。
胃のあたりがむかついたと思ったら、強烈な吐き気に襲われた。
洗面所に駆け込み、身体を折り曲げて、俺は吐き戻した。
蛇口をひねって水を流し、うがいをしたついでに顔も洗う。
バスタオルを掴み、震えが止まらない手で顔を拭う。
生臭い錆びの匂いが鼻をつき、顔を離して見ると、タオルの半分くらいが赤黒く汚れていた。
ひっ、と裏返った声が出た。
まさか、血か……。
美緒の血を吸って、バスタオルが赤く染まる。
そのシーンが過って、眩暈がした。
ふらつく身体を支えるために、思わず洗面台に手をついた。
その拍子に、指にザクリと何かが食い込み、痛みが走った。見ると小さな果物ナイフが、俺の右手の人差し指を切り裂いていた。
なんでこんなところに、果物ナイフが置いてあるんだ。
ポタリ、ポタリ。
洗面台を俺の血が汚していく。
その赤い色を見ながら、俺は思う。
もう、間違いないじゃないか。
バスルームの扉に目を向けた。
すりガラスの向こうは真っ暗だが、うっすらと肌色のモノが透けて見える。
はははははは。
気づくと、俺は乾いた笑い声をあげていた。
犯ったんだ、殺っちまったんだ。
恨まれて、化けて出られても、しかたがないのだ。
どうすればいいんだ、俺は……。
後悔などという高級な感情は湧いてこない。なにも考えられず、ただ呆然と立ち尽くすだけだ。
「サトシ」
バスルームから、かぼそい声が聞こえる。
俺は目を閉じて、耳を塞ぐ。
許してくれ、もう、許してくれ。
「サトシ」
また声がした。
かすれて消えそうな声のくせに、妙にはっきりと聞こえる。それはそうだろう、すぐ近くでしている声なのだから。
え?
すぐ近くから、はっきりと聞こえる、だと?
そのことに気づいた俺は、愕然とする。
俺は……。
とんでもない記憶違いをしているんじゃないのか。美緒を殺したと、彼女は死んだと、なぜ決めつけた?
もしかしたら、まだ息があって、助けを求めているんじゃないのか。
なぜ今まで、それに思い至らなかったのか。
俺は掌を叩き付けるように照明のスイッチを押すと、バスルームの扉を一気に押し開けた。
ベージュ色のユニットバスに、錆びたような生臭い匂いが充満していた。
あまり掃除をしていないのか、床には水垢がこびりつき、排水溝には毛髪がひっかかっている。
だが……。
そこには、女の身体どころか、一滴の血痕もなかった。
どういうことだ、これは?
俺は脱力して、その場に座り込む。
手に触れたバスタオルを拾い上げてみると、洗濯したばかりのように真っ白だった。
なんだ、なんなのだ。
すべては、俺の妄想だったとでもいうのか。
だが、相変わらず例の赤い文字が、視界に浮かび上がるように点滅している。
NP 666 GT AAV
今日のできごとはすべて、この文字からはじまったようなものだ。
ほんとうに、なんなのだこれは。
いや、ちょっと待て。
そういえば誰かが、この文字のことを言っていなかったか?
俺は、今日の出来事を思い出す。
ずっと意味が分からなかったこの文字を、ただ一人だけ、正確に言葉にしたヤツがいたじゃないか。
そうだ、綾乃だ。
あのときの俺は惚けていたから、その意味に気づけなかった。
綾乃は、こう言っていたのだ。
『アルツハイマー治験薬、ナノテックファーマ(N)・プロダクト(P)・ナンバー・トリプルシックス(666)・ジーン(G)・トランスファー(T)・アデノ(A)・アソシエーテッド(A)・ウイルスベクター剤(V)』




