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6/8

worse

 

 俺は、口の中に溜まっていた唾を、ごくりと飲み込む。

 違う。

 あれはきっと、ホラー映画の場面だ、いやアダルトビデオの……。

 俺はそう思おうとする。

 だがそれにしては、あまりにリアルだった。ナイフの手応えも、血液の熱さも。なぜそんな感覚を、俺は知っているんだ。

 しかも、あの女は、どう見ても美緒だった。


 エアコンから生暖かい空気とともに、むせ返るような百合の匂いが吐き出される。 

 視界に見え隠れしていたNP666GTAAVという文字は、開き直ったように赤くはっきりと見えている。


「サトシ」


 その声が、耳に木霊する。

 どこから聞こえているのか、もうわからない。

 俺はふらふらと立ち上がって、玄関の扉を確認する。鍵が開いていた。園田さんを送り出した時のままだったのだろう。

 俺は慌ててサムターンを回し、ドアチェーンを掛ける。

 だが、外からの侵入に備えて、なんになるというのだ。

 あれは、この部屋のなかに『出る』のに……。


『出る』

『出る』

『出る』

 その言葉が、何回も脳内に響く。

 そうだ、やはり『出る』んじゃないか。

 園田さんの嘘つき。


 バスルームから、生臭い錆びのような悪臭が漂ってきた。百合の香りと混ざり合い、気分が悪くなる。

 胃のあたりがむかついたと思ったら、強烈な吐き気に襲われた。

 洗面所に駆け込み、身体を折り曲げて、俺は吐き戻した。

 蛇口をひねって水を流し、うがいをしたついでに顔も洗う。

 バスタオルを掴み、震えが止まらない手で顔を拭う。

 生臭い錆びの匂いが鼻をつき、顔を離して見ると、タオルの半分くらいが赤黒く汚れていた。

 ひっ、と裏返った声が出た。

 まさか、血か……。


 美緒の血を吸って、バスタオルが赤く染まる。

 そのシーンが過って、眩暈がした。

 ふらつく身体を支えるために、思わず洗面台に手をついた。

 その拍子に、指にザクリと何かが食い込み、痛みが走った。見ると小さな果物ナイフが、俺の右手の人差し指を切り裂いていた。

 なんでこんなところに、果物ナイフが置いてあるんだ。

 ポタリ、ポタリ。

 洗面台を俺の血が汚していく。

 その赤い色を見ながら、俺は思う。

 もう、間違いないじゃないか。


 バスルームの扉に目を向けた。

 すりガラスの向こうは真っ暗だが、うっすらと肌色のモノが透けて見える。

 はははははは。

 気づくと、俺は乾いた笑い声をあげていた。

 ()ったんだ、()っちまったんだ。

 恨まれて、化けて出られても、しかたがないのだ。

 どうすればいいんだ、俺は……。

 後悔などという高級な感情は湧いてこない。なにも考えられず、ただ呆然と立ち尽くすだけだ。


「サトシ」


 バスルームから、かぼそい声が聞こえる。

 俺は目を閉じて、耳を塞ぐ。

 許してくれ、もう、許してくれ。


「サトシ」


 また声がした。

 かすれて消えそうな声のくせに、妙にはっきりと聞こえる。それはそうだろう、すぐ近くでしている声なのだから。


 え?

 すぐ近くから、はっきりと聞こえる、だと?


 そのことに気づいた俺は、愕然とする。

 俺は……。

 とんでもない記憶違いをしているんじゃないのか。美緒を殺したと、彼女は死んだと、なぜ決めつけた?

 もしかしたら、まだ息があって、助けを求めているんじゃないのか。

 なぜ今まで、それに思い至らなかったのか。

 俺は掌を叩き付けるように照明のスイッチを押すと、バスルームの扉を一気に押し開けた。

 ベージュ色のユニットバスに、錆びたような生臭い匂いが充満していた。

 あまり掃除をしていないのか、床には水垢がこびりつき、排水溝には毛髪がひっかかっている。

 だが……。

 そこには、女の身体どころか、一滴の血痕もなかった。


 どういうことだ、これは?


 俺は脱力して、その場に座り込む。

 手に触れたバスタオルを拾い上げてみると、洗濯したばかりのように真っ白だった。

 なんだ、なんなのだ。

 すべては、俺の妄想だったとでもいうのか。

 だが、相変わらず例の赤い文字が、視界に浮かび上がるように点滅している。


 NP 666 GT AAV


 今日のできごとはすべて、この文字からはじまったようなものだ。

 ほんとうに、なんなのだこれは。


 いや、ちょっと待て。

 そういえば誰かが、この文字のことを言っていなかったか?

 俺は、今日の出来事を思い出す。

 ずっと意味が分からなかったこの文字を、ただ一人だけ、正確に言葉にしたヤツがいたじゃないか。

 そうだ、綾乃だ。

 あのときの俺は惚けていたから、その意味に気づけなかった。

 綾乃は、こう言っていたのだ。


『アルツハイマー治験薬、ナノテックファーマ(N)・プロダクト(P)・ナンバー・トリプルシックス(666)・ジーン(G)・トランスファー(T)・アデノ(A)・アソシエーテッド(A)・ウイルスベクター剤(V)』

 

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