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develop (2)

 

 がさり、という音が聞こえた。

 俺は反射的に手を引っ込める。

 階段の下、ごみ置き場の前に、レジ袋を提げた老婆が立っていた。まるで不審者を見つけた警察官のように、鋭い視線をこちらに向けている。

 老婆は階段に向かって一歩を踏み出すと、前屈みの小さな身体からは想像もできないほど、ドスの利いた声を張り上げた。


「ちょっと、アンタ」


 しまった、見られていたか。

 俺は焦る。

 しかし老婆は、階段の半ばにいた綾乃の方に、つっかかった。


「あんまり、うろつかないでおくれよ。その人もだけど、こっちも迷惑なんだ。こんど来たら、警察に通報するよ」


 老婆は、男の俺が竦むほどの剣幕でがなりたてる。

 だが綾乃は、平然とそれを受け止めた。そして見た目に似合わない、落ち着いた口調で言い返した。


「できるものなら、そうなさったらどうですか? むしろその方が、あたしたちには好都合ですし」


 綾乃は階段を降りると、形だけの会釈をして、老婆の横をすり抜けた。

 その背中を睨みつけていた老婆は、舌打ちをしたあと俺を見上げて、その顔に人懐こそうな笑いを浮かべた。


「マスコミってヤツは、相手の迷惑なんか気にもしないんだね。九条さん、大丈夫かい?」


 はあ、と生返事をする俺の顔を、老婆がじっと見る。

 今日はよく女に見つめられる日だ。だがどちらかというと、綾乃の方が良かったな。

 ふっと浮かんだ不謹慎な思いを、老婆の言葉が吹き飛ばした。


「その様子じゃ、また記憶をなくしたようだね」




 園田(そのだ)亮子(りょうこ)と名乗った老婆は、俺の名前だけでなく、俺の病気のことも知っていた。

 やっと話ができる相手が見つかったと思った。


「何か知っていたら、教えてもらえませんか」


 俺の質問に、園田さんはすらすらと答えた。

 ここが裏野ハイツという賃貸アパートであること、俺がここに住み始めたのは二年前の春だということ。最近はときおり記憶をなくすことがあって、同じアパートに住んでいる園田さんの世話になっていたこと。

 話が終わるのを待っていたように、俺の腹がぐうと鳴る。園田さんは、アハハと陽気に笑った。


「腹が減ってるんだろ。ちょっと待ってな」


 園田さんが差し入れてくれた食事は、質素だったが美味かった。舌がその味を憶えていたから、たぶんよくご馳走になっていたのだろう。

 だがなぜか食欲がなく、俺はほとんど残してしまった。

 すみません、と俺が頭を下げると園田さんは、気にしなくていいんだよ、と言った。


「あんたは、孫みたいなもんだからね」


 食事を片付けながら、園田さんはちらりと洗面所の方を伺った。

 そして、ぽつりと漏らした。


「気をつけなよ。夏場はとくにね」

「は?」

「風呂場だよ」


 風呂場――バスルームか。

 俺の心に、ざっと波が立つ。

 なんだろう、なにか重大なことを、俺は忘れているんじゃないのか?

 答えを返せない俺に、園田さんがにやりと笑う。


「『出る』らしいからね」


 背筋が、ぞくりとした。

 どこからか、百合の匂いが漂ってくる。

 視界の片隅に、NP666GTAAVという文字が浮かぶ。

 そして、その声が聞こえた。


「サトシ」


 洗面所、いや……バスルームからか?

 あれほどはっきりと聞こえたのに、園田さんは知らん顔をしている。

 俺は恐る恐る、彼女に確かめた。


「いま、聞こえましたよね」

「なにが?」

「女の声ですよ」


 園田さんは、しげしげと俺の顔を見た。それから、ゆっくりと首を横に振った。


「驚かして悪かったね。出るっていうのは、虫のことだよ。このとおり古いアパートだからね」


 園田さんはそう言って、また快活に笑った。

 だが俺には、隠し事をごまかしているようにしか思えなかった。

 バスルームに、なにかあるとでもいうのか。この人は、なにを知っているのだ。

 湧き上がってきた不安を抑えながら、俺は園田さんを送り出した。




 できるだけ早く行く、と言っておきながら、深江医師はまだこない。もうかれこれ二時間以上は経っている。

 もう一度、電話しよう。

 そう思った時だった。

 はっきりと俺の名を呼ぶ、女の声がした。


「悟史」


 声のした方を向く。

 バスルームの扉の前に、闇に浮かぶ百合の花のように、白い服を着た女が立っていた。

 その首筋から下は、まるで血で染まったように赤黒く変色している。

 俺の喉が、ひいっと鳴る。


「み、美緒(みお)?!」


 思わず口走った言葉に、自分で驚く。

 いま、誰の名前を呼んだんだ?


 美緒は浮遊しているかのように、足音もたてずに近づいてくる。

 俺はなぜか、金縛りにあったように、身動きができなかった。

 彼女が俺の背にぴたりと寄り添う。耳もとに、ふっと生暖かい吐息がかかる。

 そして、冷え切った声がした。


「許さないから」


 その声とともに、俺の頭の中に映像が閃いた。



 *


 抵抗して暴れる美緒を、俺はバスルームに連れ込む。

 そしてその口を手で塞ぎ、用意しておいた果物ナイフをその首筋に走らせる。


 ザクリ。

 手ごたえがあって、美緒の身体がビクンと跳ねる。

 噴き出す赤い液体が、白い服と俺の腕を濡らす。

 生臭い錆の匂い。

 その液体は、ねっとりと熱かった。


 呻き声を残して、美緒は床に崩れ落ちた。

 流れ出た血が、ユニットバスの床に広がる。美緒の手が掴んだバスタオルが、血を吸い込んで赤く染まっていく。


 何度か小さな痙攣をして、美緒は動かなくなった。

 

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