develop (1)
俺は動揺する。
女は、ふっくらとした頬が玉に瑕だが、愛らしい顔立ちをしていた。美少女と形容していいレベルに達しているだろう。しかも育ちが良さそうで、すれた感じもない。
知り合っていたのなら、手を出していないほうがおかしい。記憶がないのが、いろんな意味で残念だった。
俺が首を横に振ると、女の顔に失望と落胆と、そして非難するような表情が浮かんだ。
それで確信した。やはり、そうだったか。
しかも、おそらくだが、かなりまずい状況になっているようだ。だがそれは、俺だけの責任なのか?
言い訳を考えはじめた俺に、女はストラップの付いた身分証を突き付けた。
「PRESS」という赤い文字が、俺の目に飛び込む。その身分証には、アメリカの有名な通信社のマークが入っていた。
俺は再び、がっかりする。
女は見かけによらない。こいつは新聞屋ではなく、ブン屋だったのか。
認証印の押された顔写真の横には、ローマ字と漢字で氏名が書かれていた。
「春日綾乃……さん?」
女――綾乃が、こくりと肯く。
前髪がふわりと揺れて、その拍子に石鹸の匂いがした。
「で、マスコミが俺に、なんの用です?」
俺の質問を想定していたかのように、綾乃はバッグからスマホを取り出すと、その画面を俺に向けた。
一時間ほど前の着信履歴に、俺のスマホの番号があった。
あれは、こいつの電話番号だったのか。
「十回コールして切る。それが取材に応じる合図だって、約束だったから」
綾乃の声には、俺を詰るような響きが混じっていた。
そんな約束をした記憶はない、というか、なくした。だが、取材に応じるという名目で呼び出して……くらいの下心があったことは容易に想像がつく。
これはかなりまずい状況だ。しかも、完全に俺の責任じゃないか。
俺が黙り込むと、それを承諾の返事だと思ったのか、綾乃は口を開いた。
「いまから言う言葉のなかで、どれでもいい。あなたが関与したものがあれば、教えてください。……エアゾル吸入式ドラッグデリバリーシステム、アデノ随伴ウイルスベクター、Bc12トランスフェクション、アルツハイマー治験薬NP666GTAAV」
綾乃が並べ立てた言葉は、耳になじんだもののように、俺の頭にすらすらと入ってきた。そして女の声で告げられた「NP666GTAAV」という言葉に反応して、俺の脳裏にいくつかの言葉が思い浮かんだ。
(カサブランカ)
(フェイズⅡ)
(治験コーディネーター)
(鷹取美緒)
鷹取美緒……。
『看護師の鷹取さん』
深江医師の告げた名前を思い出すのと同時に、俺の頭にそのシーンが甦った。
*
「どうしようかなぁ」
かすかに酒の匂いを含んだ息とともに、女がためらいの言葉を吐き出す。
ここまで来ておいて、なにを今さら。酔って男の部屋に一緒に来る、ということは、つまりそういうことだろう。
俺は逸る気持ちを抑えて、最上級のビジネススマイルを向けてやる。
「なにもないけどさ、ちょっと酔いを醒ましていきなよ」
「やっぱり、わるい人ね。そうやって、何人の女の子を泣かせてきたのかしら。いろいろ噂は聞いてるのよ。それに、今は治験中でしょ。こんなことして、いいのかしら」
女は形ばかりの拒絶をする。
だがその目が、媚を売るように俺を見ていることは、とうにお見通しだ。
「大丈夫、影響はないよ。それに、お世話してくれるって、言ってたじゃないか」
「もう。そういう意味のお世話じゃないわよ。あくまでも担当看護師としてよ。でも……」
女は上り框にバッグを置く。
「そうねぇ、じゃあ、ちょっとだけお邪魔しちゃおうかな」
女がしゃがんで、パンプスに指をかける。
俺は、その白い首筋に手を伸ばして……。
*
そこで我にかえった。
何だ、今のは。
俺の記憶なのか、それとも、あのアダルトビデオの内容なのか。もし記憶だとすると、あれからどうなったのだ?
なにかを思い出しそうになるが、深い闇に閉ざされていて手が届かない。
俺は首を横に振る。
「だめだ、わからない」
そうですか、という溜息まじりの女の声がした。
目の前には、じっと俺を見つめる綾乃がいた。
俺は、この女を前にして、あんな妄想をしていたのか。
後ろめたくなって、こちらを見透かすような大きな瞳から目を逸らす。
その視線は、はからずも綾乃の胸元に落ちた。
白いシャツが、豊かな胸の膨らみで持ち上げられている。大きく開いた襟元から、白い谷間とピンクのブラジャーがちらつく。
日はすっかり暮れ落ちていて、あたりには人の気配もない。
羽虫がたかった薄暗い常夜灯が、頼りなげな光を投げているだけだ。
妄想と局所が膨れ上がり、心臓が早鐘のように鼓動を打つ。
『獲物』という言葉が脳裏を過り、俺はごくりと生唾を飲み込む。
「今日は、これで帰ります。でも、もしなにか話してもらえるのなら、また連絡をください」
綾乃の声は、半分も耳に入らなかった。
俺に背を向けて、綾乃は階段を降り始める。無防備すぎるそのうなじに、NP666GTAAVという文字が重なる。
その瞬間、理性が消失した。
俺の両手が、綾乃の首に向かって伸びる。
もう少しで手が届く、もう少しで手に入る。
俺は、興奮を抑えきれない。
そうだ、こいつは……。
俺の獲物だ。