latency (1)
サトシって、誰だ。
それに、なにが許せないんだ?
耳を澄ませてみたが、もう声は聞こえなかった。
ぼろそうなアパートだから、隣の部屋の声でも漏れてきたのだろう。
そんなことより、この記憶喪失をどうにかしないと。
そうだ。
俺はあることを思いついて、リビングに戻った。
九畳ほどのリビングには、壁付けの小型キッチン、白い冷蔵庫、電子レンジが置かれた食器棚があった。
ずいぶん殺風景なインテリアだ。
部屋の真ん中には楕円形のテーブルがあって、ディスプレイを開いたままのノートパソコンが置いてあった。
パソコンの横には、レンタル店のマークが付いたDVDが無造作に積んである。ジャケットを見ると、髪の長い女がうつむいた『サークル』というホラー映画と、白衣の看護師が妖艶に微笑む『猟奇の夜~血まみれの白衣』というアダルトビデオだった。
趣味が悪い。
だが、今はどうでもいい。
そこに目当ての物はなかったので、俺は目覚めた部屋に向かった。
寝室と呼ぶべき六畳ほどの洋室は、その半分をクイーンサイズのベッドが占めていた。
ベッドの反対側の物入れを開けると、スチールパイプが横に渡してあって、半袖のストライプのボタンダウンが数枚と紺のスラックスが二本、ハンガーに吊り下がっていた。たぶん、通勤用の服だろう。
他には、夏らしいポロシャツやカジュアルシャツが数枚と、ベージュのチノパンが掛けられているくらいだ。
わりと地味な服装をしているらしい。
その物入れの中に、目的のものは置いてあった。
使い込んで角が丸くなったビジネスバッグだ。
バッグの中から、ネックストラップに入った社員証を見つけ、俺はほっと一息をつく。
九条悟史。
その名前が書かれた社員証には、さっき鏡で見た顔の写真が張り付いた。
まちがいない、この男が俺だ。
きちんとネクタイを締めた写真の下には、『ナノテックファーマ株式会社 医療薬剤業務課MR』という肩書が添えられていた。
たぶん俺の職業なのだろう。MRってなんだっけと首を捻った拍子に、頭のなかをひとつの言葉が通り過ぎた。
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それは、さっきからちらついている文字と同じだった。
だが、さっぱり意味がわからない。
俺は首を振って、ふたたびバッグを漁った。
社員証に続いて、財布とスマホが出てきた。
財布を開けてみると、数万円の現金が入っていた。カードホルダーには、何枚かのクレジットカードとともに、健康保険証と脳神経外科の診察券が差し込まれていた。
脳神経外科の診察券……。
もしかしたら、俺は脳の病気なのだろうか。この記憶喪失も、そのあたりが原因なのかもしれない。
健康保険証の住所は、東京都港区南青山となっていた。
カーテンを開けて、窓の外を見る。広い墓地の向こう、暮れかけた群青色の空に、六本木ヒルズの森タワーがそびえている。良い眺めなのか、悪い眺めなのか、よくわからなかった。
あとは、これか。
俺はスマホの電源を入れる。暗証番号を求められたので、保険証の生年月日を打ち込んでみる。
あっさりとロックが解除されて、ホーム画面が現れた。われながら不用心なことだが、今回ばかりはグッジョブだと褒めてやりたかった。
液晶画面の片隅に、電話の不在着信を知らせるアイコンが点灯している。
通話アプリを起動してみると、着信は昨日の夕方と今日の午後になっていた。着信履歴は電話番号だけで、もとより相手がわかるはずもなかった。
それでも俺は、藁にもすがる思いで、その番号の通話ボタンをタップする。
一回、二回、三回……呼び出し音は鳴るが、応答はない。十回コールしたところで、俺は電話を切った。
行きづまりだなと落胆しながら、何気なくスマホを裏返した俺は、そこに一筋の希望をみつけた。
そこにはDMの宛名ラベルのようなシールが貼ってあり、『記憶がなくなったら電話』と手書き文字で書かれていた。
その電話番号は、さっき見た診察券の病院と同じものだった。




