infection
甘酸っぱい空気を、俺は胸いっぱいに吸い込んだ。
この香りには、憶えがある。
……。
そうだ、あの花。
白い、大輪の百合――。
カサブランカだ。
*
そして――。
目覚めたら、知らない場所だった。
どうやらベッドに寝ているようだが、天井も壁も見慣れないものだった。
ひどく古びた洋室で、おそらくアパートの一室だろう。窓のカーテンの隙間から、西陽が差しこんでいる。壁掛けのエアコンが、生ぬるい空気を吹き出していた。
知らない部屋だったが、置いてある家具にはなんとなく見覚えがあった。
他人の部屋というわけでは、なさそうだ。
すこし霞んだ目を、俺は腕でこする。
さっきから、半透明の薄い文字のようなものが、視界の片隅に浮かんで見える。
飛蚊症かと思ったが、視線を固定して見ると、それはアルファベットと数字の羅列だった。
NP……666……GT……AAV
なぜそんな文字が見えるのか、なんの記号なのか。憶えがあるような気もするし、ないような気もする。
だが、そんなことより、もっと重大な事実に俺は気づく。
ここはどこだ。それに、俺は……。
記憶を手繰ってみたが、まるで二日酔いの朝のように意識が混濁していて、どうもすっきりとしない。
俺は、ここでなにをしている?
枕元のデジタル目覚まし時計を見ると、時刻は午後六時すぎだった。日曜日という表示を見て、俺はほっとする。
のろのろと身体を起こすと、頭の芯が鈍い痛みを帯びていた。いや、頭全体が痛い。おまけに、吐き気が襲ってきた。
やっぱり、二日酔いか。
昨夜、どこかで深酒をしたのだろう。そして、酩酊した状態で帰宅したに違いない。帰宅、などという言葉が思い浮かんだところをみると、ここは俺の家なのかもしれない。
いや違う、そんなことは問題じゃない。
全身から、いやな汗が噴き出す。
顔でも洗って、すっきりするか。
俺は、あたりまえのような足取りでその部屋を出ると、リビングを通り抜けて洗面台の前に立った。
部屋の雰囲気に似つかわしい、薄汚れた洗面台の鏡をのぞき込む。
鏡の中から、しけた顔をした男が見返してくる。二十代後半くらいで、そこそこに見栄えのする男だ。
これが俺か?
掌で顔をなでると、鏡の中の男も同じ動作をする。掌のざらついた感触が頬に感じられる。
間違いない、俺だ。
ならば、俺は……。
軽く頭を振るが、さっきからいくら頑張っても、どうしても思い出せないことがある。
俺はいったい……。
誰なんだ?
鏡に映る男の顔を見つめながら、俺は何度も自問する。
思い出せ、俺は誰だ?
思い出せ、思い出せ……。
しかし、いつまでたっても、なにも思い出せない。冷や汗が背中を流れ落ちる。
視界の中に、あの文字が浮かんだり消えたりする。
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なんだよ、これ。なんなんだよっ。
くそっと吐き捨てた俺の耳に、ふっとその声が聞こえた。
「サトシ」
ささやくような、女の声だった。
沸騰していた頭が、すっと冷える。
誰か、いるのか?
他に人がいそうな気配はなかった。
けれど。
再び、女の声がした。
「ユルサナイ」