月のおじさん
「月は初めてですかい。」
窓の外には、青く大きな星、地球がくっきり光っていた。灰色のやや丸みを帯びた凹凸の大地が、その下をずっと広がっている。
「ええ、普段は通過するものですから。こちらの方ですか?」
「なぁに、田舎ですたい、なんちゃ、ありませんがね。星空だけは、邪魔する気体がないだけに、ご期待通りに綺麗にみえましょうって。ガハハ」
このおじさんはどうもここに住んでいるらしかった。いまどき、月なんて何もありはしない。何もないところに住んでいる人なんて、やっぱり何でもない人なんじゃないかなんて、そんなこと考えちゃいけないんだろうけど。
ヌメネリノウサギが二、三匹、跳ねたらしい。僕らの近く数メートルのところで、砂がゆっくり舞って数学的な綺麗な軌跡を描いて落ちてゆく。
「月にもいるんですね。ヌメネリノウサギ。」
「ヌメネリ・・・?ありゃ、ツキノウサギですよ。太陽が出ているうちは見えませんが、もうじき、暗くなればぼんやり黄色く見えるはずです。」
なるほど、たしかに、ヌメネリはアステロイドベルトの地名。月にいるならツキノウサギ。環境が違えば生き物も違う。
そういえば、地球にもノウサギがいたっけ。地球のノウサギは、あれはノウサギとは名ばかりで、ノウサギっぽいのは耳がたてに長くて、跳ね回ることだけ。茶とか灰色とかの毛が全身に生えていて、夜より昼の方がよく見える。太陽の光を反射するタイプの生き物だ。跳ねるといっても、あそこの重力じゃ、数センチぽっきりだし。
日が傾き始めた。僕らは結構長い間、田舎っぽい小さな駅舎の電光掲示板の前のベンチで、地球を見ながら話していた。その間に何両か、地球に行くはずの就航便が入ってきて、あたりはビジネスパーソンだとか学者だとかでいっぱいになった。月の車庫には4両しか停泊できないらしいから、僕らが乗っていたトランはさっさと帰ってしまった。着いた時点でホテルを予約しておくべきだった。地球の渡航禁止令は、夜が近くなっても解除される見込みはなく、僕よりずっと要領のいい人たちは、後から来てさっさとホテルを満杯にしてしまった。月のホテルのキャパシティの低さ、もとい、月の尋常ならざる田舎さには心底嫌気がさした。でも、言っても仕方がないことだ。渡航禁止令なんて極めて異例なこと。これを期に月の都市化が進んだり・・・しないか。
おじさんは月極駐車場を切り盛りしているらしい。駐車業。僕のところじゃ、知ってのとおり、まずもって儲かる仕事じゃないし、地球では専業の職業ですらない。でも月では主な産業の一つなんだと。産業って、いったい、何を産み出しているのか、それすらわからなかった。でも、おじさんはお金に困っている風は少しもなかった。
「ヴェイキュルはね、この辺じゃ移動するのになくてはならない乗りモンですわ。でもって、ツキノウサギが、かじるでしょう。あれは、意外となかなか曲者で、まともな家の柵じゃ敵いません。屋根付きの倉庫なんて、高くてここらじゃ買えないですからね。ほかの人に代わってかじられないように守るのがわっしの仕事です。」
「ツキノウサギは高く飛ぶんですね」
「えぇ、そりゃもう、高いものではゆうに100メートルは飛びます」
「そんなに」
「それに、普通の柵じゃかじってやぶってしまいますからね。ええ。」
おじさんのお話はとどまるところを知らなくて、ほうっておけばこっちが聞いていようがいまいがずんずん話していた。やんわり泊まる場所がないことを伝えたら、あっさり泊めてくれることになった。その代わり夜遅くまでおじさんの晩酌に付き合うことになったけど、まあ、悪いことじゃない。それに、月の地酒はなかなか嫌いではなかった。おつまみは月のチーズ。なるほど、月唯一の特産品としてあちこち輸出されているだけあって、格別にうまかった。本場のは、ずっと薄味で、その代わり後味がずっと残った。