お狐さまと月見ちゃん
登場人物:九尾の狐と女子中学生
懐中電灯の白々しい光にすがって、黙々と登る石段の先。狐火の灯る境内にたどり着く。マツムシの合唱に枯葉の絨毯。誰も手を入れない寂れた神社の、古ぼけた賽銭箱の前に、九尾の狐が鎮座していた。
「お狐さま、こんばんは」
言って、お狐さまの隣に座り込む。そろそろお尻が冷たい時期になってきた。なにか対策を練らないとな、なんて考える。
「おや、本当に来たのかい」
「もちろん。ちゃんと許可とって出てきたよ」
どうやらお狐さま、私が来ないと思っていたらしい。その割に点っていた狐火は、ちょっと理由が不明だけど。
まあ、これは優しい人だから。
時刻は六時半。藤の空がじわりと紺に染まり、カーディガンなんかが一枚欲しくなってくる時間だ。
「晴れてよかったね」
「晴れるさ。この日は必ず晴れるんだ。ずっと前からそう決まっているんだからね」
「ああそう。それはいいね」
適当に相槌をうって、持ってきたスクールバッグの中身を取り出す。
魔法瓶、紙コップ、そしてお団子。カーディガンは忘れた。
「お団子は市販の三色団子だけど、お狐さま食べられる?」
「団子は好きだよ。でも饅頭の方が好きだ」
「月見にゃ団子よ。他は邪道。そうやって相場が決まってるでしょ」
なんにせよ食べられるなら良かった。
「熱い日本茶は? 狐は猫舌じゃないんだっけ?」
「動物は基本猫舌だ。それにしてもお前、俺に狐のまま茶を飲めと言うのかい」
「え、やだ、化けるの」
思わず心の声が漏れてしまった。
そっか、確かに前足でコップ持つのは大変だ。化けられると私が大変なんだけど。
「まさかお前、俺が懸想している男に化けたのを、まだ根に持っているのか」
「なっ、違います! 別に好きじゃなかったし、根に持ってなんかないし!」
必死に否定したが、鼻で笑われてしまった。くそ、なんでまだ覚えてるのよ。
「心配しないでも、今のお前の懸想相手なんて知らないさ。北里、だったか。あいつの顔はまだ覚えているが」
「名前を出すな!」
ばっちりじゃないか。私だって彼の顔はもうぼんやりとしか覚えてないのに。
「まあまあ、同じことは二度とはしないさ。それに化けるのも久しぶりだ。さすがに他人の顔になりたいとは思わん」
同じことは二度とはしない。一時期、私に会うたび某○里くんの姿をとっていた人とは思えないセリフだ。
「別に、いいよ」
それでも私が是というまで化けないのがなんとも。
「うん、ありがとう」
笑って、お狐さまの姿が消える。錯覚かと思うほどの一瞬見えなくなって、瞬きすると、そこにはもう男があぐらをかいている。相変わらず早い。アニメのような効果音も、漫画のような小道具も、小説のような呪文もない。狐だったのが嘘のよう。
「最初は狩衣着て登場したのにねえ」
「他に人間を見てこなかったんだから仕方ないだろう。俺の知ってる最新の衣服はあれだったんだ。神社の参拝客なんて目に止めなかったんだから」
昔のことを持ち出すと、むすっとした顔で言い返された。人間の顔は、感情の変化がわかりやすい。
「それが今ではTシャツにジーンズ……。成長したねぇ」
からかって頭を撫でようとすると、なんとお狐さまの頭のてっぺんに手が届かない。しまった。自分の身長が伸びしろなしの159センチだったのを忘れていた。
頭一つ半分高い長身男は、立って見合えばさながら壁だ。
「うん? 撫でないのか」
お狐さまがきょとんとした顔で私を見る。待機してたのか。
「――お狐さまの身長が悔しくなったので撫でません。お団子食べます」
「チッ」
舌打ちされた。なんだこのガラの悪いイケメン。
ともかく、お団子パックの蓋を開ける。三色一本が三本入りだ。
「お狐さまが二本、私が一本ね」
「俺は別に一本でいい」
「片方はお供え物だよ。月よりお狐さまの方がご利益ありそうだし」
そしてお茶。魔法瓶から持ってきた紙コップ二つにお茶を注ぐ。私のはコップを重ねて二重にした。熱さのあまりこぼしたら洒落にならないし。
「はい、お茶。熱いよ」
「……?」
差し出すと、不思議そうに見つめ返された。
「俺のは二重にしてくれないのか?」
生憎とコップの予備はなかった。
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結局二人して一重で我慢することになった。どこかの大人気ない狐が「平等でないのはダメだ」と言って譲らなかったせいだ。素直にお揃いがいいって言いなよ。おかげで熱くて持てやしない。
コップは足元にそっと置いた。
さて、お月見である。東から昇った月は、もうずいぶん高い位置にある。
澄んだ空に映える金色は、『ぽっかり浮かんでいる』というより『上から吊るされている』。こんなに質量のある月光の源が、浮かぶほど軽そうには見えない。
「荘厳だな」
「うん。――お狐さまでもそんなこと言うんだね」
「どういう意味だ」
「お狐さまプライド高そうだし、なにかを荘厳だなんて言わないのかと」
思っても口にしない人だと思っていた。誰かの前で認めるのは悔しい、みたいな。
「お前の中の俺の人格が歪んでいる気がしてならない」
「本物は歪んでないと?」
「今日のお前は口が悪いな」
「月の光のせいだよ」
もしくはお狐さまがそんな姿をしてるせいだ。団子を一口かじって、咀嚼する。
「それにしても綺麗だねえ」
「中秋の名月、というくらいだからな」
「十五夜お月さま、見て跳ねる」
少し節をつけて歌う。昔は音程がとりにくくて苦手だったっけ。
「俺は跳ねないからな。あれは兎だ」
「残念」
お狐さまはもうお団子を食べ終わって、お茶を少しずつ減らしている。全然熱そうじゃない。やっぱり必要ないんじゃないか。一人で二重コップにすればよかった。
「ところでお前、十三夜を知っているか」
「なにそれ? おととい?」
十五夜の二日前のことだろうかと思って言ってみたが、どうやらまるで的外れらしい。笑ってむせたお狐さまが顔を逸した。ふん、背中なんてさすってやらない。
団子の最後の一粒を嚥下して、パックごと鞄にしまう。
「その逆だ。一ヶ月ほど先に、今日に次いで月の綺麗な晩がある。それを十三夜と呼ぶのさ」
「ふうん。十月かあ。寒いね。その時は肉まんも持ってこよう」
「お茶は玄米茶で頼む」
「注文の多い狐だなぁ」
私は普通の緑茶が好きなのに。こっそり梅こんぶ茶でも用意してやろうか。
「その分帰りは家まで送ろう」
「家の近くまでなら乗った」
玄関には表札がつけてあるしね。
さすがに姓名を知られるのは避けたい。腐っても九尾狐。人を化かす悪弧に違いはないし。
「よし、わかった。それでいい」
「交渉成立で」
ほんのり温かい日本茶を飲み干し、立ち上がる。喉がほこほこして気持ちいい。
「じゃあ今日は、このへんでお開きにしますか」
お狐さまにコップを催促すると、彼はちびちびと飲んでいた残りの緑茶を飲み干した。
まだ飲み終わってなかったんだ。
「そんなことよりお前、ご覧よ」
紙コップをこちらに差し出しながら、お狐さまが頭上を指さす。
「月が、あんなにも綺麗だ」
伸ばした指先がかすかに触れている。早くコップを受け取ればいいものを、身じろぎもしない私は阿呆か。
対する彼はどうだ。にこにこと笑って、綺麗だという月を見ようともしない。
これだから化けたお狐さまは嫌いだ。
「……ええほんとうに」
それはもう。
(本当に、怖いくらいに月が綺麗で)