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谷沿いに転々と家屋が建っている。町よりも小さい所は、村というらしい。ふだんは遠巻きに眺めるだけだが、近付いてみると、踏み固めた道が家々を繋ぎ、木の根元に放置されたような農具が並べてあり、野とは違う、明らかな人の領域の気配がした。だが月夜には人っ子ひとりうろつかず、静けさに沈み込んでいた。
「人に紛れて同族が暮らしている。跡は残すなよ、迷惑をかける」
きょろきょろしている少年にラドゥが言う。そして木組みの小屋のひとつに近付いていった。その家は谷にある他の家と同じようなようすで、変わったところはみつけられなかった。人に紛れて、とはどういうことなのだろうとカルフディルは思う。
戸口で家の中に声をかけると、扉がわりに立て掛けられた簀の子に手をかける。とそこでラドゥが振り返り、そこで待っていろ、と指示した。カルフディルは、驚いた。その声音か目色か、雰囲気のなかに、先ほどまでなかった緊張を感じ取ったからだ。
彼はとても素直だった。小屋に入っていく後ろ姿を見送って、よくわからないなりに警戒を強めてその場に立っていた。
道向の茂みにちらりと光が覗いた気がした。それは火だった。覆いを外された灯りが急に燃え上がったように光を放ち、カルフディルの足元にひとつ転がってきた。
「―――子供だぞ⁉」
「惑わされるな、やつらだ!」
声の後に、矢が飛んできた。既に背を向けて逃げ出していたが、鋭い風切り音が耳を掠め、心臓が縮む思いがした。だがこのところそういう目にばかり遭ってきた身体は動揺したようすもなく駆けて逃げ続けた。
幸いなことに、谷の出入口は封鎖されていなかった。陰になっていてかつ追手を見張れる場所を探し出し、ひと息つく。右腕に矢が当たっていたのか、抉れた傷になっていた。見てから、ああ痛い、と思う。
高いくちぶえと、犬の吠える声。猟犬なるものの存在を少年は知らなかったが、近付く吠え声に危機感を覚える。相手が犬ならば、物陰に隠れてもあまり意味がない。右腕を庇いながら谷と反対の方向へ走る。
いつか追いつかれるのはわかっていた。臭いで後を追ってくるやつを撒くには、同じような臭いが沢山あるところか、臭いを辿れないようなところを通るか。どちらも無理そうだ。ここは人が少なく、起伏と灌木だらけの土地だった。
大きめの岩を回りこんだところで、立ったまま休む。腕の傷を押さえていた手がぬるぬるするので上着の裾で拭う。布についた血を見ても、意外と出てる、と変に冷静な感想が出てきただけだった。それより、ナイフをしっかり握れるかが重要だ。言われたとおり、片手で止め紐を外せるようにしておいてよかった。
やたらと吠える犬は、カルフディルの姿を確認するとまた吠えた。その背後から揺れる灯りの光が差す。人間を連れてきたのだ、と猟犬の役割を悟る。
だが一番に差し迫った脅威は犬それ自身にほかならなかった。歯を剥いて唸り、まさにとびかからんとしている。円くてぎらぎらした瞳。以前なら、たちむかうどころか注意を引かないよう避け続けるのが、その生き物との関係だった。でもこの犬は町の野良犬とは違う。そして少年も、逃げるだけの生き物ではなくなっていた。
どちらが先だったのかは、わからない。片足を開き、重心を乗せた。同時に四ツ足も地を蹴った。犬は蹴りの回転の内側にとびこみ、頭を膝で弾かれた。
膝蹴りが決まっても、残念ながら飛び掛かってきた勢いまで弾きとばすことはできなかった。カルフディルは押し潰され、もつれあって倒れる。怪我をしている腕を下敷きにしてしまい、腕ばかりかしびれるような衝撃が全身を打つ。
横倒しに腹に乗っている犬が足をばたつかせて起き上がろうとするのを感じて、正気に戻る。それはほとんど、反射そのものだった。痛みに震えている場合ではないと、痛みは無視できるものだと、身体に叩き込まれた経験が知っていた。これは、ナイフの間合いだ。逃がさない―――右腕と脇を使って犬の首を捕まえる。この道具はそうやって使うのだと教えられ、覚えさせられた通りに振るう。毛皮に覆われた体を押さえつけ、刃をねじ込む。
悲痛な声をあげた後、犬は力尽きて動かなくなった。少年の体力も尽きてしまって、腹の上からどかせられない。無様にじたばたしているところを狙われたら為す術がない。
まばゆい照明を手にした人間が岩陰から現れた。その首が折れ曲がり、ぱたりと倒れる。そこに亡霊のように忽然と、恐ろしいけれども今や拠り所となっている存在が立っていた。ラドゥを目にしてとうとう気力の抜けたカルフディルは、五体を投げ出した。