金色の世界
「金色で」
そう言った少女の目は何かを訴えるような、そんな目だった。
大学に入って初めての春休み。長期休みは夏休み以来だから二回目だ
。そういえば前の夏休みは何をしていたっけ? 普通に学校がある時には欲しくて欲しくてたまらなかった休みも、日数でいうと約六十日、期間は約二か月もの長い時間があれば、それほど価値があるものと思うことはできなかった。
それは都内の私立大学に通う朝倉有希にとっては気が遠くなるほど長い長い時間だった。今日もまた、有希にとってなんでもない一日が始まる。地元の静岡から一年前に上京してからというもの、有希はまるで独りだった。もちろん、独り暮らしという物理的なこともあるが、それよりも独りぼっちだった。
一年と少し前、有希は高校三年生だった。その頃からすでに「独りぼっち」のカウントダウンはすでに始まっていたともいえる。
静岡のそこそこの進学校ともいえる花宮高校に属していた有希の前には大学受験という壁があった。進学校ともいえる所以で、生徒のほとんどは大学、それも国公立大学進学を目標に掲げていた。
それは教師も同じだった。高校二年の三学期の始業式には「お前たちは高校三年ゼロ学期であるという自覚をもて」と、学年主任がガミガミとがなりたてるのを体育座りをして下から眺めていたし、高校三年になったら、いよいよ受験シーズン開幕だといわんばかりに、有名国公立大に進学した我が校卒業生を前にへこへこと頭を下げて、ありがたい話とかいうものに、耳を傾けてみたりした。
担任は「受験は団体戦だ」などと言って、クラスの士気を高めようとした。でも、有希に言わせてみれば、そんなもの意味なんてなかった。受験なんて運だ。
もちろん、それなりに努力はしたし、自分の力が足りないと知った時には、予備校に入校したりもした。受験勉強にくじけそうになった時は、憧れのキャンパスライフを夢見て自分の甘えと闘ったりもした。
しかしそんなものは至極当たり前のことで、花宮高校の生徒はみんなしていることだ
。いや、大学に進学しようとしているすべての受験生たちがやっていて当然のことだった。そしてそれは、有希にとっても普通のことでそのことに不満をもったことはなかったし、苦しむこともなかった。
「このまま勉強を続けていれば、静岡大学狙えますよ」
高校三年の夏休み前、それはちょうど一学期終業式が終わって三時間が経った時だった。厳しいことで有名な三年一組担任の女教師、相田先生と有希、有希の母親の三人はこの暑苦しい教室の中で三者面談をしていた。教室の外ではセミがこれでもかというくらいにうるさく声を張り上げていた。
この夏は去年よりも平均気温が二度も高くなっているらしい。それなのに、花宮高校では節電方針が固まっているらしく、教室のクーラーは設置してあるにも関わらず使用禁止で、それは三者面談という非日常の空間でも徹底されているらしかった。
「私、静岡大学に行きたいんです」
有希は目の前の机の木目を目で追いながら相田先生に訴えた。
「この子本当に静岡大学なんて行けますかねえ」
母親が不安そうに呟いた。その後、少しの沈黙が流れた。
相田先生は有希が今まで受けてきた模試の結果とにらみ合い難しい顔をしばし続けた。
「うーん、今の状態では正直厳しいですね」
有希と有希の母親はあからさまにがっかりした様子を見せた。
「ですが」
「このまま勉強を続けていれば、静岡大学狙えますよ」
「私は今まで多くの生徒を見てきました。うちの高校から静岡大学に進学した生徒もたくさんいました。有希さんと同じような生徒もいましたよ。あなたはこれからも心配せずにあなたのやり方を続けなさい。お母様もあまり心配しなくていいですよ。お子さんは大丈夫です」
三者面談を終えてから、すぐに高校生活最後の夏休みは始まった。それはとても長く永遠にでも続くのではないかと感じられたが案外あっけなく終わった。
そんな中でも有希がすることは変わらなかった。学校がある時と同じ時間に起きて、朝食を食べ、予備校に向かい、授業を終える。その後まっすぐに家に帰ってきて、寝るまで少し復習。そして就寝。そんな毎日は決して楽しかったわけではないが、誰もがやっているのだ、と、自分を納得させていた。
そして、これはつらいだけでもなかった。有希はある少女に出会う。
「初めまして、朝倉さん。私、昨日からこのクラスに来てる朝比奈涼子。これからよろしくね」
予備校には多くの受験生が来ている。毎日新しい人が増えたり、その一方で受験戦線から離脱していったり、そんな感じだった。
だが、予備校は友達をつくるところではないので、周りの人間がどうなろうと、関係はなかったし、周囲の人間とかかわりを持つことを考えたこともなかった。
そんな有希に話しかけてくる人は、今までになかった。この朝比奈涼子を除けば。
「朝倉さんと苗字近いから、分からないことがあったら朝倉に聞きなさいって室長さんに言われたから、声かけちゃった。ごめんね、勉強中だった?」
涼子はちょうど一限が始まる前に声をかけてきた。ぱっちりの二重に大きな栗色の瞳、褐色のよい肌に、少し茶色味がある猫っ気をポニーテールにして高く結んでいる。これが美人という生き物なのか、と、有希は思った。
まるで住んでいる世界が違う。有希は学校のクラスメートたちが自分のことを「地味で根暗」と言っていたことを知っていた。有希が「地味で根暗」なら、涼子は「派手で根明」。例えるなら光と影だった。有希は涼子のことをなにも知らないのに、一目見ただけでそう思わせる何かが涼子にはあった。
「朝倉さん、どこの高校?」
「花宮高校」
「そうなんだ、私は鈴ヶ崎女子高校なんだよね、割と近いかも」
鈴ヶ崎女子高校は花宮高校から一番近い高校で、県内有数のお嬢様高校だった。
花宮高校が公立であるのに対し、鈴ヶ崎高校は私立であり、学費も高い。有希と涼子はまったくの違う世界の住人だった。そこまで話したら、都合よく始業を知らせるチャイムがなった。涼子は自分の席に着き、有希は教科書をめくった。
有希が涼子に話しかける用事は特になかったし、涼子はクラスの中で気の合う仲間を見つけたらしく、二人がもう一度かかわることはまるでなかった。しかし、ある事件が起こる。
六限の授業が終わり、有希は室長に挨拶をして予備校を出た。
そして、帰路についたのだが、そこで眼鏡を忘れたことに気付く。普段は眼鏡をしていなかったのだが、予備校で黒板を見る時に使用していた。明日も予備校に行くのだから別にいいか、とも思ったが、誰かにとられたりしたら面倒だし、幸い、予備校からそれほど離れてもいなかった。
外はそろそろ暗くなってくる。急いでとりに戻ることにした。
有希が通っている予備校はクラスごとに時間割が違っていて、有希たちのクラスは今日は六限までだったが他のクラスには七限までのクラスもあった。
だから、予備校はあいている。教室は電気が消えていた。急いで走ったので息が乱れていたが、構わずに扉を勢いよく開けた。
涼子がいた。正式には下着姿の涼子に室長らしき男が覆いかぶさっていた。
涼子と目が合う。男が振り向こうとした瞬間、有希はすぐさま逃げた。もう眼鏡なんてどうでもよかった。見てはいけないものを見てしまった、と、思った。電気が消えていたのではっきりとは見えなかったが、あの黒いシルエットは確かに涼子だった。
そして、これから何が行われようとしていたのかを悟った。有希にはそんな経験がなかったので、詳しくは分からなかったが、一般常識的に理解することだけはできた。そして一瞬目があった涼子のいやらしい目を思い出した。
予備校に行きたくないと思ったのはこれが初めてだった。前日に見た光景を忘れようとしても、嫌でも思い出してしまう。眠りについたのはいつもより二時間も遅かった。
それでも朝はやってくるし、予備校に行きたくないなどと駄々をこねるという選択肢は有希にはなかった。寝不足で働かない頭を無理やり働かせて予備校へ向かった。
有希が予備校に着いたのは始業十分前といつもより遅かった。涼子が予備校の仲間と談笑している姿が視界にうつった。涼子は有希を見つけると一瞬顔をこわばらせていた。
やはり、昨日の出来事が事実であったことを示していた。有希は何事もなかったかのように席に着き、その後の授業を淡々とこなした。その日は七限までの授業日だった。授業中に特に変わったことはなかったが、いつも座っている最前列の席に後ろから痛いほどの視線を常に感じていた。
違和感だった。そして、その違和感の正体に、有希はうすうす気づいてはいたので、振り向くことはなかった。とげとげしいまでの視線を感じていた有希は心の隅で、早く授業が終わることを望んでいた。
「朝倉さん、ちょっといい?」
それは、七限の授業が終わり、予備校から人がパラパラと帰りかけていた時だった
。有希が、授業中に分からなかった部分を先生に聞きに行ってきて帰ろうとしていた時に涼子に話しかけられた。二人が会話するのは、涼子が自己紹介をしてきたとき以来だった。
「なに? もう帰ろうと思うんだけど」
心の中では動揺していたのに、うまく隠す。
「時間はとらせないわ。少しいいかしら?」
有希は話し方がお嬢様だなあ、と、思った。上品で、やっぱり涼子はかわいかった。
「単刀直入に言うけど、昨日の放課後にアレ見たの朝倉さんだよね? 違ってたら本当に申し訳ないんだけど。暗くてよく見えなかったしね」
「・・・」
「何も答えないってことは図星かしら? でもよかったわ、朝倉さんで。朝倉さんなら誰にも言わなさそうだし」
「私と室長が何してたか分かる? 朝倉さんには分からないかもしれないけど。イケナイことをしようとしてたの。でも、あなたに見られたから、昨日は何もしてないわ」
「そう、私には関係ないし、誰にも言わないから、帰っていいかな?」
有希は昨日見た室長らしき男の正体が室長だったことがとてもショックだった。
「もうちょっと聞いて! あのね、私は好きであんなことしてたわけじゃないのよ。そこだけは誤解されたままじゃ嫌だったの。
そういえば、朝倉さんは志望大学はどこかしら? 私はずっと静岡大学に行きたかったの。この予備校を選んだのも静岡大学合格者を多数輩出してるからよ。
そして、この予備校に入ってから、もう一度予備校のパンフレットを見てみたの。そしたら、このクラスの室長は静岡大学の教育学部の学生だった。私が行きたい大学の行きたい学部。そして、現役の大学生。まだ大学生なのに室長を任されてるなんて優秀なのに決まってるわ。
だから私は室長に大学の話とか受験の話教えてくださいって言ったの。そしたら、室長はね、『それはお前次第だなあ』なんて言うの。だから・・・だから、ああするしかなかったの。私は本当に静岡大学に行きたかった。ただそれだけなの」
涼子はその場で崩れてシクシクと泣き出した。有希にはどうすることもできなかった。ショックだった。自分も静岡大学の教育学部に行きたいと思っていた。
だが、そこの学生は立場を利用して女子高校生に淫行しようとしていた。自分の中での憧れはガラガラと崩れ落ちた。
涼子の話を全面的に信用していたわけではなかったが、室長を見る度に、あのいやらしい場面が脳裏を巡っていたため、有希にとってもはや予備校に行くことは苦痛でしかなかった。
勉強ができるような環境ではなかった。やがて、室長に対する嫌悪感と吐き気がとまらなくなったため、有希は予備校をやめた。母親にやめる理由を聞かれたが、理由を述べることはなかった。
予備校をやめてから数日は部屋でボーっとしていた。有希はそれこそ涼子のように静岡大学に行きたいと強く願っていた。思い込んでいた。
もはや、大学に対する憧れはミジンコ程度にしか残っていない。そうであるのに、大学に行く意味はあるのだろうか。自分が大学に行きたいと思っていたのは周りがそうするから、結局のところ、流されていただけなのだろうか。そんな周囲に影響されてばかりの人間に高い学費を払わせていいのだろうか。あの程度のことがあったからと予備校をやめてしまうような自分は弱い人間なのだろうか。
あの程度で憧れが消えるほど、自分の願いは弱いものだったのか。ぐるぐると考えていたら、勉強をする気力は失せ、気付いたら眠っていてやがて朝を迎えていた。
「お母さん、私に大学行ってほしい?」
数日考えて久しぶりの親子の会話だった。
「いきなり、どうしたのさ。そうねえ、お母さんは大学に行ってないけどね、お父さんは賢いし、有希も賢くて勉強頑張ってるんだから、行ったらいいと思うよ。
大学は楽しいところなんでしょう? いいなあ、お母さんもお金があったら行ってみたかったわねえ」
母親の話を聞いて自分が期待されていることを知った。
ここで気が変わったなんて到底言えなかった。有希は母親の期待を受け新しい予備校を見つけ出し、通うことにした。
やがて、夏休みは終わり、学校が始まった。授業は復習中心になり、クラスの雰囲気がピリピリと張りつめていた。誰もがクラスメートをライバルだと考えていて、クラスは険悪なムードに包まれていた。
有希は涼子の事件でいくらかモチベーションを削がれ、室長と室長の属するところに対する不信感を募らせていたが、それでも一か月に一回行われる模試がある時には「第一志望」の欄に「静岡大学 教育学部」と、書き込み続けた。
そして、「なぜ、大学に行きたいのか」を考えることをやめ「大学に行くことは当たり前のことだ」と、思い込むようにした。臭いものには蓋をする、そんな感じだった。
ある日の職員室には、相田先生に相談を持ち掛ける有希の姿があった。
「相田先生、すみません」
「朝倉さん、どうしました?」
「あの、静岡大学に似ている私立大学はありますか?」
「志望校を変えるってことですか?」
「いえ、ちがいます。ちょっと気になっただけです。私、滑り止めのこととか全然考えてなくて」
「なるほど、分かりました。資料を持って行くので、職員室前の面談室で待っててください」
国公立こそ至高と考えている花宮高校で私立大学について尋ねてくる生徒は珍しかった。
だがしかし、滑り止めのことを考えない人は教師でも生徒でもいなかった。殺風景な面談室の椅子に有希は腰をおろした。しばらくすると、相田先生が入ってきて有希と対面した。
「似ているっていうのはどういったところが似ているってことかしら?
たとえば、偏差値とか校風とかあるけれど」
「そうですね、校風が似ているところがいいです」
「分かったわ、そうねえ、やっぱり国立と私立だから、多少は違って当たり前なんだけど、私はこの大学がオススメよ」
それは、東京都内の私立大学のパンフレットだった。
「東京ですか、遠いですね」
「そうね、独り暮らしをしたい人たちが行ってるわ。偏差値もそんなに低くないし、朝倉さんのレベルの人が滑り止めにいれておいてもいいと思うわ」
「そうですか、考えておきます。このパンフレットもらっていいですか?」
「構わないわ。それと、明日の朝会で前回の模試の結果を返そうと思っていたんだけど、朝倉さん、よかったわよ。夏休みの成果がでてきてるみたいね
。静岡大学も射程圏内だから、私立は気休め程度でいいわ」
「ありがとうございました。失礼します」
有希はパンフレットを抱えて面談室を後にした。
やがて冬休みを迎え、センター試験まであと数日となった。国公立大学に進学するためにはセンター試験でいい成績を修めることが必要不可欠だった。
有希は冬休みはセンター試験の勉強に八割、静岡大学の二次試験に一割、相田先生が教えてくれた都内の某私立大学の試験に一割ほどと分けて勉強をした。
受験生にはクリスマスもお正月も関係ない。雪が降る寒い日も予備校へ向かった。最後のラストスパートだった。
そして、センター試験当日、それはとても寒い大雪の日だった。
ニュースでは電車が一時運休を知らせている地域もあり、受験生にとっては厳しい環境だった。この日は社会二科目、国語、英語の試験があった。有希たち花宮高校の生徒は一番近い静岡の私立大学がセンター試験会場だったため、電車の運休情報に悩まされることはなかった。
有希は自転車でも十分に行ける距離だったのだが、母親が心配して、車で送ってくれた。
「頑張ってね。有希が頑張ってたの知ってるから。終わったら連絡頂戴ね。迎えに行くから。あと、鞄にチョコいれといたから、食べてね。あと・・・」
「お母さん、大丈夫だから。行ってくるね」
校門の前には叱咤激励する近辺の高校の教師たちとそれを受ける制服姿の高校生がずらりと並んでいた。その中には、涼子が通う鈴ヶ崎女子高校の制服を着た女生徒も見かけた。有希はあの事件を思い出して鬱々とした。できれば思い出したくはなかったことだった。
さりげなく周囲を見渡して涼子の姿を探すが見つけることはできなかった。
「はじめ!」
この合図で一斉に試験が始まった。最初の科目は社会だった。
受験生たちが問題用紙をめくる音と鉛筆を走らせる音が不協和音のように試験会場に響いた。どの受験生も必死だった。高校生活の集大成をぶつけるような殺気だった空間だった。
そして、それは国語、英語と終わるまで続いた。張りつめた時間が緩んだのは既に日が落ちていた時だった。
「お疲れ様でした。これでセンター試験一日目は終わります。明日も頑張ってください」
試験管の言葉で受験生たちは帰り支度を始めた。有希はスマホの電源を入れて、母親の迎えを呼んだ。そして、校門前で母親を待っている時、有希は再会を果たす。
「久しぶりね、朝倉さん」
それは偶然の産物だった。涼子は制服がとても似合っていた。
夏休みとはなにも変わっていなかった。
「久しぶり、朝比奈さん」
「今年の国語少し難しかったね。朝倉さんはできた?
私はちょっと怖いかも。自己採点はしないけどね。明日もあるし」
「そうね、ちょっと傾向が変わってたかもね」
「だよね、あ、迎え来たから帰るね。お互い行きたいとこ行きましょ」
涼子は有希に予備校をやめたことについて聞いてくることはなかった。
涼子にとって有希はそんなに重要な人間ではなかった。涼子は父親と思われる男性が乗っている車に乗って一足先に帰っていった。
やがて、有希の母親も迎えに来て、その足で今晩のごはんのおかずを買いにスーパーへ向かった。
センター試験二日目の日には雪もだいぶんマシになっていた。有希はこの日も母親の車で試験会場へ向かう。二日目は数学と理科の試験があった。
有希は今までの勉強を思い出し、正確にマークをして見直しすることも忘れずに自分的には最大限の力を使い切った。試験を終えた有希は疲れ切っていた。
土曜日、日曜日とセンター試験を終えた有希たち高三生の次の日の月曜日は運命が決まる日とも言える。毎年センター試験の次の日には、自己採点という行事が待っている。
センターの次の日には朝刊に答えが記載されるので、家で自己採点を済ます受験生も多かったが有希は敢えて自己採点をせずに学校へ向かった。教室の中のクラスメートたちは殺伐としていて、クラスの雰囲気は過去最高レベルに悪かった。
つまり、そういうことなのだろう。自分の席についていると、隣のクラスメートたちの声が聞こえてきた。
「私、数学低かった、どうしよう、静岡行けんかもしれん」
「え、まじで、数Ⅱ難かったもんな。私もやばい・・・」
そんな会話が聞こえてきても有希はまったく動じることはなかった。「朝倉さんには感情がないよね」と、言われていることは知っている、有希は感情がないわけではない。ただ、感情が表にでにくいだけで、この時にも内心ドキドキしていた。
ホームルームが終わり、自己採点の時間が始まる。クラスメートたちの顔はより一層厳しくなった。どこからともなくかすかな舌打ちや悲鳴、すすり泣く声などが聞こえてきた。
有希は淡々と答え合わせを進めていった。有希の結果はまずまずの出来で、模試の判定通りという感じで、とりあえず安堵の溜息をもらす。静岡大学を狙うことは十分可能だった。
次の日は、模試の自己採点の結果と照らし合わせての最終面談が行われた。一人ずつ担任の相田先生と面談する。
本人の希望と合格の可能性、先生の長年の勘が頼りになってくる。ここで前期に出願する大学が大いに変わる受験生は少なくない。それはランクダウンもランクアップもあり得る話だった。
「朝倉さん、次呼ばれてるよ」
出席番号順に呼び出されるので、有希の番は早かった。
相田先生がいる面談室へ向かう。扉の前に立って深く息を吸い込んだ。
「朝倉です。失礼します」
「どうぞ」
有希は机の前に置かれたパイプ椅子に腰かける。
「じゃあ、あなたの志望を聞かせてもらおうかしら」
有希は太ももの上に置いた手を強く握りしめた。
「・・・」
「どうしたの? あなたのセンター試験での得点率を見れば、静岡はかなり余裕よ。
静岡ってことでいいのかしら?」
「・・・」
「じゃあ、出願方法と二次試験の傾向について話すわね。まず、出願方法のことなんだけど・・・」
「先生」
「なに?」
「私、静岡大学には行きません。先生が教えてくれたあの私立にセンター利用で行きます」
「え? あなた、本気で言ってるの? 成績のことなら大丈夫よ
。あなたなら二次試験も難なくスルーできるしセンターも悪くない」
「いえ、決めました。静岡には出願しません」
「どうして?」
「・・・」
「・・・そう。分かったわ。受験するのは私じゃなくてあなたたちなんだから、本人の意志を尊重する。でも、もし、気が変わったら教えてちょうだい。
明後日が出願最終日だからそれまでに連絡すること。分かった? じゃあ、センター利用の話だけど・・・」
有希は結局静岡大学に行くことをやめてしまった。原因は涼子と室長の、あの光景だった。
忘れることができなかった。そして、相田先生が言う「もし、気が変わったら・・・」ということもなく時間は過ぎていった。時間は残酷にも流れ、出願期限を迎えてしまった。
そして有希はセンター利用で都内の私立に合格し、合格通知を受け取った。
合格を報告に行った時、相田先生は少し困ったような表情をしていた。それだけ有希に期待していたということだろう。
やがて、卒業式を迎える。この時ばかりは「感情がない」と言われている有希にも迫りくるものがあった。高校での三年間は決して楽しいものではなかったが、それでも花宮高校に来てよかったと感じた。
学び舎に感謝をして、お別れをした。
そんなことがあって、朝倉有希は今、大学一回生での春休みを迎えている。大学に入学してすでに一年が過ぎようとしていた。
本当なら大学生らしく長期休みを満喫してもいいはずなのに、有希の心中は穏やかではなかった。その理由は一週間前に遡る。
一週間前の有希はレポート提出のために、大学図書館にこもっていた。
大学の課題はとんでもなく大変で有希は苦労していた。大学に入ると高校の時とは違って視野が広まり、いろんなサークルや団体に所属していた有希は多忙そのもので、「大学デビュー」していた。
そんな有希の前に信じられない人物が現れた。
それは、朝比奈涼子だった。
第一志望は静岡大学だと言っていた涼子だった。
有希は思わず立ち止まってしまう。遠目に確認したので定かではないが、あのオーラは絶対に涼子だと言う確信があった。
外見は高校生の時よりもさらにかわいくなっていて、服のセンスもアップしているみたいだった。涼子は友達と談笑しながら、本棚の影に隠れていった。有希は見間違いであることを願った。
涼子がここにいることは想定外だった。
それからの有希は課題に集中しようとしても、集中することができず、モヤモヤとしたままだった。
いったん休憩をして落ち着こうと考えて、有希は図書館を出て、食堂へ向かった。
食堂で食事をしていると、またしても涼子に会ってしまった。
大学に約一年通っていて、その存在を確認したことはなかったのに、一日で二回会ってしまうなんて、今日はたまらなく運が悪い、と、有希は思った。
さらに運が悪いことに、今度は図書館で会った時と違って、お互いを認識していた。一人で食事をしていた有希の元へ、涼子が走りよってきた。
「え、朝倉さんだよね?」
「・・・」
「ちょっと―、無視しないでよ。朝比奈涼子だよ。分かる?」
「・・・分かる」
「一緒の大学だったんだね、あ、私も今一人だから、隣いい?」
「あ、うん」
「へえー偶然だね、そっかそっかあー」
「なんで」
「え、なに?」
「なんで朝比奈さんがここにいるの? 静岡大学に行ったんじゃなかったの?」
「私はここが第一志望よ」
「は?」
「私はずっとこの大学に行きたかった」
「あなたは・・・あなたは静岡大学の情報が欲しくて室長と・・・」
そこまで言うと、涼子の顔は青白くなった。
「どういうこと?」「答えて」
「・・・」
「ねえ、早く答えなさいよ!!」
有希の声は大きくて、涼子の肩がびくついて見せた。
有希はめったに大きな声を出さないので、自分でも驚いた。
「ごめんなさい。あれ、嘘」
「なんて?」
「だから、あれ嘘なの。私が室長に迫った。お願いしてやってもらってた。
大学生って大人で恰好よく見えてた。でも、朝倉さんに見られてそんなことする女の子だって思われたくなくて、とっさに嘘ついた。ごめんなさい」
有希はなにも話すことができなくなった。
「・・・る」
「朝倉さん、怒ってる?」
「帰るわ、さようなら」
食べかけのメンチカツなんてどうでもよかった。有希は一人になりたかった
。家に帰って有希は自分がやってしまったことの大きさを後悔した。有希は先生や母親の期待を裏切ってまで東京に出てきたのに、すべてを無駄にしてしまった気がした。
次の日はなんとなく大学を休んだ。
その次の日はなんとなく行かなかった。
有希が大学に行かないことは珍しかった。レポート提出期限は近いのに、いっこうに進むことはなかった。大学にいた時間すべてを否定されたような気がして何もやる気がなかった
。スマホには連絡が大量にきている。そういえば、サークルの会議がある日だった。だが、そんなことどうでもいいと思えるほど、有希は疲れていた。
結局春休みが始まるまでの数日間、有希は大学へ行くことはなかった。
レポートは家で適当に完成させたものを提出した。有希は憔悴しきっていた。自分の部屋に閉じこもって自分を責め続けた。人を簡単に信じてしまった私が悪い、と。
久しぶりに部屋をでた。向かう先は美容院だ。
何日も他人と話していないため、美容師とうまく会話できない。
「あの、カラーをお願いしたいんですけど」
「はい、どういったお色をご所望ですか」
「金色で」
有希は真っ黒の黒髪を脱色し、金色に仕立て上げた。有希はもう以前の有希ではない。もう誰も信じない。
ブロンドの髪をした若い少女はフラフラと美容院から姿を消した。