1日目_02
髪から滴るほどに灰緑色の雨を浴びた人間は、最初の兆候として頭髪が錆色に変化し、強烈な寒さを訴え震え始める。
その後徐々に行動不能な状態に陥り意識が完全に途切れると、頭部から順に下肢にかけて皮膚が青緑色に染まり、ゾンビとなって再び動き出す。
それまでの人格は消滅し、肉体は生命活動を停止している。
『love or death』公式解説ブックより。
◇◆◇
激しい雨音の響く薄暗い廊下を一人歩く。
降り出した雨の色が異常だったため、教師の判断で校内にいる生徒は第二体育館に集合することになった。校内アナウンスに従って撤収作業をする生徒会役員たちに断って、一足先に体育館へと向かう私。教室に置いてきた荷物は、同じ文化祭実行委員の友達が一緒に持ってきてくれるとスマホにメッセージが入っていたので、お言葉に甘えた。
ときおり閃く稲光に驚き、遅れて轟く雷鳴に背筋を震わせる。現実に置き換わったゲームの世界はもとの何倍も恐ろしくて、単独行動を後悔したけれども、これもすべてはイベントのため……
『ラブデ』には、主題歌付きのスタッフロールが流れるエンディングが八種類ある。どのエンディングも大なり小なりの犠牲はあれど主人公や相手キャラは健在なので、概ねハッピーエンドと言えるだろう。
人命優先を目標に掲げた私だけれど、やみくもに行動するよりは先の展開がある程度読めるシナリオに沿った行動をすべきと考えた。
となると、現実的に考えて、今の私が目指すエンディングは『ノーマルエンド』一択だ。
なぜなら、街の被害や人の犠牲が一番少なくてすむからだ。ファンの間では『ノーマルエンド』のことを大団円エンド、トゥルーエンドと言ったりもする。
そう結論は出ているものの、一方で、尻ごみしそうな自分もいる。
だって、ノーマルと謳いつつも、実質ほぼ逆ハーエンドなんだもの……
通常、恋愛系のゲームでノーマルエンドといえば、誰ともくっつかないエンディングを指すことが多い。それが『ラブデ』では攻略キャラ全員の好感度を高水準に保ちつつ、サバイバル関連のフラグも取りこぼしが許されないという一番難しいルートになってた。
リアルの世界で逆ハーとか……つ、詰んでない?
股がけなんてゲームの中だからこそできることであって、現実でやるには倫理的に抵抗がありすぎる。攻略対象との数々の恋愛イベントを思い描いて、私は赤くなったり青くなったりした。
少しだけ救いがあるとすれば、選択肢次第でラブラブのイチャイチャ展開を回避して恋人未満の状態を維持できる点だけれど、それにしたって六人もキープしたままにする女ってどうなのと……
悶々と悩みつつ廊下を歩いていると、不意に窓を叩く豪雨の音が耳について、私は頭を切り替える。
廊下の向こうから、目当ての人物がやってくるのが見えた。
「瀬名先生!」
とりあえず心細さもあって、私は先生に駆け寄った。
一年三組の担任であり攻略対象でもある瀬名修平――仕立ての良い三つボタンのスーツをスマートに着こなし、シルバーフレームの眼鏡が似合う理知的なルックスの好青年だ。担当教科は数学で、女子生徒からの人気は新任以来ほかの教師を寄せつけないダントツの一番を維持、押しかける女子の多さに、試験前でなくとも数学準備室には入室規制があるとかないとか。
「千歳? お前、文化祭実行委員だったよな。どうしたこんなところで」
「ちょっと生徒会室にお邪魔してました」
「ああ。朝比奈のところか」
「先生は?」
「俺は、一応誘導だよ。こんな状況でばっくれる奴もいないと思うけど、全員の集合を確認しないとな」
窓の外に視線をやって肩をすくめる先生を改めて見てみる。二十四歳という年齢と経験から滲み出る落ち着いた大人の雰囲気は、確かに思春期の女子たちを惹きつけるだろう。ネクタイや時計など身につけている物のセンスの良さや、中高生にも通じるノリと話題の豊富さ、そして何と言ってもさりげなく女性に気遣いができる点、十代の男子と比べてのアドバンテージは大きい。
「お手伝いしましょうか?」
多少強引と自覚しながら、選択肢と同じセリフを言ってみた。
先生の攻略方針としては、これから避難所生活に入って山のように出てくる雑務の手伝いを自主的に申し出ること。この選択肢はその布石だ。他の外れの選択肢は思い出せないけれど、ここではこれを選ぶことによって、後の関係が築きやすくなったはず。
「ありがとう。校内見て回るだけなんだが、文化祭の肝試しが可愛く思えるほどに不気味だよな。誰かいたら心強いけど、これは先生の仕事だから、千歳は先に行ってなさい」
そう言って柔らかく微笑む先生。大人の余裕ってやつですね。
「分かりました」
「もしかして、千歳一人だと怖いの? それだったら送っていくよ」
からかうような口調に混じる仄かな色気に一瞬ドキリとさせられる。
分かりやすい授業に誠実な生徒指導と、若手教師の鑑みたいな瀬名先生だけれど、生徒の攻略対象四人のうち三人の好感度が一定レベルに達すると、主人公との恋愛に参戦してくるというハンター気質の持ち主でもあった。
「だ、大丈夫です。先行ってますね!」
ゲームで獲物をロックオンした際の豹変ぶりが一瞬頭をよぎって、それを振り払うように大きく首を横に振る。
「そうか。暗いから気をつけてな」
「はい。先生も」
気遣いの言葉を告げる表情はいつもの知的な先生のもの。つい蘇った前世の記憶のせいで色眼鏡で見てしまったけど、これまで担任として接してきた瀬名先生は、公平で思いやりのあるいい先生だ。その大前提は忘れてはいけないと肝に銘じる。
とりあえずフラグは立てたので、私は先生と別れて足早に第二体育館を目指した。
第二体育館の二階にあるメインフロアに入ると、すでに多くの生徒が集まっていた。
ゲームでは先生と生徒あわせて二百三十人ほどが校内に閉じ込められる予定なので、予定通りといっていい。
バスケットボール部や剣道部などの室内部活組は練習着のままで、早めにグラウンドから引きあげたサッカー部と思われる色黒男子集団はすでに制服を着ていた。その他、目立つのは大所帯の吹奏楽部か。
灰緑色の雨が降っているという異常事態に、フロア内の空気は騒然としていて落ち着きがなかった。不安がったり家族知人の心配をしたりする気配の他、台風のときに休校を期待するような浮ついた感じもまだあって、私はそれを一人蚊帳の外にいるような気分で見ていた。
「千歳! お前も登校してたんだな」
ちょっとだけ呆けていた私に声がかかる。振り向けば三人目の攻略対象がそこに立っていた。
高坂慧吾――同じクラスのサッカー部員で、百八十を超える長身に陽に焼けた肌が特徴の爽やかイケメン。無造作にセットされた黒髪と、モデル張りのスタイルで着崩した制服が、計算されたように素材の良さを引き立てている。
ちなみに男子の制服は、ズボンがグレイ基調のチェック柄で細い赤いラインがポイントとして入っている。他は女子の配色と同じだ。
今の高坂君は部活終わりで暑いのかブレザーを脱いでいて、緩めたネクタイに長袖のシャツも肘までまくり、ボトムは軽く腰骨に落としてはいていた。今時の男子高校生といったところ。
「うん。文化祭実行委員の仕事があって。高坂君は部活?」
「ああ。さっきまでグラウンドでな。瀬名っちの放送でさっさと屋内に入っててよかったよ。まさかあんな得体の知れない雨が降ってくるなんてさ」
白い歯が眩しいです。
明るい性格で、男女問わずみんなから好かれている彼の周りには、常に人が絶えない。勉強も部活も学校生活も、すべて楽しみながら高いクオリティでこなしていく彼と付き合ったなら、きっとピュアで甘酸っぱいこれぞ青春な高校生活が送れると思う。まあ、『ラブデ』に日常パートなんて一切ない訳だけど。
「ホント、濡れなくてよかったね」
「あれに濡れたら、マジで身体に悪そうだよな」
今の私はみんなが無事でよかったとしみじみ思う。
「うん。かなりマズイと思う……」
「千歳? なんか顔色悪いんじゃね」
「え、そう?」
予定外に顔を覗き込んでくる高坂君に慌てた。真っすぐな眼差しからは彼の誠実さがうかがえる。
実際、私はこれから起こることに恐怖を抱きつつ、でも自分が何とかしなきゃっていう使命感もあって、長引く緊張状態にあった。
「もしかして、家族と連絡とれないとか? ごめんな、俺ちょっと軽かったよな」
「ううん。違うよ。うちの親今二人とも海外なの。お父さんの単身赴任先に先週からお母さんも行ってて。だから、大丈夫なんだけど、高坂君の家族は? その様子だと大丈夫そうだけど」
「ああ。遊びに行ってた弟も雨が降る前には帰ってきたらしくて、今は両親と家にいるよ」
確か高坂家はゾンビ出現後、弟君の通っている中学校に最終的に避難するはずだった。
「それより、千歳。具合悪いなら無理しないで保健室で休んでろよ。俺さっき桃井見たから、保健室開いてると思うぜ」
桃井先生は三十代の女性教師でこの尊陽高校の養護教諭だ。そして、ゾンビによる一人目の被害者になる人でもある。
「うん。辛くなったらそうするね」
元からそのつもりだったので、私は素直に頷いた。最初の被害を食い止めるため、現場となる保健室にあらかじめ潜入しておく作戦だ。
とそのとき、出入り口から教師陣が入ってきた。
「あ、先輩が呼んでるわ。じゃ、千歳、無理するなよ」
「ありがと、高坂君」
同じタイミングで高坂君もサッカー部の先輩に手招きされ、日焼けした軍団の中に戻っていった。
私もステージに上がる先生方を横目に見つつ、文化祭実行委員のかたまりに合流した。
「萌ちゃん、はい、カバン持ってきたよー」
「ありがとう。万菜ちゃん」
隣のクラスの文化祭実行委員、真鍋万菜花ちゃんとは、中学校からの付き合いで気心の知れた親友だ。ゲームでも数少ない女キャラの一人として、主人公をサポートしてくれる。
「それにしてもビックリしたー。なんなんだろうね、この雨」
「ホントにね。そもそも今日雨降るって予報じゃなかったよね」
「そうそう。あ! 萌ちゃんどうしよう。私、洗濯物干してきちゃったよ。うわー、ショック」
そう言って嘆く万菜ちゃんは、黒目がちの大きな瞳が愛らしい幼さの残る顔立ちに、栗色のボブがよく似合っている女の子だ。私は彼女を慰めるためにその手触りのよい猫っ毛を撫でて、洗濯物の末路に同情した。
「はーい、注目」
野太い声に壇上を見れば、二年の学年主任三村先生がマイクを持っていた。
「この異常な雨の中帰るというチャレンジャーはいないと思うが、君たちにはここで安全が確認できるまで待機してもらうことになった。今、先生たちの方で、市の保健局等にこの雨の成分や健康被害の有無などを問い合わせて回答待ちだ。いつまで降り続けるのか分からんが、もし雨が上がっても、身体への影響が不明なうちは外に出ないように」
教師歴二十五年のベテラン教師は、これから避難所となる尊陽高校で陣頭指揮をとる運命にある。担当教科は社会科公民で、瀬名先生曰く「なんで教師をしてるのか謎なほどキレ者」らしい。
白髪交じりの短髪に彫りの深い顔立ちで、年相応に渋い先生だった。
「家族や自宅のことが気になるだろうから、携帯の使用はOKとする。生徒玄関前の公衆電話も――」
教師から改めて指示が出て、現実が重くのしかかってきたのか、生徒たちからは不安混じりのざわめきがどこからともなくあがった。
終始、吹き抜けの上階を回る窓には灰緑色の雨が無数の筋を描いて流れ、まだお昼の三時だというのに、外は驚くほど暗い。照明をフルに点けなければいけないほどの異様な暗さが、生徒それぞれの胸に燻る胸騒ぎを増長しているようだった。
最終的に、校内にいる生徒の名簿を作成することになり、生徒会が各部活、団体ごとに取りまとめるよう用紙を配布した。
私も文化祭実行委員に回ってきた用紙に必要事項を記入した。
時間は十五時十分を過ぎたところ。あと二十分もすれば雨はあがるだろう。
決意を新たに、私は万菜ちゃんに話しかけた。