1日目_01
――その日、平穏な日常は崩壊した。
とある土曜日の午後、佐梅原市の中心部から離れた湾岸にある製薬工場から爆炎が上がる。
文化祭実行委員の雑用のため登校していた千歳萌(名前変更可能)は、教室の窓から空を覆う黒煙を目撃する。
そしてその二十分後、灰緑色の雨が街に降り始めた。
それは、浴びた人間を生きながらに屍へと変える人類存亡の災禍の前触れだった。
『love or death』ゲーム導入部のあらすじより。
◇◆◇
教室から飛び出した私は、扉を閉めて一呼吸置く。
ゲーム最初の選択肢はこれだ。
【どこに向かいますか】
→職員室
→生徒会室
もちろん現実世界なので選択肢の表示はない。ただ行動で示すのみ。
「千歳さん!」
呼び止められて振り返る。いきなりゲームにはない展開だ。
私を追うように教室から出てきたのは、予算面で文化祭実行委員のヘルプに入ってくれている生徒会で会計を務める二年生の姫宮紫子先輩だった。
「……姫宮先輩」
「どちらへ?」
「えーっと、生徒会室です……」
「ご一緒しますわ」
理由を聞かれたらどう誤魔化そうかと思案したのは杞憂だった。
姫宮先輩は私を促して自身も走りだす。長いストレートの黒髪をなびかせて。
普段であれば廊下など絶対に走らないようなお嬢様然とした先輩のアクティブな姿に若干驚いたものの、私も急いで先輩に並んだ。
「創ちゃん!」
ノックの返事も待たずに、私は特別棟の四階角部屋にある生徒会室のドアを開けた。
「メグ? どうした悲壮な顔して。姫宮も」
窓を背にして事務用の机に向かっていた部屋の主は、非礼を咎めることなくいつもの爽やかな笑顔で私を出迎えた。
「よかった。創ちゃん、いた」
ある種の感動を覚えて、私はこっそりと呟いた。
滑らかなカーブを描いて耳にかかる前髪。その艶やかな黒髪から覗く切れ長の瞳。主人公に向けられる眼差しはいつも優しく、形の良い唇から紡がれる主人公の愛称は甘い響きを含む。
『ラブデ』の攻略対象の一人、朝比奈創史だ。
主人公の一学年上の高校二年生。尊陽高校の生徒会長にして所属する吹奏楽部では指揮者を務める。眉目秀麗。文武両道。全方向に隙がないオールマイティーキャラで、プレイヤー間での人気も一、二を争う。
私にとっては、家が隣同士で昔から家族ぐるみで交流がある頼れる幼馴染だ。
これまで毎日見てきた顔だけれど、改めて見ればゲームのパッケージや雑誌の表紙などで中央を譲らないメインキャラその人である。
だがしかし、創ちゃんのフラグ設定は難解で、特に最初の死亡フラグを必ず折っておかないと、好感度が高くても後々確実に死んでしまうという落とし穴まである。
発売当初の攻略情報サイトでは、『メインが攻略できない件』、『創タンが毎回逝ってしまうんだけど』、『会長のシスコンモードが固すぎて解除できない。恋愛モードが行方不明』などなど、阿鼻叫喚に包まれていた。
その最初の死亡フラグを折るのが『工場爆発直後に一番に会いに行く』なのである。
現実の世界でフラグがどう処理されるかは分からないけれど、生き死にに関わることを検証することもできないので、ゲーム内で一番良い結果になる行動をすることにする。
「あのね、ちょ、ちょっと前に、何かが爆発するような音が聞こえたと思うんだけど、湾岸の工場の方みたいで、その、本棟の窓から見たら、すごい勢いで黒い煙が広がってて、外で部活やってる人、屋内に避難してもらったらいいんじゃないかと思った……次第です」
徐々に尻つぼみになる声音に心の中で悶絶する。創ちゃんの顔が直視できない。
彼とは幼稚園の頃からの付き合いで気心の知れた間柄だというのに、前世のミーハー心理が顔を覗かせたばっかりに、どもるわ呂律が怪しくなるわと散々だ。恥ずかしすぎる。
「ちょっとちょっと、どしたの。ちーちゃん。なんでそんなにヨソヨソしいのさ。創史に初めて話しかける緊張した女子のモノマネ?」
案の定入った鋭いツッコミは副会長の黒木先輩だ。ゲームにも多くのシーンに登場する。
顔面偏差値の高い尊陽高校生徒会で創ちゃんとツートップを張るだけあって、人当りのいい性格と甘いマスクの持ち主だ。
主人公を勝手につけた愛称で呼んで馴れ馴れしく接するのはゲームと同じで、前世の記憶がある今では懐かしささえ覚える。
当然ながら、生徒会室には創ちゃん以外の生徒会役員がいらっしゃった。
黒木先輩の他にも、二年生の書記で黒ぶち眼鏡男子の奥谷先輩がサイドの机で仕事をしている。
ちらりともこちらを見もせずにパソコンに向かう姿は平常運転だ。
「ホント、何か悪いものでも食べたのか」
そう言って微笑する創ちゃんが眩しすぎる。でもいい加減、現世の自分を取り戻さないと生きていけない。
「爆発の件なら俺たちもさっき西側まで行って確認した。メグが来るちょっと前に須藤を放送室に向かわせたよ」
「そ、そうだよね。創ちゃんだもんね」
彼がそれぐらい機転のきく人だっていうのは分かっていた。実際、フラグを折るための行動で、中身はどうでもいいのだ。ゲーム上では違和感のない行動も現実で再現するとどこか寒々しい。
「でも、ちょうどよかったよ。後で連絡しようと思ってたんだ。こんなだから、今日は一緒に帰ろうな」
「はい……」
本物の美男子のオーラは破壊力が半端なかった。
前世のプレイヤー気分を引きずっていては駄目だと思いながらも、幼馴染向けの気安い態度とキラキラ具合に、現世の私の余裕っぷりが思い出せない。
なんて悶えていると、ブツっとスピーカーから始動音がして、アナウンス前のチャイムが鳴った。
『職員室から緊急放送です。さきほど、湾岸部の工場地帯で爆発があり、黒煙が市内上空に流れてきています。屋外で活動している生徒はすみやかに屋内へ退避し、安全の確認がとれるまで待機してください。繰り返します――』
聞こえてきたのは生徒会の一年生の会計須藤君の放送ではなく、職員室発信のものだった。しかもこの声は攻略対象の一人、主人公の担任で数学教師の瀬名修平だ。
ゲームの声優と同じ耳に心地いい声と落ち着いた口調は、知的な印象を聞く者に抱かせる。これまで私はあまり意識したことがなかったけど、教師になって三年目とまだ若い先生は、確かにインテリ美青年で女子生徒からの人気は絶大だった。
「先越されたな」
黒木先輩がつまらなそうにスマホを操作してる。
明るすぎない茶色の髪はサラサラで、生徒会室にいるときは長めの前髪をピンで留めていたりする。切ればいいのにと密かに思っていたそれは、キャラクターデザインとの整合性を考えたら必然だったようだ。
「ああ、須藤には五分後にもう一度放送を入れさせよう。メグはここで待機な」
そう言って創ちゃんは応接用のソファを顎で示し、内線の受話器をとった。
「お茶でも淹れるわ。座ってて」
姫宮先輩がポットコーナーに立つと、黒木先輩と奥谷先輩もコーヒーを所望する。
私は素直にお言葉に甘え、一人革張りの黒いソファに腰掛けた。
「うわ。現場付近にいる知り合いがつぶやいてる。爆発元は製薬会社のプラントで、煙と臭いがすごいって」
「防災無線で付近一帯の住民に避難指示が出されたみたいだよ」
スマホをいじる黒木先輩とパソコンでネットを見ていたらしい奥谷先輩が告げる。
「さっきより、風が出てきたな。風速と風向は?」
「今調べる。…………風速は10m/sって発表だけど上空は倍近くあるかも。風向は西風。あー、あと雨雲接近中」
創ちゃんの問いに奥谷先輩が迅速に答える。
この雨雲さえなければと、私は内心で焦れた。
「須藤、着いたか。三十五分過ぎたらもう一回放送いれてくれ。爆発元は製薬会社の工場で、雨雲も接近してるらしいから、その情報も適当に足して。それと、校内にいる生徒には窓を閉めるように注意して」
電話で話す創ちゃんをぼーっと見ていたら、目の前に紅茶の入ったカップが置かれた。コーヒーより紅茶派だって知っててくれたらしい。
「ありがとうございます。姫宮先輩」
私はカップを手にとって、緊張で冷たくなった指先を温めた。
そうこうしているうちに十四時三十五分になって、須藤君のアナウンスが校内に流れる。
黒煙は雨雲と絡み合うようにして重く垂れこめ、高校の上空をも覆っていく。すでに太陽は雲に隠れ、昼間だというのに外は異様に暗かった。
私は窓際まで移動すると不気味な色の空を見上げた。
さきほどから工場地帯の方へ向かっていく緊急車両のサイレンが、引っ切りなしに聞こえてくる。おそらく彼らが無事帰ることはない。
握りしめたスマホで「これから雨に濡れた人がゾンビになるんです」と、警察に通報したところで、頭がおかしいと思われるのが関の山だろう。
「メグ。そんなに噛みしめたら血が出るよ」
ふいに顎をとられて見上げれば、創ちゃんが慰めるように前髪を梳いてくれる。
無意識に全身を強張らせていたようで、意識して軽く息を吐いた。
「……なんか嫌な予感がして」
「そうだな。こんな不吉な空、初めて見る」
「あ、そうだ。橙子さん大丈夫かな?」
創ちゃんの母親である橙子さんを、「おばさん」と呼ぶのはタブーだ。逆もまたしかりで、彼は私の母を「希さん」と名前で呼んでいる。
「ああ、あの人は、こんなことにならなくても職場に缶詰さ。昼の時点で今日は帰れそうもないってメールがきてたよ」
「そっか。職場にいるなら大丈夫そうだね」
うん。ゲームとほとんど同じ会話だ。
橙子さんの無事は分かっていたけど、あえて聞いてみた。
職場のオフィスビルのセキュリティがしっかりしていることもあって、彼女はこの後も、わりと安全圏にいることが決まっている。
一方、私たちの父親は、別々の会社に勤めているのだけど、示し合わせたように単身赴任中だった。創ちゃんのお父さんは関西に。私の父親に至っては海外にいる。
そして、先週うちの母は、長期滞在の予定で父の赴任先へ出かけていった。
なんというか、今さら思うに、これは後顧の憂いなく恋愛ゲームに集中できるようにという制作側の配慮なんだろうか。
確かに、母親がゾンビの徘徊する世界で自宅に一人取り残されていたなら、心配で恋愛にうつつを抜かすどころではない。
また、私も創ちゃんも一人っ子というのも、そういう意図の設定と思われた。
でも、だからと言って、今の私はこのお膳立てされた恋愛を楽しむ気にはなれなかった。
私にとってこの世界は現実で、これから何万という人がゾンビになって人の尊厳を奪われ、強制的に他の人間を襲う化け物になってしまうのだ。それは創作上の人物でなく、血の通った生身の人間で、誰かの大切な人たちなのだから。
そしてふと思う、ここは本当に『love or death』の世界なんだろうかと。
人名、組織名、地名に加えて今の状況、どれをとっても『ラブデ』の物語と一致している。一部の人の名前とその行動はゲーム内で描かれていなかったけれども、それは省略されているとみていいと思う。ここまででいうと、姫宮先輩や奥谷先輩の名前をゲーム内で見かけた記憶はなかった。すべてを詳細に詰め込んでいたら、ゲームがなかなか進まないからだろう。
では、ここが本当に『ラブデ』の世界だとして、果たしてこれからも同じ展開になるのか。
ううん、ゲームの中との大きな違いがひとつあった。それは、主人公――私にゲームの知識があるということ。周回プレイを重ねているプレイヤーであれば、ゲームのストーリーを把握しているのは当たり前だけれど、主人公自身にその記憶はない。そのため、周回プレイでも避けられない脇役の死もある。
……もしかして助けられる?
沈んだ心の奥底に、小さな火が点った気がした。
誰かの不幸を知っていながら、それを見過ごすなんて無理だ。助けられるのは、きっと私だけ。
となれば、今この現実を生きる私は、一人でも多くの命を救うために最善を尽くそう。そう心に決めると、これからの展開を悲観して委縮していた私の心が少しだけ浮上した。
まずは最初の一人を助けるため、これからの展開を詳細に頭に思い描いて知恵を絞る。
そして、十四時四十五分。
灰緑色の雨粒が二つ三つと窓を打つ。
それは一気に土砂降りの勢いに変わって、辺り一帯を染め始めた。