3日目_07
【棚の上に手が届かない】
→背伸びをする (瀬名好感度+5)
→台になりそうなものを探す (瀬名好感度+5)
→諦める (瀬名好感度+5)
→念を送る (瀬名好感度+5)
『love or death』攻略サイトより。
◇◆◇
下半分を塞がれた窓から弱々しい太陽光が差し込む保健室は、備品がないせいかがらんとしている。ベッドにあった布団類は処分され、医薬品や医療器具の類はこの部屋の真上にある三年一組の教室に運び込まれていた。今はそこが臨時の医務室だ。
ここで最初のゾンビが発生したのが、遠い昔のように思える。今でも扉の内側に残る引っ掻き傷は生々しいけれど、物もなく人の気配もない室内は、空気が停滞していて捨て置かれた廃墟のようにも見えた。
ぬるくなったタオルを氷水に浸して絞る。冷却剤なんかはことごとく上に運んであるので、よく応急処置ができたものだと思う。
再び左膝に冷たいタオルを押しあてた私は、大きな溜息を吐いた。
前方の立花さんに意識が向かっていたとはいえ、足元不注意も甚だしい。見事なまでに傘立てに引っかかって思いっきりコケてしまった。一瞬だけ宙を飛んだ気もする。
『ラブデ』の主人公にドジっ子属性はなかったはずなのに……
今赤くなっている左の膝小僧は、時間が経てば絶対に酷い青あざになると思われた。制服のスカートは人並みに膝上丈なので隠しようがない。誰かの目についてこれからの展開が変わってしまったらどうしようと、自分の失態を猛省した。
がしかし、時間は戻せないし止められない。
私はスマホを取り出すと、これまでの経緯を綴って真里谷先輩にメッセージを送りつけた。
すると数分と経たずに返信がきて、今日のうちにもう一度打ち合わせをしようということになった。望まないイベントが強制的に起こるのを防ぐために、お互いのゲームの知識をすり合わせる必要があると思ったからだ。
真里谷先輩は午後から避難作戦の囮を務めるとのことで、ついでに友井君のゾンビを確認してもらうことにする。もっとも彼とは面識がなかったそうで、サッカー部の茂木君の様子をそれとなく観察するようお願いした。
そんなやりとりをしていると、敷地内のゾンビを排除した旨の放送が入った。
ちょうど十五分くらい経ったのでタオルを洗って干し、洗面器を片づけると、私は午後の仕事に取り掛かることにした。
現国準備室に戻れば、すぐさま創ちゃんに左膝の異変を察知されてしまった。医務室まで連行されて、鎮痛剤入りの冷湿布を貼ってもらう。桃井先生は不在だった。
そしてまた仕事をしながら、ちゃっかりと瀬名先生を追いかけて、職員室で二人きりになるイベントを起こしてみる。
内容は、高さのあるキャビネットの上に仕舞ってある予備のバインダーを取るために四苦八苦していると、先生が背後から取ってくれるというものだ。
だけども、先生には半径一メートル以内に接近禁止と言ってしまった手前、シナリオが変わってしまうことも十分に有り得た。フリーダムな展開になった場合、先生に主導権を握られるとお子様な私では太刀打ちできる気がしない。
そこで先手を打つことにする。「先生、取って」と自分の方からお願いしてみたのだ。
言われた瀬名先生は、快く頼みを聞いてくれた上に、なんだか機嫌がよさそうだったのでよしとする。
そのまま作業を続ける瀬名先生を一人残し、職員室からの帰り道は遠回りなルートを選ぶ。
途中の西翼の廊下で出会う一年の女子たちから、避難所生活に関する要望を承るためだ。
ゲーム同様に鉢合わせた彼女たちが言うことには、食堂兼セミナーハウスの二階部分にある宿泊施設の浴槽付きの浴室を使いたいとのことだった。
この要望を総務班にあげておかないと、彼女たちが無断で夜中にお風呂に入ろうとしたときにゾンビを呼び寄せてしまい、校内に大量のゾンビが侵入するバンドエンドに繋がってしまう。
「分かった。上と相談してみるよ」
「ありがと。千歳さん。忙しいのに、ごめんねー」
実際には創ちゃんに丸投げすることになるので心が痛む。
彼女たちとはその後数分、情報交換したのち穏便に別れた。
もちろん帰ってすぐに、もらった要望は創ちゃんを含む総務班のメンバーに報告した。その場にいた女子からも賛成する声が上がったので、ローテーション案を考えてから先生たちに提案しようということでまとまった。
そうこうしているうちに、機動隊による大々的な付近住民の避難作戦が開始された。
第一回目は坂の上の地域が対象だ。
最初に周辺のゾンビを引きつけるための車が二台出ていって、続いて住民を乗せるためのマイクロバスと、住民を誘導する機動隊員が乗ったライトバンが一台出発していく。
マイクロバス以外の車は、教師や昨日避難した住民の物だ。そのスペックで選ばれた太田先生の四駆のSRV車は、先月新車で買ったばかりだったらしく、先生は泣く泣く送り出していた。
最終的に、マイクロバス一台分と、住民自身の車での避難もあって、坂の上からは五十人近い住民が新たにやってきた。
もともと坂の上の地区は街のはずれにあたり、住宅もまばらで住民も少ない。彷徨っていたゾンビも十数体ほどで、まんまと先行する車に釣られてくれたおかげで、難なく避難者のピックアップが行えたそうだ。
とはいえ、新車だった太田先生の車は、明らかに事故車ですといった見た目に変わってしまっていた。所々にゾンビと接触した形跡がある。愛車の無残な変わりように、太田先生は放心状態で、「ろ、ローンが……」と呟いていたのだった。
新規の避難者は早々に武道場に集められ、三村先生による説明の後、避難者カードに記入してもらって身体検査を受けてもらう。
武道場にはさりげなくブリちゃんが連れてこられていて、チビッ子たちに愛嬌を振りまいていた。特に吠えたりといったこともなく、今回はゾンビ因子を持つ人はいないようだった。
避難者が増えたことによって、またどっと仕事が増えて、一息ついたのは夕方になってからだった。
ふとスマホを確認すると、友井君のゾンビを確認した旨のメッセージが、真里谷先輩から届いていた。
返信すればすぐに反応があって、先輩と合流することになった。
待ち合わせ場所に指定されたのは、特別棟一階の中央にある階段の裏だった。確かに人目はないけれど、どうしてこんなところに? と思っていると、真里谷先輩がやってきた。
ええと、なんでマイバット持参なんでしょうか?
「先輩、それは……」
顔を引き攣らせながら質問する。
先輩にふざけた雰囲気はなく、表情も真剣そのものだ。
「立花怜次の死亡フラグが立つ前に、その原因を潰しておこうと思ってな」
「あっ」
言われてみれば、ゲームでは明日の早朝にそんなイベントがあった。
いくら私が別のイベントを起こしてその展開を避けても、その発生源が健在なら、何かのタイミングで始まってしまう可能性がないとは言い切れない。
「どうせ、アイツらが助かることはないしな」
「そうですね…………やりましょう」
私は覚悟を決めた。
立花さんに死をもたらすのは、初日にゾンビになってしまったサッカー部の三人だ。
今は部室棟の一室に閉じ込められている彼らが逃げ出して、最初に遭遇する立花さんが犠牲になってしまうシナリオだった。いくら立花さんといえど、不意打ちで三体ものゾンビに襲われればひとたまりもない。
『ラブデ』では、ゾンビを解き放ったのは、サッカー部のマネージャーとなっていた。おそらく、桑島先輩と付き合っていた川西さんではないかと推測する。ゲーム通りになってしまうと、彼女も無事ではすまないのだ。
「やるのは俺一人だ。千歳はここから、誰かこないか見張っててくれ」
階段裏から出ると、目の前には第一体育館に繋がる外廊下の出入り口があって、部室棟へ行くにもここから出ていくことになる。
「でも、一人じゃ危険です」
「大丈夫だろ。アイツら縛られてるし。それに、千歳がいたって戦力になるとは思えないしな」
「そうかもしれないですけど、私だって、扉くらい閉めれますから」
渋る真里谷先輩に、初日の保健室前での攻防を思い出して私は熱く言い放った。
「え、何お前、俺を閉じ込める気?」
「違いますよ!」
分かっているだろうにボケられた。しかも、身長差を利用して胡散臭そうに見下ろしてくる。復活したグレーの瞳が視線の温度を下げいて、何様俺様真里谷様状態である。
「だってお前、とんだドジっ子だろーが」
真里谷先輩の視線がさらに下へ向けられる。
その先には、真っ白な冷湿布が存在を主張していたのだった。
「面目ないです……」
「お前ホント、立花ルートだけには絶対に入るな。死ぬぞ」
「……はい」
呆れを通り越した脱力気味に言われてしまって、私は肩を落とした。
もしかしたら主人公補正が効いて、アクロバティックな立花さんルートでもなんとかなるかもしれないけれど、今の私では立花さんや多くの命を巻き込んで普通に自滅する未来しか見えない。
「ま、もしもの時は俺のルートに引きこんでやるよ」
「え? …………いやいや、そんなお気遣いなく」
私は全力で遠慮した。
真里谷先輩のルートに入ってしまうと、私はゾンビに齧られて、先輩と二人逃避行する羽目になる。
「ばーか。冗談だよ」
「分かってますけど、笑えませんからね!」
「笑わそうとか思ってねーし」
先輩はそう言うと、私の前頭部に手を伸ばしてきた。
アイアンクローか!? と身構える私の予想に反して、わしゃわしゃと少し乱雑に撫でられる。ブリちゃんを撫でるときと一緒っぽい、と思ったけれども言わないでおく。
「たっく、足引っ張るなよな」
なんだかんだで、同行するお許しが出た。
時刻は十七時ちょっと前で、あと三十分もすれば日が完全に沈んでしまう。話をしている時間も勿体なかったのだ。
そうして夕暮れに紛れるようにして、私たちは特別棟の外廊下から第一体育館の隣に建つ部室棟へと小走りで向かった。
特に見張りをしなくても、特別棟の一階に人通りはほとんどなく、万一誰かに見られたとしても、部室棟に出入りする瞬間さえ見られなければなんとか誤魔化せると思う。
警備班の監視も、日中は東西の敷地の境界を重点的に警戒していて、敷地内は見ていないとのことだった。
部室棟の鍵は、真里谷先輩がどこからかマスターキーを調達していた。素早く玄関の鍵を解錠すると、私たちは中へと滑り込んだ。
部室棟は鉄筋コンクリート造の二階建てで、北側に廊下、南側に細かく区切られた部屋が並んでいる。階段は玄関脇と廊下の突き当たりの二箇所にあった。
サッカー部のゾンビが隔離されているのは、一階にある倉庫のはずだった。
棟内は、怖いくらいに静寂に包まれていた。お互いの足音だけがやけに響く。この時間帯は、サッカー部のゾンビも活動を停止しているのかもしれない。
左手には部室の扉、右手には曇りガラスの窓が一定間隔で並ぶ長い廊下を、奥に向かって二人で歩く。北向きのため、窓はあっても廊下は薄暗く、冷暖房もないので空気が冷え切っていた。自然と背筋が縮こまってしまう。
目当ての倉庫は、奥にある階段の手前にあった。
金属製の一枚扉にそっと耳を押しあててみたが、中からはなんの物音も聞こえない。
「千歳は下がってろ」
真里谷先輩はそう言うと、鍵穴にマスターキーを差し込んだ。
カチャリと鍵が音をたてても、室内は無反応のままだった。
真里谷先輩が、バットを片手にドアを開ける。
「なっ!」
「やだっ!!」
倉庫内には手足を縛られたゾンビが三体横たわっていた。
しかしどれもすでに事切れているのが、一瞬で分かってしまった。
南向きの窓から差し込む沈む寸前の夕陽に照らされた彼らの頭部は、無残に潰れ、赤黒い液体にまみれていた。
「どうして……」
呆然と呟くと同時に、近くの防災無線から「夕焼け小焼け」のチャイムが流れてくる。
その物悲しい音色を聞きならが、私たちはしばらくその場に立ち尽くした。




