3日目_01
『依然として緊迫した状況の続く佐梅原市と真北市の両市ですが、各機関総出の救出活動は難航を極めています。そんななか、昨日午後四時過ぎ、真北市中心部にて吊り上げによる救助を行っていた防災ヘリコプターが、ゾンビの襲撃に遭ったためバランスを崩し、墜落するという事故がありました。また、救出された避難者を受け入れた県外施設にて、複数のゾンビが発生したという情報もあり、二次被害を懸念する声が高まって――』
とあるテレビニュースより。
◇◆◇
三日目朝の目覚めは最悪だった。
いつから降っているのか窓の外からは雨の音がして、朝の空気は湿気を含んで冷え冷えとしていた。
寝転んで見上げる窓には灰色の空が一面にあって、雨の色が気になるのか、すでに起きて窓際に張り付いている子も何人かいた。
時刻は六時を過ぎたところ。すでに日は昇っているはずだけど、空を覆う雨雲のせいで室内も外も薄暗かった。
浅くしか眠れなかったために頭は重いし身体はだるい。起き上る気になかなかなれず、毛布にくるまって再び目を瞑ってみたものの、甘美な二度寝が訪れる気配はない。
昨夜の夢見は最低だった。
もれなくゾンビが出てくる夢で、追いかけられたり齧られたり、ここにいないはずの両親がゾンビに変貌してるなんてのもあった。
まあ、現実もそれなりに酷い状況ではある。
「おはよ、萌ちゃん」
毛布の中でモゾモゾしていると、隣りの万菜ちゃんから声がかかった。
「おはよー、万菜ちゃん」
「よく眠れた?」
「ううん、夢見が悪くて……」
毛布から顔を出してみれば、いつも元気な万菜ちゃんが珍しく寝不足気味に見えた。
「私も夜明け前に雨の音に気づいちゃって、それから寝られなかったの。しばらく、雨は見たくないよ」
「うん、軽くトラウマになったよね」
ゾンビ誕生のきっかけが雨だった。
ゲームの知識があるおかげで、初回以降あの灰緑色の雨が降らないことを知っている私も、無意識に眉間に力を入れてしまう。
「萌ちゃん。ちょっと小耳にはさんだんだけど、昨日の夜、避難者の中からゾンビが出たんだって?」
「……うん。そう」
「しかも、また現場に居合わせたんでしょ?」
「そうなの。どうしてか、ね」
さすがに連続して校内のゾンビ発生に遭遇したのは不自然だっただろうか。少し焦って苦笑で濁してみる。
「大丈夫? その、PTSDとか」
「たぶん、大丈夫。警備班の前衛の人に比べたら全然だよ」
「ならいいんだけど、少しでも辛かったら、桃井先生たちのカウンセリング受けなよね」
「うん。ありがとね、心配してくれて」
昨日の件については、実は結構引きずっていた。
当初の計画通り最低限の被害のみで収束できたとはいえ、手放しに喜ぶには辛い幕引きになってしまった。自分にはどうすることもできないことだったけど、ゾンビ因子を持つ男性の死を目の当たりにしたことは心に重くのしかかった。
「萌ちゃん、あの工場の爆発が起こってから、何だか生き急いでるみたいに見えるんだもの。心配だよ」
万菜サン。生き急いでるときましたか。
そんなつもりはなかったものの、一時変に気負っていたので、必死感が滲み出てしまってたかな。
もう少し余裕を持って周囲に気を配ろうと密かに思った。
その後、もう少し万菜ちゃんとダラダラおしゃべりをしてから、トイレや水飲み場が混まないうちに身支度を整えた。
そうして、またまた単独行動で向かった先は特別棟だ。
寝床である二年一組の教室と同じ三階の特別棟の廊下まできて、私はそっと窓の下を覗きこんだ。
しとしとと細い雨の降る薄暗い朝だったけれど、敷地内のゾンビはすでに退去していた。
昨夜の記憶をたどって予測した場所に視線を送れば、水のペットボトルと中庭の花壇から摘まれたと思われる花の活けられた花瓶が置いてあった。遺体は収容された後だった。
さすがに遺体を直視する精神力はなかった。
朝一で働いている警備班やら関係各所のみなさんにはひたすら頭が下がる。
チキンな私は三階という距離を置いた場所から、そっと手を合わせて黙とうした。
「千歳さん?」
突然の呼びかけにビクっとして振り向けば、白衣を着た桃井先生がこちらにやってくるところだった。
「おはようございます、先生」
「おはよう。西翼の廊下で貴女の後ろ姿を見かけたものだから、気になってついてきてしまったわ」
先生は隣まで来ると窓の外に目を向けて、私と同じように手を合わせた。肩の上で切りそろえられた癖のない髪が、目を閉じて凛とした印象の強まった顔にかかる。
「昨夜も大変だったわね」
「はい。また首を突っ込んでしまいました」
顔を上げて苦笑いの先生に、私も首をすくめて恐縮した。
昨夜の私は男性が飛び降りた後呆然自失で、そこに至った経緯の説明を求められてもツッコミどころのない答えを考える余裕もなかった。
結局、その場は真里谷先輩が誤魔化してくれて、それを私は横で黙って聞いていた。自分たちはたまたまフラフラと歩く男性を見かけて追いかけたとか、そんな内容の話だった。
「あの後、急遽避難者全員の身体検査をすることになって一騒動よ」
「お疲れ様です……」
言われてみれば、先生の顔には疲労の色が見えた。
避難者からゾンビが発生した以上、確実に不安の種を潰しておくことが重要になる。朝まで待つなんて悠長なことはできなかったと思う。
「こっちの考えが甘かったのよね。病気では何週間も潜伏期間があるものもあるし。既存の『ゾンビ』のイメージに囚われちゃってたのね。反省したわ」
「……ゾンビって名前も考えものですね」
「これからは、避難者本人の申告に関わらず、全員の身体検査をして傷の有無を確認することになったわ。拒否する人は避難所に受け入れない方針よ」
ゲームと同様の順当な流れだ。
ゾンビ因子の潜伏期間は、ゲームだからこそ設定としてはっきりしていたけれど、現実では臨床例を調べる余裕もないし、現場でできることといったら、ゾンビと接触した人間を徹底して排除することしかできない。それが非情だと分かっていても。
「避難所内からゾンビが出る怖さは想像以上でしたし、みんなの安眠のためにも必要な措置だと思います」
「そうね。まだまだ手探りだけども、安全な避難所になるようにしていきたいわね。ところで、千歳さんって、総務班だったわよね」
「そうです」
桃井先生がおもむろに白衣のポケットから取り出した小瓶に私は目を丸くした。
このアイテムは!?
「私も昨日の夜は遅かったけど、瀬名先生は徹夜したみたいなのよ。これ、差し入れてくれないかしら」
そう言って桃井先生から手渡されたのは、栄養ドリンクの茶色いビンだった。『ラブデ』ではキーアイテムとして出てきたものだ。
本来は太田先生から、昨日ホイッスルを届けたお礼にもらえるのだけど、桃井先生が無事だったので流れが変わったのだろうか。
「分かりました」
「山下先生の机から拝借したものだから、みんなには内緒でね」
ゲームの太田先生と同じことを言う桃井先生に頷いて見せる。
山下先生はゾンビ発生時に出勤していなかった先生で、机の中に大量の栄養ドリンクを常備しているらしい。非常時ということで許してもらおう。
私は桃井先生と別れると、瀬名先生がいると思われる現国準備室へとそのまま足を向けた。
ゲームに出てきた栄養ドリンクは、瀬名先生に限らず攻略対象の誰かに渡すことができたけど、今回はご指名付きで貰ってしまったし、もともと先生のイベントを起こす予定だったので問題ない。
二階にある現国準備室の前まで来てノックをすると、「どうぞ」と中から先生の声がした。
「おはようございます」
「千歳か、おはよう。早いな」
パソコンに向かっていた先生はスーツの上着を脱いだワイシャツ姿で、いつもきっちりと締められているネクタイは緩められ、喉元のボタンが一つ外されていた。確かに、徹夜明けといった感じだ。
「先生、徹夜したんですか?」
「ああ、やることが山盛りでな」
タイピングを止めた先生は、不意にシルバーフレームの眼鏡を外すと目薬をさし始めた。
おおお。眼鏡キャラの瀬名先生は、本編中ついぞ眼鏡を外さなかったので、このシーンは貴重だ。目を瞑って眉間を押さえる先生をこっそりと観察する。
徹夜明けの疲労感が物憂げな雰囲気を醸し出す先生は、眼鏡がないせいでインテリな印象も薄まって新鮮だった。
って、見惚れている場合ではない。
「先生、これ、桃井先生に頂いた差し入れです」
「お、貰っていいのか?」
「はい」
「ありがとう。今じゃ、ふらっとコンビニに行くこともできないからな。助かるよ」
瀬名先生は眼鏡を外したまま栄養ドリンクを受け取った。
近づいてみれば、先生の顎にはうっすらとヒゲが……。緩んだ服装といい、普段は見られない姿を見ていると、これまで『教師』というくくりで見ていた瀬名先生も、一人の男の人なのだなと唐突に思った。
ちなみに創ちゃんはどこぞのアイドルのようにヒゲが薄いようで、寝起きを襲って――もとい、朝一に会ってもツルリとしている。
「先生、少し休んだ方が……」
「そうだな。普段だったら二徹ぐらい平気なんだが、さすがに長丁場になりそうだし」
そう言って、瀬名先生はドリンクの蓋を開けると一気に飲み干した。
「この効果が切れるまでもうひと頑張りしてから、仮眠をとるよ」
再び眼鏡が装着される。
「何か手伝いましょうか?」
「じゃあ、このファイリングを頼む」
「了解です」
しばらくは黙々と作業を続けた。
当初学校にいた教師は十人で、そのうちの二人が昨日サバ女に行ってしまったから、一人一人の負担が大きいのだと思う。
とりあえず今日、警察の機動隊の人が来て、新規の大人の避難者が増えれば少しは楽になるだろう。
気がつけば壁の時計は七時半を回っていた。
頼まれた仕事も終わって、ちょっとした達成感を味わう。
ええと、何か忘れてないだろうか。
「あ!」
「千歳?」
「えっと、なんでもないです……」
声は意外と近いところからした。
先生はキャスター付きの椅子ですぐ隣まで移動してきていて、私の手元を覗き込む。
「もうすぐ朝食の時間だろ? そろそろ終わりにしていいから」
「ちょうど、全部終わりました」
「そっか。ありがとな」
先生の手が私の頭の上に置かれた。
この後の展開で、先生の好感度を計ることができる。そのために来たのだった。
対生徒モードから恋愛モードに切り替わっていれば、瀬名先生の好感度は三十まで上がっている。それはつまり、四人の生徒の攻略対象のうち、三人の好感度も三十以上あるということだ。創ちゃんと高坂君の好感度が三十以上であるのは分かっているから、真里谷先輩次第となる。
「お役に立ててよかったです」
先生の手が優しく頭を撫でで、そして、顔の側面、こめかみから頬をさらりと触れる。
瞬間、首筋がぞくりとした。
「先生、その触り方はセクハラです……」
私は顔を真っ赤にしてゲームの台詞を口にした。
瀬名先生は恋愛モードに切り替わっていた。頬まで触れたのがその証拠だ。
「あ、悪い」
ぱっと手を離した先生は、天を仰いだ。
「相当疲れてるみたいだ……、いやそれはいい訳だな。不快な思いをさせてごめん」
「別に不快ではなかったです。照れただけで」
「そうか。お前でも照れるんだな」
不思議そうな顔をする先生。
どういう意味でしょうか。
「だって、ほら、いつもあの朝比奈とじゃれあってるだろう?」
ゲームにこんな台詞あっただろうか。
「創ちゃんとは小さいときからの付き合いなんで……」
「そうだったな。正直、羨ましいよ。朝比奈が」
眼鏡の奥で切なげに細められる瞳にドキリとした。
何と返せばいいのか、動揺してしまって考えつかない。
とそのとき、朝食時間が迫ったためか、外の廊下を会議室からの団体が通る気配がした。二人の意識がそちらに逸れる。
「もう、行った方がいいな」
促されて心中でホッとした。知らないうちに大分緊張していたようだった。
がしかし、油断した。
結いあげた髪に手が伸びてきて、毛先に向かって流れていく。カールする毛先に指を絡めた瀬名先生は、私の鎖骨の上にそっと垂らした。
今度は背筋がぞくぞくした。
「でも、覚えておいて。俺が血迷うのは千歳だけだから」
近い位置で囁いてすぐさま離れた先生は、うろたえる私をよそに爽やかに笑って見せた。
「先生! 半径一メートル以内に接近禁止で!」
シナリオを無視して咄嗟に叫ぶと、くすくすと笑う先生の声を背中に、私は慌てて現国準備室を後にした。
先生の最後の台詞はゲームで聞いた覚えがある。
実際に聞いてみると、髪に触れる手つきの効果もあって、質の悪い男の人が言いそうな台詞だ。
だけども私は知っている。普段どれだけ瀬名先生が自分に群がる女生徒に気を使っているかを。ミーハーな子にもガチな子にも、変な誤解を与えないようにそれとなく一定の距離を保つつ、それが露骨に見えないように気さくに対応しているのだ。もちろん、自分から不用意に生徒に触れることはないし、女生徒からのスキンシップもさりげなく避けていた。
その日々の努力が台無しですよ。
これが非日常のなせるワザか。ゾンビとは本当に罪深い存在だ。
とにもかくにも――大人の本気怖い。
私は背筋を震わせながら、逃げるように歩き去った。