向日葵の咲く頃
この短編を母に…
小さな庭に母が向日葵の種を蒔いた。
いつも太陽に向かって大きく咲く向日葵を母は好きだった。
「いいことばかりじゃないけど、明るく生きてりゃなんとかなるものよ」
それが母の口癖だった。
母の病が僕ら一家の時間を止めたのは、梅雨明け間近の暑い日のことだった。
向日葵はまだ小さな蕾のままだった。
「お母さんは癌や。末期らしい。けど乳癌やから乳を取ってしまえば、うまくいけば治るかもしれん」
厳格な父はいつもにも増して険しい顔で僕と弟にその事実を告げた。
「明日入院して来週手術や。お前ら、自分の身の回りのことは自分でしてくれよ」
父は言葉少なにそう言って、それきり黙って酒を飲んでいた。
その時母は風呂に入っていて、長い間出て来なかった。
僕は県立高校の一年生で野球部にいた。夏の地区予選を目前にして、練習は上級生中心になり、僕ら一年生はほとんど練習の補助役を務めた。
この頃には先輩たちとも打ち解けはじめ、よく叱られもしたが、練習が終わった後にはグラブの上手な手入れの仕方や、スイングのアドバイスや、スパイクを製造元で安く手に入れる方法を教えてもらったりした。
日は長く、毎日が夏の大会に向けた野球一色の日々だった。
父から母の病のことを告げられた次の日の朝、僕はいつもより早く起きた。自分の弁当を作ろうと思ったのだ。中学生の弟はいつもと変わらずぐっすりと寝たままだった。
台所に行くとすでに母がいて、僕の弁当のご飯を詰めているところだった。
「今日は早いやん」
母は明るく言って、いつもと変わらないように見えた。
「今日から弁当は自分で作るわ」
僕はさりげなく母から目を逸らしながら言った。
「そんなん言うて、ちゃんと作れんの?」
「簡単や」
「へぇ。いっつも弁当のおかずに文句言うてたから、どんなん作るんか楽しみやわぁ」
母はそう言って楽しそうに笑った。
母がいつもと同じように明るいので、僕は救われた思いがした。母が落ち込んでいても、僕には慰めの言葉など何ひとつ思い浮かばなかったからだ。
僕はめざしを何匹か焼いて弁当箱に詰めたご飯の上に乗せ、さらに鰹節をまぶした。ウインナーと梅干しを端っこに詰めて蓋を閉じた。
母は笑って、
「朝練用は?」
と言った。
早朝練習のあと、小さな弁当かおにぎりを食べるのが習慣になっていた。
「もうそんなんいらん」
「あらあら」
電車の時間に追われるように、慌ただしく練習着をバッグに詰めようとした時、きれいに畳まれたユニホームやアンダーシャツやソックスを見て、なぜだか不意に涙が出そうになった。
「いってきます!」
ごまかすように玄関を出ようとすると、
「ちょっと待ち!これ持っていき!」
と母がおにぎりをふたつ渡してくれた。
「あ、ありがとう」
母にありがとうと言ったのは、随分と久しぶりのような気がした。
「お母さん、ちょっと留守にするけど、家のこと、お父さんのこと、頼むわな」
「わかってる」
「それから、向日葵に水やっといてほしいな」
「わかった」
「ゆうちゃんのことも頼むで」
母は弟の名も言った。
「わかってるって。もう行くで!」
玄関を出て、何かに心が引っ掛かって、足を止め振り返ると母が見送ってくれていた。
「はよ、元気になってや!」
僕はそう叫んで、照れ臭いのと時間がないのとで、全速力で駅に向かって駆けた。
母の手術は一応は成功した。しかし、末期だったため、リンパ節からどこかに転移する可能性も高いという。しばらくはそのための検査があり、母の入院は長引いていた。
野球部は一回戦が五日後に迫っていた。
去年は県立高校ながら初の決勝進出を果たしていた。その時のレギュラーが今年は三年生として五人もいる。周りも、そして自分達も、もしかしたらという期待を持っていた。
僕のこの頃の楽しみは、帰りの電車で沙織と一緒になることだった。
沙織とは中学三年生の時同じクラスだった。特に仲が良かった訳ではない。けれど、それぞれ違う学校に通い、別々の制服を着ていることはお互いに新鮮だった。
僕より遠い学校に通っている沙織は、学校が終わるとファーストフードのアルバイトに行っているらしい。ちょうど帰りの電車が僕の部活帰りと重なるのを知ったのは、ここひと月のことだった。
はじめはたどたどしく会話していたのが、ようやく慣れ親しく話せるようになっていた。
野球部の練習が終わるのはまちまちだったが、電車を合わせられそうな日は、一本や二本遅らせても沙織と同じ電車に乗った。
「アルバイトして何か買うの?」
僕は一度沙織に聞いたことがあった。
「別にないけど、ウチは母さんしかいないから、小遣いは自分で稼ぐしかないんよ。母さんはアルバイトのこと、あまりよく思ってないみたいやけど」
「そしたら、僕の小遣いよりずっと多いやん」
「ふふふ、そうかも。でも一応大学行きたいから参考書とか、結構かかるんよ」
「え、今から受験勉強?」
「アハハ。嘘。相変わらず引っ掛かりやすいね。でも、いつか海外旅行したいから今から貯めてるの」
「海外旅行?どこに?」
「まだ決めてないよ。いろんなこと知って、行きたいところが出てきたらっていう感じ。だけど何か欲しいものがあったら買っちゃうかも」
沙織は中学の時よりずっと饒舌になって愉しそうだった。
僕はそんな沙織と束の間話することにときめいていた。けれど、僕は沙織に母が病気で入院していることを話せずにいた。なんとなく重たい話になりそうで話すきっかけを作れずにいたのだ。
その日もいつもの電車に沙織がいた。
僕が電車に乗ると、沙織は恥ずかしそうに笑った。目が真っ赤で、なんだか泣いた後のようだった。
「どうしたんや?」
「なんでもないよ」
と舌を出してはにかんだあと、沙織は俯いてその日は言葉少なだった。
僕は何も聞き出せず、沙織の降車駅が近づいた。
突然沙織が、
「ねぇ、今からお祭り行かない?」
「お祭り?」
僕は驚いて聞き返した。
「隣町の。今日夏祭りやってるはずよ。今から行けば、最後の花火、間に合うかも」
「でも、どうやって?」
「私、自転車だから二人乗りで。20分くらいで着くんじゃない?」
「え、それは僕が漕ぐんだろ?」
「当たり前よ。頼んだわよ」
言ってる間に電車が沙織の降車駅に停まり、沙織に押されて僕はホームに降りた。
「早く早く!」
と急かす沙織に圧倒されながら、僕は頭の隅に父と弟の顔を思い浮かべた。父は今日も仕事で帰りが遅いだろう。
「ちょっと待って」
僕は改札口を出たところの電話ボックスで家の弟に電話をした。
「遅くなるから」
「ええ!飯は?」
「飯ぐらい自分で炊け!炊けなかったらインスタントのラーメンがあるやろ!」
そう言って乱暴に電話を切ると、駐輪場から自転車を押してくる沙織が見えた。
二人分の鞄とバッグをカゴに山積みに積んで、僕がハンドルを受け取ると、沙織は後ろの小さな荷台にちょこんと横乗りに載って、両手を僕の腰に廻した。
「いくで、しっかり捕まっときや!」
と言ってペダルを踏んだ。
幼い頃から遊び慣れた村だから、隣町までの道のりは頭の中に焼き付いていた。けれど、腰に巻き付いた沙織の腕がこそばゆいのと、異性の肌の温もりにどきどきして、僕は何度もハンドルを切り損ねそうになった。
いくつかの信号を跨いで集落を抜けると、町と町を繋ぐ畑の中の一本道に出た。
沙織はぎゅっと抱き着いたまま、いつしか僕の背中に顔を埋めていた。彼女の体温のほかにかすかに生温かいものを背中に感じていた。そっと泣いているのがわかった。
彼女の涙の訳も気にはなったが、僕はこのままずっと自転車を漕いでいたい衝動にかられた。
やがて、遠くでくぐもった、
ドン!
ドォン!
パラパラ
という音が聞こえ、花火が夜空に咲いた。
祭りの町はまだ先だ。
僕は小さな川の橋のたもとで自転車を停めた。
沙織が顔を上げ、夜空を見つめたのがわかった。
ドドン!
ヒュー
ドン!
ドン!
すすきのような花火。
緑や赤のポンポン玉のような花火。
僕と沙織は自転車に乗ったまま、しばらくそのままで花火を眺めた。沙織の腕は僕に巻き付いたままだった。
花火と花火の間の静寂を、蛙や虫の音が埋めていく。
「きれい」
つぶやくように沙織は言った。
それから僕らは自転車を降りた。橋の脇にポツンと忘れ去られたような小さな街灯があり、そこから少し離れた暗がりのガードレールに二人は腰掛けた。
僕は花火を見ながら、母の病のことを思った。
突然に訪れた病を憎く思った。
なぜ病は母を選んだのだろう?
どうして母は病を受け入れてしまったのだろう?
不思議と先程まで僕をどきどきさせていた真横にいる沙織のことは思いによぎらなかった。
ドォォン!
ひときわ大きな音とともに、巨大な柳のように糸を引く花火が夜空に上がり、しばらくパチパチ弾けながら浮かんでいた。
その大きな花火は僕には母の植えた向日葵に見えた。
その最後の巨大な花火が幻のように透けて消えてしまうと、闇と静寂が訪れた。蛙も虫も、アリスの竪穴に吸い込まれたようにいなくなり、静けさの中に僕と沙織はいた。
「何かお願い事した?」
「ん?いや、まあ」
「もうすぐ試合やね。頑張ってね」
「俺は一年生やから、試合にはまだ出られへん」
不意に沙織が僕の手をとり、口もとまで寄せると、手の甲にキスをした。
「なんか変な匂い」
「汗とグローブの臭いや」
「ごめんね、キスはまだ勇気がないの」
僕はすべての筋肉が硬直し、固まったまま沙織を見つめた。
その後、僕はどうやって二人それぞれの家まで帰ったか覚えていない。
ただ、沙織との別れ際、彼女が、
「さようなら」
と言ったことだけは覚えている。
母が退院して家に戻ってきた。経過はひとまず良好だったが、乳房をなくした母は少し老けた気がした。今後、転移するかどうかは50%の確率だという。五年たっても再発がなければ大丈夫だろうが、転移してしまっていれば五年のうちに再発する可能性が高いらしい。
病の確率ほど残酷なものはない。その間、母はどう生きるのか、母とどう生きるのか、だった。
ただ、母が帰ってきた時、庭の向日葵が大きく咲いていて母を喜ばせた。
地区予選は、二回戦でその年の優勝校にサヨナラで敗退した。
沙織とはあの一緒に花火を見た日以来会っていない。
あのいつもの電車に沙織は現れなかった。
何本か前の電車も、後の電車も沙織は乗っていなかった。
母親の再婚で沙織が広島に引越したことを知ったのは、向日葵が枯れた夏の終わりのことだった。
明るく大きく咲く向日葵。どんな理不尽な出来事が起こっても、立ち向かえる勇気が湧いてくる気がします。幻想かもしれませんが、思えば人の思いはみな幻想。しかし弱い自分だからこそ、その思いもイメージも強烈に残ります。
その枯れたあとのはかなさも。