白き約束
誰かファンタジーの意味を教えてくれー。いや、ください。
体がふわふわと漂う。髪が揺れる。手足を動かしても何にもぶつかる気配が無い。
その異変にゆっくりと目を開いてみれば、ただひたすらの白と自分の姿のみが映った。
―――ああ、これは夢だ。
ぼんやりと周りを見渡しながら、けれどはっきりと悟る。こんな感覚もこんな場所も初めてであるのに、何故か絶対的な自信があった。その証拠にほら、頬を抓っても何の痛みも無い。
自分が夢を見ていると自覚し、その中である程度の自由行動が出来る夢は"明晰夢"と呼ばれる。自らの深層心理や願望を探る手段として有効で、心理療法にも活用されているらしいが……。これは些か自由すぎないだろうか?
しばらくその場でふわふわと留まっていると、後ろから何かを叩くような音が二回、聞こえた。
―――コン、コン
振り返ってみればそこに先ほどまで無かったはずの、これまた真っ白な扉がポツリとあった。先ほどのはどうもノックの音らしい。
―――コン、コン
ノックに答えずにいると再度急かすようにして扉を叩かれた。
「どうぞ。」
正直、あの向こうがどうなっていて何がやってくるのかはさっぱり分からないが、恐らく危険なものではないのだろう。
(それに、こちらに害意をもっているのならそもそもノックなんてしないだろうし、ね。)
入室の許可を出せばそれはすぐに姿を現した。
「こんにちは。」
少し訛ったような挨拶とともに現れたのは可愛らしい少女だった。普通の人間にはありえない、さらさらと肩をなでている薄桜色の髪、見つめると吸い込まれそうになる瞳。男としては小さい自分よりもさらに小さくて、美しいという言葉より、優美という言葉より、何より可愛らしいという言葉がよく似合った。
彼女はこちらを見て次にこの空間全体を見渡す。
「まっしろなこころ。貴方、とってもとっても純粋な男の子なのね。」
そしてその声には容姿とはまた違った美しさがあった。鈴の鳴るような声、といったらありきたりだろうか? 声はどこまであるのかも分からないこの空間に響いて消えたが、どうも気になることを言っていた気がする。
「こころ? 純粋って? それって僕の事いってるの?」
「ええ、もちろんそうよ。ここは貴方のこころだもの。貴方しか入ることは出来ないわ。」
先ほど僕はここが夢の中であることを自信満々に断言した。こころがどうこう聞かされた今でもその確信が動くことは無い。僕は自らの目に困惑の色をこれでもかというほど乗せて再び彼女を見つめてみる。そのことが伝わったのか否か、はっきりわからないが、彼女はこう、付け足してきた。
「こころ、と言ったけどこれはあまり正確ではないかもしれないわ。いえ、本質的にはこころということであっているんだけれど……。つまりね、」
彼女はしばし考えるような仕草をしてみせると、この空間についての説明をまるで営業成績が芳しくないセールスマンのような勢いで話し出した。……正直彼女の説明は長い上に分かりにくかったので簡単に整理してみたいと思う。
つまりのところ、この空間はやはり僕の"夢"であるらしい。ただ彼女がこころがどうこう言っていたのは、夢という空間がその人間の深層心理や願望―――要するにこころで構成されていることからくる。人間の精神についての研究で知られる学者、フロイトが夢は無意識の表出であると述べているように、夢とはその人のこころや精神状態が最も顕著に表れる場だ。
だから彼女は言ったのだ。ここは夢であるが、その本質はこころであり、この場が貴方の心を表していると言っても何の遜色も無い、と。
「オッケー、君の言いたいことは良く分かった。」
「あら、あれで分かったの? 私、説明するのあまり上手くないから一回で分かってもらえるとは思わなかったわ。」
なるほど、自分の説明が下手だという自覚はどうもあったらしい。そこまで理解できたところで、再び思いついたのは先ほどと同じ疑問の言葉である。自分の為したことに満足げに微笑む少女に僕は再び問うた。
「うん。そこまでは分かったんだけど、肝心なことがまだだね。」
「そう? もう私満足したから帰ろうかと思っていたのだけれど。」
「いやいや、駄目でしょ。なぜ君はこの僕の夢の中に入ってきたのか、目的が全く果たされてないよ。」
そう、僕がもう一つ知りたいと思ったのは彼女がここへ来た理由そのもの。今までの人生の中でこんなにはっきりとした夢は見たことが無かったし、他人に干渉されることも無かった。それはつまり、彼女が意図して僕の意識に侵入してきたということである。いわば人の心に土足で踏み込むような真似をされたのだから、僕はその目的を知らなければならなかった。
「いやだ、すっかり忘れてたわ。もう私には時間が無いのに危ないところだった。」
頬に両手を当てて真っ赤になっている姿は非常に可愛らしいのだが、今はそんなことより言葉の内容が気になるところだ。僕は頭の中の煩悩をふるふると振り払うと、彼女の言葉を待った。少女は程なくして頬から手を離しこちらに向き直った。
「貴方にお願いしたいことがあるの。」
その表情と声はここに来て見せた中で初めてのもので、恐ろしく真剣であった。その迫力に押されて、僕は思わず肯定の返事を出す。……可愛い子の真剣な顔というのは案外恐ろしいものだな。
「僕に出来ることならいくらでも。」
「本当? よかった。それじゃあね、」
彼女は安堵からかほっと胸をなでる仕草をすると一気に言った。
「私を見つけて。」
「は?」
彼女の言葉は僕の斜め上を行くものであった。彼女は呆けた様子の僕にかまわず話を進める。
「期限は三日。三日目の夕方までに、ここじゃない現実の世界で私を見つけ出して声をかけて。たったそれだけよ。」
「え、ちょっ、君はどこにいるのさ!」
「大丈夫、そんなに遠くじゃない。貴方の近くにいる。目覚めた貴方の手の中にヒントを残しておくから。」
――――お願い。
僕は予想外の言葉に混乱を隠せなかった。だけど真剣に揺れる彼女の瞳と摑まれた両腕を前に僕はただただうなずいてしまう。小さくだけどしっかりと首を縦に振った僕に安心したような顔を見せると、彼女はふんわりと笑って背を向けた。
「良かった、引き受けてくれて。貴方とはまだほんの少ししか話してないし名前も何も知らないけれど、
きっと見つけてくれるって信じてるわ。それじゃあ、」
スタートね、そう言った薄桜色の少女の言葉を最後に僕の視界は白く染まった。
視界が白から普通の色に戻った後、そこは夢ではない現実の世界だった。固く握り締められた手のひらにあった彼女のヒント――――――一枚の桜の花びらをそっと小さな封筒にしまい、僕は彼女を探す。
幸か不幸か、僕の近所には桜の名所と呼ばれる場所が複数あり、そこを見て回るだけであっという間に二日はつぶれてしまった。早いように思われるかもしれないが、そもそも今は休みの時期ではなく昼間は学校に行っているのだ。当然探す時間は限られてくる。
「ったく、こっちの都合も考えて決めてくれないかなぁ。」
三日目の朝、タイムリミットの三分の二を何もなしにすごしたことに苛立ちながらも僕はトーストにかじりつく。家の近くの桜の下は全てまわってみたものの、その場所に感じたものは何も無かった。僅かに諦めの感情が湧いてきたその時、何を思ったのか母親がこんなことを言い出した。
「そういえば、昔良くお参りに言ってた神社のこと憶えてる?」
「昔……。父さんが海外に出張に行ってた時の神社かな?」
その昔、って言っても僕が幼稚園に通っていた時のことだが、ジャーナリストである父が長く内戦が続く地域に取材に行っていたことがあった。当時、心配性の母は毎日のように参拝に行き安全を祈願していたのだが、今言っているのはおそらくそのことだろう。
僕の予想は当たっていたらしく、母はお玉を手に年甲斐もなくキャッキャとはしゃいでいる。
「そうそう! お母さんもあの時は若かったわ。毎日毎日お父さんのために神社に通って……。」
「で、その神社がどうかしたの?」
夫婦の思い出に水を差すのは申し訳ないが、話を戻させてもらう。母に任せているとこの話は一日経っても終わらずに一週間は続くだろうから。
「うん、その神社に桜の木が一本あったでしょ?」
「……え?」
そして耳に飛び込んだ言葉に僕は思わずトーストを落としてしまった。
「ここ、か。」
放課後、学校を飛び出した僕は藁にも縋る思いでただひたすらに足を動かした。母が思い出させてくれた神社は僕の家からは近いが学校からは遠い。普通に歩いていてはタイムリミットに間に合わなかったのだ。
そうして辿り着いたそこは長い石段の上、境内を通り過ぎてさらに奥、まるで人から隠れるようにひっそりと在った。はらはらと花弁をちらし咲き誇るその姿に、思わず口から言葉がこぼれる。
「ビンゴだね。」
情報を提供、というか思い出させてくれた母には感謝しなければならない。桜の木の前に立った時点で僕は確信していた。まるで、昨夜あの空間をすぐさま夢と確信したかのように。
「君でしょ? 僕の夢に出てきた女の子の正体は。」
「……やっぱり、正しかった。見つけてくれた。」
鈴のような声、突然表れた気配。振り向いてみれば夢で会ったままの姿の彼女がそこにいた。夢と変わらない表情の中に僅かに満足げな色をのぞかせている。彼女との約束を守れたことに僕自身も満足すると、ここ三日間の行動の意味とその正体を問うた。
「君は……桜の木、なのかな。あと君の頼みごとの意味も知りたいところだけど。」
「そうね。時間も少ないし急がないといけないわ。」
髪の桜色を輝かせながら、彼女は微笑んだ。
「君が言ってる通り私は桜。妖精、っていえばロマンチックに聞こえるけど実際のところ私はどうしてここにこうしてあるのか、それは全く分からないの。あと私は木の本体じゃなくて花から生まれたみたい。それだけは分かるわ。」
僕が納得して頷くとさらに続ける。
「私がどうして貴方にこんなことを頼んだのか、それも聞いたかしら? それはね、純粋に貴方と……というか人間と一回でもいいからお話ししてみたかったの。」
彼女は大分おちてきた陽を背景に少し笑ってみせた。ただその笑顔は先ほどとは打って変わって寂しそうで、だけどどこか誇らしげなものへと変わっている。
「ほら、あれ見て。」
白い指がさす先には桜が散り若葉が顔をのぞかせ始めている木の姿がある。その根の大きさからその木が生きてきた年月の長さが感じられる。
「私、多分明日にはすべて散るでしょう。でも私が散るということは次代に命を託していくということ。それは花にとってすごく嬉しくて誇らしいことなの。」
まさしく花のような笑みを咲かせて彼女は、でもね、と続けた。
「それはすごく嬉しいんだけど、散ることに対して寂しい気持ちもあるの。特にここは人も滅多に来ないし、誰にも知られずに散っていくことに対してすごく未練があった。」
それには僕も頷くことができた。この神社はそもそも町の中心部からは離れたところに位置している。境内にあまり手入れが行き届いてないことからみても、ここの管理者ですら訪れることは少ないのだろう。そんな場所に来るのはよほどの物好きか年寄りかあるいは……これ以上は過去の僕と母に降りかかってくるのでやめておこう。
「だから誰かにここに来てほしくて、一緒に話してほしくて、私が咲くところを見てほしくて……どうしたらいいかも分からなかったけど一生懸命にそれを思ってた。」
「そしたらどうしてか知らないけど僕の夢につながって君が現れた、と。」
「そうみたいね。」
現実には信じがたいことだ。今回のことを要約してみれば、どうしてそうなったか分からないが桜の花が自分の願いをかなえたい一心で人間の姿に自らを変え人の夢に現れたという、奇跡としか言い表せない出来事。これは全て夢だった、もしくはこの少女の妄言でただの偶然だと言えば自分を納得させることも出来るだろう。だが、
「僕は現実に体験したことを心の奥に押し込めて知らない振りするほど無粋な人間じゃないんだ。」
だから。
「この目に焼き付けよう、君が咲いている瞬間を。そして……絶対に忘れないと誓うよ。」
「誓う?」
「君が純粋だと言ったこの僕のこころに。」
「そう、よかった。」
なんだか少しばかり恥ずかしいセリフを吐いてしまったような気もするが、彼女はそれに満足したようだ。僕たちはその後、ほんの少しばかり取り留めのないことを話していたが、夜の蒼に染まり始めた空を見ると彼女はくるりと僕に背を向けた。
「ほんとはもっともっと話したいけど。私の願いは叶った。満足だわ。」
彼女がそう言い終わるか終らないかの瞬間、強い風が僕の視界を奪った。目を閉じたのは一瞬だったはずなのに、視界を取り戻したその先には風に舞った花びらしかうつらない。
あらためて青と桜が入り混じる大木を見てみれば、そこにはもう見えないはずの少女の姿と声がまだあるような気がして。
――――――ありがとう。
どこか寂しさを感じながら向けた背に感じた空気の震えは、きっと気のせいではない。
ありがとうございました。
読みにくくてさーせん。