第43話 交渉のテーブル
日本政府が各国に送付した文書は、わずか数日のうちに、世界の主要国で最も慎重に扱われる外交資料の一つとなっていた。
表紙には『超小型核融合発電装置の国外提供に関する基本協定案』と記されている。添付された技術資料や運用上の説明を含めれば相当な分量になるものの、各国の交渉担当者が最初に確認したのは、装置の性能でも価格でもなく、使用に際して守らなければならない条件だった。
民生目的に限定した運用、設置場所と用途の事前登録、分解や改造、逆解析の禁止。運用記録の保存と報告義務に加え、重大な違反が認められた場合には供給停止や返還要求の対象となることも明記されている。
従来の発電設備の国際取引とは、明らかに性質の異なる契約だった。
もっとも、日本側にとっても、これほど厳格な条件を外国政府に求めることは容易な判断ではなかった。各国には独自の法律があり、安全保障上の事情もあれば、エネルギー政策に対する国民への説明責任もある。いくら優れた技術であっても、他国から一方的に運用を制限されることを歓迎する政府など存在しない。
それでも、日本は譲れない部分をあらかじめ決めていた。
今回の交渉は、どれだけ多くの国に装置を売れるかを競う場ではない。異なる立場の国々が、同じ約束を受け入れられるかを確かめるためのものだった。
首相官邸の会議室で、三浦官房長官は各国から届いた回答を確認していた。
最初に正式な協議日程が整ったのは、アメリカだった。
「先方は、可能な限り早く導入したいという意向を明確にしています。試験導入から本格配備へ移行するまでの期間を、できるだけ短縮したいようです」
外務省の担当者から報告を受けた三浦は、資料の端に記された質問項目へ目を移した。
「早期導入そのものは、こちらにとっても悪い話ではありません。ただし、国内の製造能力や検証体制を無視した約束はできませんね」
「承知しています。アメリカ側もその点は理解していますが、供給予定数量については、相当踏み込んだ回答を求めています」
会議に同席していた高瀬首相が、静かに口を開いた。
「供給を急ぐ理由は分かる。しかし、相手がアメリカだからといって、安全確認を省略するわけにはいかない。最初の交渉でそこを曖昧にすれば、後に続く国々への説明ができなくなる」
三浦はうなずき、担当者に交渉方針の確認を指示した。
日本が提示するのは、各国共通の基本条件である。導入時期や報告書の形式、技術者の研修日程などは個別に調整できるが、軍事利用や内部解析を認める余地はない。
その原則を維持したまま、最初の交渉が始まろうとしていた。
◇
ワシントンの政府施設では、日本との協議を前に、エネルギー政策と安全保障を担当する関係者が集まっていた。
会議室の壁面には、アメリカ国内の主要な電力供給地域を示す地図が映し出されている。発電所の所在地、送電網の混雑状況、老朽化した設備の更新予定などが重ねて表示され、その一角には日本の超小型核融合炉を導入した場合の試算が並んでいた。
「一基十メガワット級という出力を、どう評価するかが重要です」
エネルギー省の担当者は、地図上のいくつかの地域を指し示した。
「これだけで大都市の電力需要を賄えるわけではありません。しかし、既存の電源設備を補完する形で複数基を配置できれば、送電網への負担を軽減できる可能性があります。特に、電源確保に時間がかかっている地域では、導入までの期間が大きな意味を持ちます」
「だからこそ、初期の供給枠を確保したい」
商務関係の代表者が言葉を引き取った。
「日本国内の製造設備がどれほどの生産能力を持つのか、正確な数字は公表されていません。世界中から注文が集中するなら、交渉が遅れた国は相当長く待たされる可能性があります」
もっとも、アメリカ側が懸念しているのは供給量だけではなかった。
国防関係の担当者は、契約案の一節を示した。
「この条項では、軍事施設への設置が認められていません。軍事目的で使用しない場合であっても、施設の性質によって対象外となる可能性があります。われわれとしては、もう少し明確な区分が必要です」
「日本側の説明では、軍事目的への転用を防ぐための条件だそうです」
「その説明は理解しています。ただ、軍と民間が共同利用する設備もあります。空港や通信施設など、用途の区分が単純ではない場所について、確認する必要があるでしょう」
安全保障上の懸念を無視するわけにはいかない一方、交渉の目的を見失えば、導入そのものが遠のいてしまう。
しばらく議論が続いた後、会議の責任者は方針をまとめた。
「われわれが優先すべきなのは、民生分野での早期導入です。軍事利用の禁止については日本の立場を尊重し、そのうえで運用対象の区分を確認する。製造技術の移転についても、現時点では要求の中心に置かない」
「国内での製造を求めないのですか?」
「求めたところで、認められる見込みがあるとは思えません。交渉を長引かせて最初の導入機会を失うほうが問題です」
その判断には、技術的な事情もあった。
内部構造が公開されていない以上、アメリカの研究者が装置を購入しただけで製造方法を再現できるわけではない。しかも、日本が公表している保護機能は、許可されない内部への干渉を想定して設計されている。
ならば、まずは完成した装置を正式に受け入れ、外部から測定できる範囲で運用実績を積み重ねるほうが現実的だった。
日本とのオンライン協議が始まると、アメリカ側は早速、導入までの工程を質問した。
「わが国としては、民生用の試験設備への早期導入を希望しています。初期導入に必要な審査と技術者研修を並行して進めることは可能でしょうか」
日本側の交渉責任者は、準備していた回答を示した。
「審査資料の確認と研修計画の調整は、並行して進められます。ただし、実際の引き渡しは製品ごとの品質確認と受入施設の安全審査を終えた後になります」
「最初の供給数量について、現段階で目安を示すことはできますか」
「確定した数量は、各国の導入計画と国内供給への影響を確認したうえで提示します。供給能力を超える数量を先に約束することはできません」
アメリカ側の担当者は、回答を聞きながら資料に書き込みを加えた。
期待していたほど明快な数字ではなかったが、日本が交渉を拒絶しているわけではないことも分かった。
続いて、軍民共同施設に関する質問が出された。
日本側は、施設の名称だけで判断するのではなく、管理主体、実際の用途、軍事活動との関係を個別に確認すると説明した。ただし、軍事目的への使用を認めないという原則は変わらず、登録内容と異なる運用には事前の承認が必要となる。
さらに、契約違反に対する停止措置について、アメリカ側から確認が求められた。
「日本政府が判断すれば、理由の説明もなく装置を停止できるという理解でよいのでしょうか」
「いいえ。装置自身の保護機能による自動停止と、契約違反に対する政府の措置は区別しています。後者については事実確認と通知を原則とし、必要な是正の機会を設けます。重要インフラへの影響が見込まれる場合には、代替電源の確保に必要な猶予も考慮します」
「その手続きが契約上も明確であるなら、検討可能です」
協議は数時間に及んだが、最終的にアメリカ側は基本条件を受け入れる方針を示した。
署名に向けた実務確認は残っているものの、軍事利用禁止を撤回させる要求は行われなかった。
交渉終了後、アメリカ側の責任者は席を立ちながら、隣の担当者に声をかけた。
「最初に導入できる数が少なくても構わない。重要なのは、実際に運用を始めて、次の判断に使える経験を得ることだ」
その言葉を受け、担当者は国内の候補施設の資料を開いた。
交渉が進んだことで、机上の計画はようやく現実の準備へ移り始めていた。
◇
同じ頃、中国の北京では、日本の契約案を巡る議論が、アメリカとは異なる方向へ進んでいた。
国家主席の趙建国が出席する会議には、経済政策を担当する王志強副総理と、核融合技術の専門家である陳文博も招かれていた。
王は、契約案の翻訳資料を机に置くと、厳しい表情で発言した。
「この条件をそのまま受け入れれば、導入後の運用にまで日本の承認が必要になります。わが国が自国内に設置する発電設備について、外国政府にこれほど広い関与を認める前例は、慎重に考えなければなりません」
趙はすぐには答えず、別の資料を確認した。
「アメリカと欧州の動きはどうなっている」
「アメリカは早期導入を優先しているようです。欧州側も協議を進めていますが、長期的な保守体制と制度上の責任分担を重視しています」
「つまり、どちらも導入そのものを拒否するつもりはないということか」
「現時点では、そのように見ています」
王の返答を聞いた趙は、椅子の背に身体を預けた。
中国は世界有数の電力需要を抱え、発電設備や送電網の整備にも多額の資金を投じている。超小型核融合炉が直ちに既存の発電方式を置き換えるわけではないが、将来的な影響を無視できる技術でもなかった。
問題は、装置の導入によって得られる利益と、日本が求める制約のどちらを重く見るかである。
「陳文博。技術的な観点から説明しろ」
指名された陳は、手元の資料を開いた。
「公開された試験結果を見る限り、外部出力と安全停止に関する性能は注目に値します。ただし、内部構造が非公開である以上、わが国の技術者が独自にすべてを検証することはできません。契約案で認められているのは、外部からの計測、運用状態の確認、指定された範囲での点検です」
「それでは、装置の内部で何が起きているか分からないまま使用することになる」
王の指摘に、陳は首を横に振らなかった。
「その通りです。しかし、内部を理解できないことと、外部から運用の安全性を評価できないことは同じではありません。受入試験と継続的な監視によって確認できる項目はあります。逆に、装置を分解できたとしても、それだけで長期的な安全性を証明できるわけではありません」
「日本側の保護機能についてはどう考える」
「詳細は公開されていません。ですが、禁止されている操作を試みることは、契約違反になるだけでなく、装置が停止する危険も伴います。実用目的で導入するのであれば、許可された範囲で運用することが合理的です」
陳の説明は、政治的な判断に踏み込まないものだった。
それでも、王には十分に伝わっていた。現時点で日本の技術を独自に再現できる見通しはなく、無理に条件を緩めさせようとしても、装置そのものを入手できなくなる可能性がある。
趙は二人の意見を聞き終えると、ゆっくりと口を開いた。
「日本の技術を導入することが、わが国の技術力を否定することにはならない。必要なものを利用し、その間に自国の研究開発を進めればよい」
王は、その言葉に含まれた意図を理解した。
契約条件に不満があっても、他国が先に導入を進める状況で、中国だけが交渉の席を離れることは得策ではない。
「では、基本条件を受け入れる方向で交渉を進めます。ただし、運用記録の提出範囲や国内法との関係については、可能な限り調整を求めます」
「それでよい。わが国の立場を主張したうえで、必要な技術は確保しろ」
会議が終わると、王は陳を呼び止めた。
「日本側の装置は、軍事目的に使われた場合、本当に停止すると思うか」
陳は一瞬だけ考え、慎重に答えた。
「日本側がその機能を実装していると説明している以上、停止するものとして扱うべきです。どのような条件で作動するかを外部から完全に判断できないのであれば、なおさらです」
「そうか」
王は短く返事をしただけだった。
陳は会議室を出ながら、技術資料の最後のページをもう一度確認した。そこには、異常時に周辺へ危険を及ぼさず、安全な状態へ移行することを目標とした保護設計について、簡潔な説明が記されている。
研究者としては、その仕組みを詳しく知りたい気持ちがあった。しかし、知りたいという欲求と、実際に触れてよいかという判断は別である。
少なくとも、発電設備として利用するのであれば、守るべき条件は明確だった。
翌日、日本との正式協議に臨んだ中国代表団は、予想どおり、運用計画の変更承認と記録提出義務について強い懸念を表明した。
「わが国の国内法に基づいて管理される設備について、外国政府の承認を必要とする範囲が広すぎます。運用の自主性を尊重した制度に改めるべきです」
日本側は、その要求に対して、報告方法の調整と安全条件の変更を分けて回答した。
「国内法に基づく管理は各国の責任です。ただし、本装置の使用許諾に関する条件は、導入国に共通して適用されます。報告書の形式や提出手順については協議できますが、登録された用途を無断で変更することは認められません」
「仮に、発電設備を別の施設へ移す必要が生じた場合も、日本側の承認が必要なのですか」
「はい。設置場所と用途は安全管理上の重要事項です。移設そのものを一律に禁止するのではなく、事前に計画を提出していただき、条件への適合を確認します」
中国側は続いて、違反時の返還要求についても異議を唱えた。
自国の施設に設置した装置を、外国政府の判断によって返還させられるという条項は、政治的に受け入れにくいものだった。
日本側の担当者は、相手の主張を遮らずに聞いたうえで、回答した。
「返還は、軽微な事務上の不備に対して直ちに求めるものではありません。違反の内容を確認し、是正の機会を設ける手続きがあります。ただし、重大な禁止行為が認められた場合に、返還を求める権利そのものを削除することはできません」
交渉は一度休憩に入り、中国代表団は本国との連絡を取った。
王のもとへ届いた報告には、日本側が安全条件を一切緩めていないこと、ただし運用報告の様式や審査窓口については実務的な調整に応じていることが記されていた。
王はその内容を確認すると、短い指示を返した。
「基本協定を受諾する。運用上の協議事項は別途整理しろ」
中国代表団が交渉の席に戻ったとき、日本側の担当者は、先ほどまでとは異なる空気を感じ取った。
「わが国は、いくつかの条件について引き続き懸念を有しています。しかし、エネルギー分野での協力の重要性を考慮し、提示された基本的な安全条件を受け入れる用意があります」
それは歓迎一色の回答ではなかった。
だが、交渉の目的から見れば、十分に大きな前進だった。
◇
欧州側との協議では、さらに別の問題が中心となった。
欧州連合の関係機関と加盟国の代表者が参加する会合では、日本の技術に対する関心が共有されている一方、長期運用に伴う責任分担について、細かな確認が続いていた。
「この装置が十年、二十年と使われる場合、保守に必要な部品や交換機を日本から継続して供給できるのでしょうか」
エネルギー政策担当者の質問に、日本側は慎重に答えた。
「長期供給体制の整備は重要な課題と認識しています。ただし、現段階で二十年間の無故障運転や、すべての交換需要に無条件で対応できると保証することはできません」
「保証できないのであれば、導入国は何を根拠に設備投資を判断すればよいのですか」
「確認済みの性能と、今後の検証計画を区別して提示します。定期的な安全評価、交換対応、運用実績の共有についても、協定に基づく枠組みを整備する考えです」
欧州側が求めているのは、単に装置を購入できるという約束ではなかった。
発電設備は、一度設置すれば何年にもわたって地域の暮らしや産業を支えることになる。導入時の性能が優れていても、故障した際に修理できなければ意味がない。供給国の政策が変わっただけで運用に支障が生じるようでは、公共インフラとして採用する判断も難しくなる。
欧州側の法律顧問は、停止措置に関する条項を取り上げた。
「われわれが重視しているのは、契約違反の有無を判断する手続きの透明性です。重大な違反があった場合に日本が対応する権利を持つことは理解できます。しかし、その判断に異議がある場合、導入国にはどのような説明や協議の機会が与えられるのでしょうか」
日本側の担当者は、準備していた補足文書を示した。
「違反の事実関係を通知し、説明を求める手続きと、当事国間の協議を設けます。異議がある場合の資料提出や、第三者の専門的な意見を求める方法についても検討可能です。ただし、装置の保護機能が危険な使用を検知した際の自動停止は、外交上の協議を待って行われるものではありません」
「その二つを区別することは、われわれにとっても重要です」
欧州側の代表者は、手元の資料に目を落とした。
「もう一点、医療施設や上下水道施設などへの導入を想定した場合、装置の停止が市民生活に与える影響をどう扱いますか」
「代替電源の確保と、停止時の対応計画を導入審査に含めます。単一の装置だけに重要機能を依存させる運用は推奨しません。また、契約上の停止措置を実施する場合は、緊急の安全上の事情を除き、必要な事前通知と準備期間を設ける方針です」
その回答に対し、欧州側からは、各国の電力規制当局との情報共有を求める提案が出された。
協議は技術的な性能よりも、運用制度の細部に多くの時間を費やした。
しかし、日本側にとって、それは決して無駄な時間ではなかった。実際に公共インフラへ組み込む以上、装置の性能だけでなく、誰が責任を持ち、問題が起きたときにどう対処するのかを決めておく必要があるからだ。
最終的に欧州側は、安全条件を維持したまま、保守対応と情報共有の実務文書を整備することで基本協定を受け入れる方針を示した。
アメリカが導入の速さを求め、中国が運用上の主権を重視したのに対し、欧州は制度としての継続性を確かめようとしていた。
それぞれの交渉で交わされた質問は異なっていたが、結論は同じだった。
日本が提示した安全上の原則を変えることなく、導入へ向けた協議が進むことになったのである。
◇
各国との主要な協議が一巡した日の夕方、高瀬首相は三浦から報告を受けていた。
執務室の机には、アメリカ、中国、欧州それぞれの交渉記録が並んでいる。資料の厚さも、質問の内容も、各国が求めるものの違いをよく表していた。
「アメリカは早期導入を希望し、欧州は保守体制と責任分担の明確化を求めています。中国は最後まで運用制限に難色を示しましたが、基本条件の受諾を正式に伝えてきました」
三浦の報告を聞いた高瀬は、資料を閉じた。
「中国も受け入れたか」
「はい。ただし、外交上の懸念を撤回したわけではありません。国内向けには、自国の判断で必要な技術協力を選択したという説明になるでしょう」
「それで構わない。相手国が国内でどう説明するかまで、こちらが決める必要はない」
高瀬は少し考えてから、別の資料を手に取った。
「重要なのは、同じ条件を守るという約束だ。アメリカには早く渡して、中国には厳しくする。あるいは、その逆をする。そんなことを始めれば、この協定の意味がなくなる」
「供給数量についても、外交関係だけで決めることは避ける方針です。国内需要と製造能力、受入施設の準備状況を確認したうえで、初期配分を検討します」
「よろしい。ただし、条件を受け入れたからといって、明日から装置を送り出せるわけではないことは、改めて周知しておいてくれ」
現在、日本国内で実施された送電試験は大きな成果を上げている。しかし、海外の異なる電力規格や設置環境に対応するには、個別の確認が必要になる。
長期運転の実績も、これから積み重ねていく段階だった。
日本が持つ技術が規格外であることと、その技術を社会で安全に使い続けられることは、同じ意味ではない。
「各国の技術者を受け入れる準備はどうなっている」
「研修内容の調整が進んでいます。装置内部に立ち入るものではなく、運転手順、外部計測、安全停止時の対応、運用記録の管理などが中心になります」
「国内の担当者にも負担がかかるな」
「相当なものになると思われます。ただ、白石理沙さんをはじめとする研究・運用担当者からは、海外導入で得られる外部データを適切に共有できれば、今後の安全評価にも役立つという意見が出ています」
高瀬はうなずいた。
日本が技術を独占していると見なされることへの懸念は、政府内でも以前から議論されていた。だが、今回の交渉を通じて、少なくとも一つの方向性は示せた。
技術そのものを無条件に渡すのではなく、安全に使用するための約束とともに提供する。
その方法がすべての国に歓迎されるとは限らない。それでも、無秩序に広めるよりは、はるかに責任のある選択だと高瀬は考えていた。
「今回の交渉結果は、協力者にも伝えておく必要がありますね」
三浦がそう言うと、高瀬は首を縦に振った。
「もちろんだ。ただし、細かな外交上の駆け引きまで報告して負担をかける必要はない。安全条件を緩めずに各国の受諾を得られたこと、今後は具体的な導入準備に進むこと。それを正確に伝えてくれ」
「承知しました」
三浦は資料をまとめながら、少しだけ表情を和らげた。
「最初にこの話が持ち上がったときは、各国が同じ条件を受け入れるとは思っていませんでした」
「私もだよ」
高瀬は苦笑した。
「だが、向こうも現実を見ているということだろう。欲しい技術があるからこそ、守るべき約束について真剣に交渉する。その点では、今回の協議は健全だったと思う」
もっとも、協定への受諾が、そのまま将来の履行を保証するわけではない。
署名された文書を守るのは、結局のところ、それぞれの国の政府と、実際に装置を扱う人々である。
高瀬はそのことを忘れないように、三浦へ一つだけ付け加えた。
「今後は、契約を結ぶこと以上に、結んだ契約をどう運用するかが重要になる。こちらの管理体制も整えておいてくれ」
三浦は、今度は真剣な表情で返事をした。
◇
数日後、各国との基本協定に関する最終的な確認が行われた。
アメリカは民生分野への早期導入を目的として、日本の共通条件を受け入れた。欧州側も、保守と運用に関する補足的な実務調整を続けることを前提に、同じ条件への同意を示した。
中国については、最後まで慎重な文言の調整が続いた。
中国代表団は、自国のエネルギー政策に関する決定権を尊重するよう求め、日本側は、導入するかどうかは各国が自由に判断できる一方、導入を選択した場合には契約上の義務が生じるという立場を維持した。
その結果、双方は安全条件を変更せず、国内法に基づく管理と契約上の義務を両立させることを確認した。
各国の正式な手続きが整うと、基本協定への署名が順次行われた。
署名式は華々しいものではなかった。国際的な注目を集める技術の契約でありながら、報道陣に公開されたのは限られた時間だけで、具体的な製造方法や保護機能の詳細が明かされることもなかった。
それでも、署名された文書には大きな意味があった。
超小型核融合炉を国外へ提供するための共通した約束が、初めて複数の国との間で成立したのである。
日本政府は同日、協定締結に関する発表を行った。
発表では、民生利用を目的とする国外提供の枠組みが整ったこと、各国との間で共通の安全条件が確認されたこと、今後は導入先の審査や技術者研修、供給計画の調整を進めることが説明された。
一方で、実際の輸出開始日や初回供給数量については、まだ確定していないと明言された。
記者からは、中国を含む各国に同じ条件を適用する理由について質問が出された。
政府報道官は、準備していた回答を読み上げるのではなく、正面から説明した。
「この技術は、国ごとに安全上の基準を変えてよい性質のものではありません。どの国で利用される場合も、発電設備として守らなければならない条件は同じです。日本政府は、導入を希望する国との協力を進める一方、契約の履行についても適切に確認してまいります」
さらに、装置の提供者について質問が及んだが、政府は従来の方針を維持した。
開発に協力した人物や組織の詳細は明らかにされず、個人の身元に関する情報も公開されなかった。
世界各国の政府が日本との契約に署名したその日も、実際に装置を創り出した小鳥遊紬の名前が、国際ニュースに登場することはなかった。
◇
夜になり、高瀬は執務室で最後の報告書を読み終えた。
机の上には、各国の署名が確認された協定の写しと、今後の作業予定がまとめられている。
数週間前には、日本の発電施設で送電に成功したばかりだった装置が、今では複数の国のエネルギー政策に組み込まれようとしている。
その変化の速さを考えると、落ち着いているつもりでも、胸の内に緊張が残っていた。
三浦が入室し、翌日から始まる実務協議の日程を報告した。
「受入施設の候補地について、各国から資料が届き始めています。アメリカは審査を急いでおり、欧州側は規制当局との調整を進めています。中国も正式な窓口を指定しました」
「そうか。では、ここからは実際に動くことになるな」
「はい。まだ輸出は始まっていませんが、準備は次の段階に入ります」
高瀬は窓の外に目を向けた。
東京の夜景には、数え切れないほどの明かりが灯っている。その一つ一つの向こうに、仕事を終えて帰る人や、家族と食事をする人、明日のために眠ろうとしている人がいる。
発電設備の役割は、結局のところ、そうした暮らしを支えることだった。
「三浦君」
「はい」
「世界に渡すのは、装置だけではないな」
三浦は少し考えてから答えた。
「安全に使うための責任も、ということでしょうか」
「ああ。日本だけが責任を持つのでも、導入国にすべてを任せるのでもない。互いに約束を守りながら運用していく。その仕組みを、これから実際に機能させなければならない」
三浦はうなずき、翌日の会議資料を机に置いた。
そこには、初回輸出候補となる装置の製造確認、輸送方法、現地での設置手順、試運転に必要な条件などが、細かく整理されていた。
交渉のために使われていた資料が、いつの間にか、装置を動かすための計画へ変わっている。
高瀬はその最初のページを開いた。
海を渡る準備は、もう始まっていた。




