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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第2章 何でもできる私と、変わりはじめた世界
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第38話 日本に灯る新しい光

 太平洋に面した火力発電所の敷地には、夜明け前から人の姿があった。


 海から吹き込む風はまだ冷たく、作業服の襟を立てた技術者たちが、照明に照らされた構内を行き来している。遠くには既存の発電設備が巨大な影を落とし、その一角では、周囲の景色にまるで似つかわしくない小さな装置が、厳重な管理区域の中央に据えられていた。


 小型核融合炉『ぺんぎんぽかぽか炉』。


 家庭用冷蔵庫ほどの大きさしかないその装置は、十メガワットもの電力を安定して供給できることが、すでに研究施設で確認されている。だが、そこで行われたのは、あくまで試験用の負荷に電力を流す実証実験だった。


 発電所から送電網へ電気を送り出すとなれば、話は違ってくる。


 電圧、周波数、保護装置の動作、既存設備との協調、万が一の際に電力を遮断する仕組み。確認すべき事項は数え切れず、装置そのものが正常に動いているだけでは、系統への接続を許可することはできない。


 そのために、政府と電力事業者、研究機関の技術者たちは、数週間にわたって準備を進めてきた。


 そして今日、初めて一般の送電網へ電力を送り出す。


 中央監視室の壁に設置された時計が午前六時を示したとき、運転責任者の森田修司は、机の上に置かれた確認表をもう一度手に取った。


「最終確認を始めます。設備側、現在の状態を報告してください」


 落ち着いた声だったが、森田の右手は確認表の端を強く押さえていた。


「核融合炉本体、停止状態を維持。外部計測値に異常なし。補機電源正常、冷却系統正常。保護回路の自己診断、すべて良好です」


「系統側は?」


「受電設備、変圧器、遮断器ともに正常です。系統運用センターとの通信も確立しています。連系条件は事前協議の範囲内です」


 報告した若手技術者の声には、わずかな硬さがあった。


 森田はそれを咎めなかった。緊張しているのは彼だけではない。長年発電設備を扱ってきた自分でさえ、今日の作業が普段と同じだとは思えなかった。


 ただし、だからといって手順を変える理由にはならない。


「予定どおり、確認を一つずつ進めましょう。何か気になることがあれば、どんなに小さなことでも作業を止めてください」


 監視室の奥で、白石理沙が静かにうなずいた。


 研究施設で装置の性能試験に立ち会った彼女は、今回も技術的な助言者として現地に来ている。しかし、発電所の運転を指揮するのは森田たち現場の技術者であり、理沙自身もその役割を尊重していた。


「白石さん、研究施設での試験と比べて、何か懸念はありますか」


「装置本体について、現時点で新しい異常は確認されていません。ただ、今回は外部の送電網とつながります。負荷が変化した際の応答については、こちらでも独立して計測します」


「お願いします」


 森田が確認表に印を付けると、隣にいた副責任者が小さく息を吐いた。


「しかし、何度見ても妙な光景ですね」


「何がです?」


「この建物の中にある装置一つで、十メガワットですから。これまで扱ってきた設備と大きさが違いすぎます」


 監視室の窓から見える従来の発電設備は、配管や補機を含めれば広い敷地を必要とする。それに比べ、核融合炉の本体はあまりにも小さかった。


「小さいからこそ、周辺設備まで小さくしていいとは限りませんよ」


 森田は確認表から顔を上げずに答えた。


「安全に電気を送り出すための仕事は、何も減っていません」


 その言葉に、副責任者は真面目な表情でうなずいた。


 午前七時過ぎ、最初の段階に進む許可が下りた。


 装置は慎重に起動され、外部への供給出力を抑えた状態で運転を開始する。監視画面には電圧や周波数、出力、温度などの数値が並び、担当者たちは事前に決められた項目を順番に照合していった。


 研究施設で実証した性能が、別の場所でも同じように発揮されるか。それは重要な確認事項だったが、誰も結果を当然のものとは考えていない。


「出力、安定しています」


「外部計測も一致しています。許容範囲内です」


「系統運用センターから連絡。現在の系統状態は安定。連系操作の準備を進めてよいとのことです」


 森田は時計を見た。


 予定より数分早い。


 しかし、早く進める必要はなかった。


「次の確認が終わるまで待機します」


 誰も異議を唱えなかった。


 その頃、東京の首相官邸でも、関係者たちが現地からの報告を待っていた。


 高瀬首相の執務室には、官房長官の三浦と担当職員が集まっている。大型の画面には発電所の監視室から送られてきた映像が映っていたが、一般向けの中継ではなく、政府関係者に限られた連絡回線だった。


「現地の準備は順調だそうです」


 三浦が報告すると、高瀬は手元の資料を閉じた。


「予定より早く終わらせる必要はない。安全確認を最優先にするよう、改めて伝えておいてくれ」


「すでに現地にも共有されています。運転責任者は慎重な人物だと聞いています」


「それならいい」


 高瀬は画面に映る監視室を見つめた。


 政府が小型核融合炉の実証成功を発表した日から、国内外の関心は途切れていない。発電の将来を大きく変える技術として期待される一方、実際に電力を供給できるのか、継続的な運用に問題はないのかという疑問も残されていた。


 今日の送電は、その疑問に対する一つの答えになる。


 もっとも、十メガワットの装置が一基動いたところで、日本中の発電所を置き換えられるわけではない。需要の変動に対応するための運用方法や、複数の装置を使う場合の安全管理など、解決すべき課題はこれからも続く。


「首相」


 三浦が少し声を落とした。


「今回の成功を受ければ、海外からの技術提供要求はさらに強まると思われます」


「だろうな」


「製造設備の国外移転についても、改めて協議を求められる可能性があります」


 高瀬はすぐには答えなかった。


 核融合炉の製造設備や技術を国外へ提供しないという方針は、すでに関係者の間で確認されている。だが、発電設備として実際に動き始めれば、各国の受け止め方も変わるだろう。


「技術の扱いについて、約束を変えるつもりはない」


「承知しました」


「それと、協力者のことだ。今日の報道で余計な情報が出ないよう、徹底してくれ」


 三浦は深くうなずいた。


 核融合炉を生み出した人物の素性は、今も一般には知られていない。


 その秘密を守ることは、政府にとって単なる情報管理ではなかった。過去に一度、協力者との信頼を損なった経験があるからこそ、同じ過ちを繰り返すわけにはいかなかった。


 一方、その協力者本人はというと、官邸の緊張とはまるで無縁の場所にいた。


 小鳥遊紬は、自宅のソファに座り、両手でマグカップを包み込んでいた。


 目の前のテーブルには朝食のトーストが置かれているが、彼女の視線は、壁に浮かんだ映像へ向けられている。


 そこには発電所の外観と、関係者向けに共有が許可された運転状況の概要が表示されていた。


「まだ始まんねえのか?」


 隣のクッションに座ったボスが、短い翼をぱたぱたと動かした。


「もう始まってるよ。今は、送電する前の確認だって」


「さっきから確認ばっかじゃねえか」


「大事なんだと思う」


「そりゃ分かってるけどよ。俺ならもう三回くらい送電してるぞ」


「それは……たぶん、だめ」


 紬が困ったように笑うと、ボスは不満げにくちばしを鳴らした。


「冗談だっての。俺だって安全第一くらい知ってるわ」


 その横で、銀色の髪を揺らしたアイリスが姿を現した。


「マスター。現地の進行は計画の範囲内です。現在の確認項目が完了すれば、系統連系の操作に移る予定です」


「そっか……」


 紬はマグカップに口を付けた。


 自分が創り出したものが、遠く離れた発電所で、多くの人たちに囲まれながら動いている。


 研究施設で試験したときも不思議な気持ちはあったが、今日は少し違った。


 あの小さな装置から送り出される電気が、送電網を通って、どこかの建物へ届く。


 その先にいる人の顔は分からない。何に使われるのかも、ひとつひとつ知ることはできない。


 それでも、誰かの暮らしにつながるのだと思うと、胸の奥が落ち着かなくなった。


「ねえ、ボス」


「あん?」


「もし、途中で何か問題が起きたら……」


「そんときゃ止めるだろ」


 ボスはあっさり答えた。


「ちゃんと止められるように、あいつらが何日も準備してんじゃねえのか?」


「うん」


「だったら任せとけよ。お前が今ここで心配したって、現場の数字が変わるわけじゃねえんだから」


 少し乱暴な言い方だったが、紬にはその意味がよく分かった。


 自分にできることと、専門家に任せるべきことは違う。


 以前の紬なら、何か不安があれば、すべて自分でどうにかしようとしていたかもしれない。けれど、今は違う。装置を作ることができても、それを社会の中で安全に運用するためには、たくさんの人の知識と経験が必要だった。


「……うん。信じて待つ」


「おう。それでいい」


 ボスは満足そうにうなずき、テーブルのトーストへ視線を移した。


「ところで、それ食わねえなら俺がもらうぞ」


「食べるよ」


「ちっ」


「ボスには、こっち」


 紬が小さく切り分けたパンを差し出すと、ボスは何事もなかったように受け取った。


 発電所では、いよいよ連系操作の時刻が近づいていた。


 午前九時四十二分。


 監視室に、系統運用センターから最終確認の連絡が入った。


「系統側、受け入れ準備完了。連系条件を確認済みです」


 森田は手元の確認表を見渡した。


 署名欄には各担当者の確認がそろっている。保護装置の試験結果、通信状態、遮断器の動作、緊急停止時の手順。どれも繰り返し確認してきた項目だが、最後の一枚に目を通すまで、彼は次の指示を出さなかった。


「現地側、異常の報告はありませんか」


「ありません」


「計測担当?」


「異常なし。外部計測系も正常です」


「白石さん?」


「装置側の状態に問題はありません」


 森田は一度だけ深く息を吸った。


「それでは、連系操作に入ります。操作担当、手順書に従って進めてください」


「了解しました」


 監視室の空気が張り詰めた。


 操作卓の前に立った技術者が、指示された項目を読み上げる。別の担当者が復唱し、表示された条件を確認する。


 遮断器の投入操作が行われた。


 画面上の表示が切り替わる。


 その瞬間、誰かが声を上げることはなかった。


 全員が数値を見ていた。


「連系状態、成立を確認」


「電圧、正常範囲です」


「周波数、安定しています」


「有効電力、系統側への流出を確認。現在、指示値どおりです」


 森田は表示を見つめたまま、次の報告を待った。


「逆電力方向、確認しました。送電しています」


 静かな声だった。


 しかし、その一言は監視室にいた全員へ、はっきりと届いた。


 日本で初めて、小型核融合炉から一般の送電網へ電気が送り出されたのだ。


 森田はすぐに喜びの声を上げることなく、次の指示を出した。


「状態を維持。計測を続けてください。出力変更は予定時刻まで行いません」


「了解」


 技術者たちは持ち場を離れなかった。


 画面に並ぶ数値は、どれも許容範囲に収まっている。送電網側の状態も安定していた。


 数分が過ぎ、予定された観測時間を終えると、森田は段階的な出力増加を指示した。


 小さな変化を与えるたびに、装置側と系統側の両方で応答を確認する。計測値が想定どおりに推移していることを確かめてから、次の段階へ進む。


 出力はゆっくりと上昇していった。


 やがて、画面に表示された数値が九メガワットを超える。


「系統側、安定」


「装置側、異常なし」


「予定の最終段階に入ります」


 森田がうなずく。


 十メガワット。


 監視画面にその数字が表示されたとき、誰かが小さく息をのんだ。


 研究施設ではすでに確認されていた出力だ。数字そのものが初めてというわけではない。


 だが、今回は試験用の負荷ではない。


 既存の送電網へ、実際に電力が流れている。


「十メガワット、到達。安定しています」


 計測担当者の声が、少しだけ震えた。


 森田は腕時計に目を落とし、観測時間を確認した。


 数値は変わらない。


 電圧も、周波数も、周辺設備の状態も、想定された範囲に収まっている。


 そして、所定の観測時間が経過した。


「十メガワットでの系統送電、確認完了です」


 森田がそう告げると、監視室のあちこちから、押し殺していた息が漏れた。


 誰かが小さく拍手を始めた。


 それに応じるように、別の場所からも手を打つ音が聞こえる。


 しかし、森田は片手を上げて制した。


「まだ運転は続いています。担当者は監視を継続してください」


 その言葉に、技術者たちはすぐに表情を引き締めた。


 森田自身も、喜びを感じていないわけではなかった。むしろ、胸の内には長年この仕事を続けてきた中でも経験したことのない感情が広がっている。


 それでも、今日の仕事は送電を成功させることだけではない。


 安全に運転し、安全に停止できることまで確認して、初めて一日の作業が終わる。


 理沙は監視画面の前で、記録された波形をじっと見つめていた。


 研究施設で初めて装置の性能を確かめたとき、彼女は科学者としての好奇心を抑えるのに苦労した。内部構造を詳しく調べることは許されず、外部から測定できる情報だけを頼りに評価するしかなかったからだ。


 それでも今、目の前には確かな結果がある。


 未知の原理で動く装置が、既存の電力設備と接続され、実際の社会で利用できる電気を送り出している。


 その事実を、彼女は研究者としてだけでなく、一人の人間として受け止めていた。


「白石さん」


 隣の技術者が声をかけた。


「どうかしましたか?」


「いえ……本当に、つながったんですね」


 理沙は画面から目を離し、少しだけ笑った。


「ええ。私たちの確認できる範囲では、間違いありません」


「最初にこの話を聞いたとき、正直、信じられませんでした」


「私もです」


 理沙の答えに、技術者は意外そうな顔をした。


「白石さんでも?」


「もちろん。だから、確かめる必要があったんです」


 彼女は再び画面へ視線を戻した。


「そして、これからも確かめ続けなければなりません」


 送電開始からしばらくして、政府は初の系統連系と送電の成功を正式に発表した。


 発表されたのは、既存の火力発電所の敷地に設置された小型核融合炉が、所定の安全確認を経て送電網へ接続され、最大十メガワットの出力で安定した送電を確認したという事実だった。


 政府は同時に、今回の成果が直ちに大規模な商用運転を意味するものではないことも説明した。


 長期連続運転の実績はこれから積み重ねる必要があり、設備の保守や複数基の運用、既存電源との役割分担についても、今後の検証が求められる。


 それでも、発表を受けた社会の反応は大きかった。


 昼のニュース番組では、発電所の映像とともに、実際の送電が始まったことが伝えられた。


 画面には、巨大な既存設備の隣に置かれた小さな核融合炉が映し出される。


 その大きさの違いは、専門的な知識を持たない人にも、一目で分かるものだった。


 ある家庭では、食卓に座っていた父親がテレビを指さした。


「これが、あの核融合炉なのか」


 向かいに座る小学生の息子が、箸を止める。


「え、こんなに小さいの? 発電所って、もっと大きいんじゃないの?」


「普通はな。けど、あれ一つで電気を作れるらしい」


「じゃあ、うちの電気もこれになる?」


「まだ分からないよ。今日は初めて送ったって話だからな」


 父親はそう答えながら、画面を見つめた。


 電気は、普段の生活ではあまり意識しないものだった。


 照明をつけるときも、冷蔵庫を開けるときも、スマートフォンを充電するときも、そこに電気があることを当たり前のように受け入れている。


 けれど、その当たり前を支える仕組みが、今日、ほんの少し変わり始めたのかもしれない。


 同じ頃、地方の小さな町工場でも、昼休みに集まった従業員たちがニュースを見ていた。


「十メガワットって言われても、うちの工場がどれくらい動くのか分からんな」


「少なくとも、一基で日本全部を賄えるわけじゃないらしいですよ」


「そりゃそうだろ。そんな簡単にいったら、今ごろ発電所なんか全部いらなくなってる」


 年配の従業員が笑うと、若い作業員が真面目な顔で続けた。


「でも、これが増えたら電気代って下がるんですかね」


「どうだろうな。設備を作る金も、管理する人も必要だろうし」


「下がってくれたら助かるんですけどねえ」


 工場では、電気料金の上昇が経営を圧迫することも珍しくない。新しい技術が登場したからといって、翌月から請求額が変わるわけではないと、彼らも分かっていた。


 それでも、将来への期待を口にすることくらいは許されるだろう。


 従業員の一人がテレビを見ながら、ぽつりと言った。


「これが普通に使えるようになったら、俺たちの子どもが大人になる頃には、今と違う世の中になってるのかな」


 誰もすぐには答えなかった。


 ただ、その場にいた何人かが、もう一度画面へ目を向けた。


 発電所では、送電開始から数時間が経過していた。


 予定された出力変化の試験も順調に進み、運転担当者たちは引き続き監視を続けている。


 森田は昼食を後回しにして、記録の確認を行っていた。


「森田さん、少し休んでください」


 副責任者が声をかける。


「交代要員もいます。ここまでずっと立ちっぱなしでしょう」


「そうですね。では、十五分だけお願いします」


 森田が席を離れようとすると、若手技術者が駆け寄ってきた。


「森田さん」


「どうしました?」


「その……ありがとうございました」


 突然の言葉に、森田は足を止めた。


「何の話です?」


「今回の仕事に参加させてもらえて、よかったです。最初は、正直、怖かったんですけど」


 若手技術者は照れくさそうに笑った。


「こんな装置、本当に安全に扱えるのかって。でも、準備を進めているうちに、分かった気がします。知らないものだからこそ、分かるところを一つずつ確かめるしかないんですね」


 森田はしばらく彼を見つめ、それから静かにうなずいた。


「そうですね。今日うまくいったからといって、明日から確認を省いていいわけではありません」


「はい」


「ですが、今日の結果は誇っていいと思いますよ」


 若手技術者の顔が明るくなった。


 森田はその表情を見て、ようやく自分も少し笑った。


 窓の外では、午後の日差しが発電所の構内を照らしている。


 小さな核融合炉は、相変わらず静かにそこにあった。


 装置そのものが派手な光を放つわけでも、巨大な音を響かせるわけでもない。周囲に設置された計測器や配電設備がなければ、そこから十メガワットもの電力が送り出されていることを、外見だけで判断するのは難しいだろう。


 それでも、確かに電気は流れている。


 既存の送電網へ入り、他の発電設備から送られてくる電力とともに、人々の暮らしを支えるために使われている。


 夕方になり、予定された運転確認が終了した。


 装置は手順に従って出力を下げ、系統から切り離されたのち、安全に停止された。


 最後の記録が保存され、監視室に終了の報告が入る。


「本日の系統連系試験、すべての予定項目を完了しました。重大な異常は確認されていません」


 森田は報告を聞き、確認表の最後の欄に署名した。


「皆さん、お疲れさまでした」


 その瞬間、今度こそ監視室に大きな拍手が起こった。


 椅子に座ったまま顔を覆う者もいれば、隣の同僚と握手を交わす者もいる。


 長い準備期間の中で、何度も確認をやり直し、予定を調整し、慎重すぎるのではないかと言われるほどの手順を積み重ねてきた。


 そのすべてが、今日の結果につながっていた。


 森田は拍手の中で、監視室の窓の向こうを見た。


 夕暮れの空の下、既存の発電設備と小さな核融合炉が並んでいる。


 新しい技術が古い技術を一瞬で消し去るわけではない。


 これまで積み重ねてきた経験があるからこそ、新しいものを安全に受け入れることができる。


 森田には、その光景が何よりも象徴的に思えた。


 同じ日の夜。


 紬の自宅では、夕食を終えた三人がリビングでくつろいでいた。


 テレビには、今日の送電成功を伝えるニュースが流れている。


 映像の中では、発電所の技術者たちが笑顔で握手を交わしていた。


「よかったね」


 紬が小さくつぶやいた。


「おう。無事に終わったみてえだな」


 ボスはクッションにもたれ、満足そうに胸を張った。


「俺の命名した炉が、ついに日本の電気を支え始めたわけだ」


「まだ一基だけだよ」


「分かってるわ。これから増えりゃいいんだろ」


 紬は笑いながら、テレビに映る発電所を見つめた。


 自分が作ったものが、たくさんの人の手を経て、少しずつ社会の中に組み込まれていく。


 その過程は、彼女が想像していたよりもずっと複雑だった。


 けれど、だからこそ意味があるのかもしれない。


 もし自分一人で何もかも完成させてしまえば、そこに関わる人たちの努力や、積み重ねてきた知識が入り込む余地はなくなってしまう。


 今日、送電を成功させたのは、紬だけではない。


 現場で働いた技術者たちであり、安全を確かめた研究者たちであり、運用を支える多くの人々だった。


「マスター」


 アイリスが静かに声をかけた。


「本日の運転記録は、関係機関による評価へ進む予定です。今後は継続運転や設備の保守体制について、さらに検証が行われます」


「うん。まだ、やることがいっぱいあるんだね」


「はい。ただし、今回の系統連系成功は、実用化に向けた重要な成果です」


 紬は少し考えてから、アイリスに尋ねた。


「ねえ。今日の電気って、どこに届いたのかな」


「送電網に接続されたため、特定の家庭や施設だけに届いたと区別することはできません。既存の電力とともに、系統全体の需要を支えています」


「そっか」


 紬は少しだけ残念そうに笑った。


 自分の作った電気が、どこかの家の照明をつけたり、病院の機械を動かしたりしていたらうれしいと思ったのだ。


 けれど、その行き先が分からなくても、誰かの役に立っていることに変わりはない。


「ま、いいじゃねえか」


 ボスが言った。


「電気なんざ、誰が作ったか分かんなくても使えるもんだろ。必要なとこに届いてりゃ、それで十分だ」


「……うん」


「それに、お前が作ったって知られたら、今ごろ家の前が大騒ぎだぞ」


 紬は想像して、思わず肩をすくめた。


「それは、嫌かも……」


「だろ? だったら、今くらいがちょうどいいんだよ」


 ボスはそう言って、得意げにくちばしを上げた。


 テレビでは、発電所の映像が終わり、別のニュースへ切り替わろうとしていた。


 画面の下には、国内の指定医療機関で続く新しいがん治療についての短い見出しも流れている。


 紬が生み出した二つの技術は、まったく違う形で社会に広がり始めていた。


 一つは、人々の暮らしを支える電気。


 もう一つは、病気に苦しむ人たちへ届けられる治療。


 どちらも、まだ始まったばかりだった。


「なあ、紬」


「なに?」


「今日は祝いだろ。なんかうまいもん食おうぜ」


「もう夕ご飯、食べたよ?」


「祝いは別腹なんだよ」


「ボスのお腹、そんなに入るの?」


「入るに決まってんだろ。俺を誰だと思ってやがる」


 紬は笑いをこらえながら、ボスの丸いお腹へ目を向けた。


「……じゃあ、プリン半分こする?」


「一個ずつだろ、そこは!」


 抗議するボスの声に、アイリスが真面目な表情で口を挟んだ。


「マスター。冷蔵庫にはプリンが二個あります。三名で公平に分配する場合、一名当たり三分の二個となります」


「おい、アイリス。お前まで食う計算に入ってんじゃねえよ!」


「私は摂食を必要としませんが、配分の公平性について提案しただけです」


「余計なお世話だ!」


 紬はとうとう声を出して笑った。


 テレビの向こうでは、今日も世界が少しずつ変わっている。


 けれど、この部屋には、いつもの騒がしさがあった。


 新しい光が日本に灯ったその日、紬にとって一番うれしかったのは、遠くの発電所から届いた成功の知らせと、その知らせを一緒に喜んでくれる二人が、変わらずそばにいることだった。

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