動物なのか、球なのか。
私は、ごく普通のサラリーマンだ。名は犬山武史。中肉中背、細い銀のフレームの眼鏡をかけ、毎日スーツを着て出社している。
私が他の人と違うところは、頭部が犬であることだ。正確に言うと、ビーグル犬。
だが私は、犬ではない。かといって人間でもない。そう、強いて言うなら「人外」。去年の年末に人間ドックを受けた時、問診をした医師にそう言われた。
学生時代は「犬頭」などといじめられたりもしたが、今は「人外」として誇りを持って生きている。
そして、佐伯里帆さんという(犬で言うとかわいいポメラニアンによく似た)恋人もできて、現在絶好調。今までにない「ワン」ダフルライフを満喫中だ。
* * *
「それ」と出会ったのは、珍しく遅くまで残業したある日のこと。
(あー……、疲れたなぁ)
その日は会社を出て、タイミングよくやってきたバスにすんなり乗ることができた。健康のために停留所二つ分ほど歩くのを日課にしているのだが、こんな風に疲れた日は例外。
運転手さんは見慣れた男性なので良かったが、いつもと時間帯が違うので、乗客の皆さんの顔ぶれが少し違う。明らかにギョッとして私を凝視した後、慌てて逸らされるいくつもの視線。何だかすみません。
バスは空いていて、すぐに一人掛けの座席に座ることができた。座った途端、疲れもあって急激に眠気に襲われた。このところそこまで忙しくなかったので、こういう感覚も久しぶりだ。
熟睡しないように気をつけていたが、いつの間にか意識を失い、降車ボタンの音にハッと我に返った。次は、自宅アパートの最寄りの停留所だ。
(まずい、降りないと)
ゆっくりとバスが停車し、立ち上がって降車口へ向かう。その時、自分が座っていたすぐ前の席に、何かが転がっているのが目に入った。
(……?)
最初は、子どもがボールか何かを忘れていったのかと思った。それくらいの大きさの球体。ちょっと茶色がかった灰色で、子どものボールにしては地味な色をしている。忘れ物なら運転手さんに渡した方がいいか、と寝起きのはっきりしない頭でその球体の物を手に取った。バスケットボールのような触感で……あたたかい。
(え、あたたかい?)
慌てて、手に持った物を凝視した。そのあたたかな丸い球体は、何やらもぞもぞと動いた、ような気がした。
「お客さぁん、降りなくていいんですかー?」
「あっ……すみません、降ります!」
運転手さんに声を掛けられ、我に返った。そして手にその球体を持ったまま、バスを降りてしまった。
降車して、停留所から遠ざかるバスの後部を見送りつつ、私は急に焦りと後悔の気持ちが湧きあがってくるのを感じていた。なぜこれを持ったまま降りてしまったんだろう。バスの中にこれがいた理由は全く分からないけれど、意識がはっきりした今となっては、これがボールじゃないことくらい分かる。
これは――――アルマジロだ。
* * *
手の中のアルマジロは、丸まったままよく眠っていた。私は急いで帰宅し、ソファの上に慎重に彼(?)を載せると、スマホでアルマジロについて検索した。
調べたところによると、アルマジロはペットとして飼うことが可能らしい。ということは、この子はどこかの家から逃げ出してきたのか。種類は、おそらくミツオビアルマジロ。こういう形でちゃんと丸くなる種類は、ミツオビとマタコミツオビだけらしい。
(どうすればいいんだろう。ペットなら探している人がいるだろうし、警察に届けるのがいいのかな)
明日出社前に交番に行けばいいのか。それはそれとして、アルマジロはいったい何を食べるんだろう。スマホの画像だけでは、成獣か子どもなのかすらよく分からない。とりあえず、餌はともかく水だけでもあげた方がいいんじゃないか。生き物にとって水は何よりも大切なはずだ。
気配を感じてふと目を上げると、アルマジロがソファの上でゆっくりと丸めた身体を伸ばそうとしていた。どうしよう、起きてしまった。目と目を合わせて、お互い固まる。寝起きのアルマジロは、私の姿に「?」と首を傾げたように見えた。すみません、こんな見た目で。
「ごめんね、知らないところでびっくりしてるよね。おなかすいた?」
返事がないことを分かりつつ、思わず声をかけた。アルマジロはそれに答えるようにソファの上でぴょこんと立ち上がり、歩き出そうと短い足を伸ばした。
「わ、待って待って、落ちちゃうよ」
慌てて抱き上げ、そっと床におろす。するとおろしたとたん、短く細い足を勢いよく動かして、アルマジロは玄関の方へ向かって走り出した。ちょこまかした動きがまるでおもちゃみたいだ。これは帰巣本能というヤツだろうか。いや、得体のしれない私から逃げているだけかもしれない。
「うわ、危ない」
玄関におりたアルマジロは、置いてあった金属製の傘立てに激突している。硬い甲羅に覆われているので、これくらいではびくともしないのだろう。でもここはアパートで、しかも二階だ。あまりバタバタしていると周囲の迷惑になる。
捕獲しようと手を伸ばすと、アルマジロは威嚇するように口を大きく開いた。
「にゃー!」
え?にゃー??
その姿に似つかわしくない鳴き声に戸惑い、思わず手を引っ込めた。するとそれに勢いづいたかのように、アルマジロは何度も鳴き声を上げた。
「にゃー!にゃにゃ、にゃあー!」
いや、そんな訳はない。さっき大急ぎで調べた情報だから断言はできないけれど、アルマジロの鳴き声は「にゃー」ではなかったはず。もしかして、よく似た違う個体なのか。
それはともかく、私を警戒して狂ったようににゃーにゃ―鳴く動物を前に、捕獲もできず、お互いただただにらみ合う形になった。その時、居間の方からピロピロという電子音が聞こえた。これは、スマホの通話の着信音だ。
私は玄関の方へ注意を向けつつ、居間に戻りスマホを手に取った。
『こんばんは、武史さん。今って、大丈夫?』
発信先は、恋人の里帆さんだった。里帆さんからの電話ならいつでもOK、と言いたいところだが、ちょっと今は落ち着いて電話ができる状態じゃない。
「ごめん、里帆さん、ちょっと立て込んでて。後でかけ直すから」
『いいけど……何かあったんですか』
そんな話をしていると、ガシャーンという派手な音が玄関の方から聞こえてきた。慌ててスマホを片手にそちらへ飛んでいくと、傘立てが倒れていた。大きな音に驚いたのか、アルマジロはパニックのようにその場をぐるぐる走り回っている。君がやったことだろう、うろたえるんじゃない。
「すみません、えーと、実はアルマジロを拾ってしまって」
『はい?』
「いや、アルマジロじゃないかも。捕まえようとしたら、『にゃー』って鳴いて」
『何言ってるんですか武史さん?』
だめだ自分でも何を言ってあるのかよく分からない。思いついて、スマホの通話をビデオ通話に切り替え、カメラにアルマジロを映す。カメラを向けられたアルマジロは、再び威嚇するように「にゃー!」と鳴いた。
『えっ、何ですか、これ』
「いやだからアルマジロ」
『待ってください、今から私そっちに行きます』
「え、私の部屋に?今から?」
『急いで行くから、ぜったいにその子、逃がさないで!』
里帆さんは叫ぶようにそう言って、一方的に電話を切ってしまった。私はスマホを持ったまま少し呆然としていたが、すぐに我に返り、慌てて居間へ戻った。
里帆さんは実家住まいで、私のアパートとは割と近い。電車で一駅、そして一応私のアパートの場所も把握している。だが、今まで一度も訪れたことはなかった。それなのにこんなことで、こんなにも突然に、私の部屋に来るというのか。
(いや、落ち着け。里帆さんはアルマジロを見に来るだけだ、変に舞い上がるな)
自慢ではないが、私はそこそこきれい好きだ。突然来客があっても、部屋に通せないというほどではない。だが、せっかく彼女が来るのだから、床掃除くらいした方がいいかもしれない。
アルマジロのことは放っておいて、私は軽くフローリングにモップをかけ、家具のほこりをふき取った。まだ来ないだろう、と思っているうちに、突然「ピンポーン」とインターホンが鳴った。
『こんばんは武史さん。開けてください』
里帆さんの声だ。いや、早い早い。慌てて玄関に向かったが、そこにいると思っていたアルマジロは、いつの間にか姿を消していた。え、どこに消えた?
『武史さーん、聞こえてますかー?』
「あっごめん!今開けるから」
辺りをきょろきょろと見回しながら、里帆さんを迎え入れるためにドアを開けた。今日の里帆さんは、黒い細身のズボンに百一匹わんちゃんの長そでTシャツを合わせ、黒いキャップを被っていた。カジュアルでかわいい、そして相変わらず犬がメインのコーディネート。
「こんばんは、急にごめんなさい。それで、アルマジロは?」
「それが――――」
私が言いかけた瞬間、不意に足元を黒い影が通り抜けた。想像するに、下駄箱の下辺りに身を潜めていたのだろう。丸い小さな影は二人の足元をすり抜け、ドアの外へ出て行った。あっという間の出来事だった。
「あっ、逃げた」「えっ!!」
視線の先には、アルマジロの後姿。アパートの階段に向かって足をちょこまか動かし、必死で逃げていく。これはまずい。そもそもあの小さな体で、短い足で、階段を降りられるのだろうか。
急いで里帆さんと二人、その後を追った。そして、捕まえようと手を伸ばしたちょうどその時、階段の一番上段から足を伸ばしたアルマジロは「こけっ」と音を立てたかのように見事にこけた。
「あ――――」
私たちの見ている前で、コケて宙を舞ったアルマジロは、空中で見事にくるっと丸くなった。丸まったまま、少し空気の抜けたボールのように鈍く弾みながら、アルマジロは階段下へと消えてゆく。私たちは可能な限り早足で階段を駆け降りた。
階段の一番下へたどり着いたアルマジロは、反動でころころと夜の道を転がり続ける。
ころころころころころころころころ
そしてスピードが鈍くなったところで、またしゅたっと短い足を出して走り始めた。すぐにでも追いつきそうなのに、なかなか追いつけない。
「待てー、待ってくれ」
思わずアルマジロの後姿に情けなく呼びかけた時、ふと、人影に気が付いた。その人は歩道の電柱に半ば身を隠すようにして、ひっそりと佇んでいた。
「あ、すみません!そのアルマジロ……」
捕まえてもらえますか。そう言いかけた私は、そのまま口をつぐんだ。アルマジロは当然のように、ちょこちょこと小走りでその人の所へと駆け寄っていく。心なしか、その姿が嬉しそうに見える。
「どこへ行ったのかと思えば、こんなところにいたの。探したのよ、まったく。心配かけさせて」
その人は電柱の影から出てきて、アルマジロの方へとかがみこんだ。シルエットと声の感じから、それなりの年齢を重ねた女性と思われる。彼女は手を伸ばし、アルマジロを優しく抱き上げた。その人の腕の中で、甘えたように「にゃー」と鳴く丸い生き物。
「あ、えーとこの子の……」
ようやく近くまで来た私は、そこまで言って、またしても言葉を詰まらせた。この子の、飼い主さんですか。そう言おうと思ったのだが、しかし。
「ごめんなさい。ちょっと目を離したすきに、姿が見えなくなってしまって。まさかこんな遠くへきていたなんて」
「……バスに乗っていたのを、偶然保護したんです」
「そうなんですね、ありがとうございます。ご迷惑おかけしませんでしたか、この子?」
「いえ……」
その人と会話をしながら、私はちらりと横目で里帆さんの様子を窺った。里帆さんは愕然としたような顔で言葉を失い、穴のあくほどその人を見ていた。気持ちは分かるけれど、あんまりそんな眼差しで他人を見ない方がいい。
街灯はぼんやりと、彼女の黒っぽいロングスカートを照らし出していた。光の当たり方のせいで、顔は……頭部は、あまりよく見えない。はっきりとは見えないけれど。
「ではこれで失礼いたします。本当にありがとうございました」
彼女はそう言って深々と頭を下げると、アルマジロを抱いてゆっくりとその場から立ち去って行った。私たちはしばらく、夜道の真ん中に突っ立ったまま、言葉もなくぼんやりとその人を見送っていた。
ややしばらく経って、彼女の姿が見えなくなってから、私は思い切って里帆さんに話しかけた。
「ね、今の人って」
「言わないで」
里帆さんは強い口調で私の話を遮った。そう言われても、確認せずにはいられない。
「今の人、頭がアルマジ……」
「言わないでって、言ってるでしょ!私は何も、見なかった!」
里帆さんは怒ったようにそう言うと、
「帰る!」
と宣言してずんずん駅の方向へ歩き始めた。
私は肩を竦め、彼女を送るために隣に並んだ。黙ったまま二人で歩きながら、私はさっきの女性を思い出していた。
私は犬頭。これまでの人生で他にこういう頭部を持っている人を見たことはなかったが、もしかして広い世界には、様々な頭部を持つ人がいるのかもしれない。混乱している里帆さんには申し訳ないけれど、私はちょっと嬉しかった。
この先、もしかしたら猫頭や鹿頭の人と会うことがあるかもしれない。そう思うだけで、言葉にはできないような希望が胸に湧き上がってくるのを感じる。
「はぁー……」
ふと、隣りを歩く里帆さんが深いため息をつき、思わず彼女の横顔を覗き込んだ。さっきの出来事が、そんなにショックだっただろうか。
だが、ため息の後に続いた彼女の呟きは。
「アルマジロ、私も抱っこしたかったなぁ……」
素朴な願望に、少し笑ってしまった。先ほど抱き上げた、丸い球体のあたたかな重みを思い出す。「にゃー」と鳴く不思議な丸い生き物は、私と里帆さんの記憶にいつまでも残ることだろう。
* * *
里帆さんを送り、アパートに戻った私は、少しだけ調べ物をした。そして目的の場所を見つけると、そこのホームページのリンクを添付し、里帆さんにメッセージを送信した。
『ここ、アルマジロの抱っこ体験ができるらしいよ。今度、一緒に行こう』
県内の動物園。行ったことはないけれど、そしてそんなに人がたくさんいる場所に行ったら、私は見世物にされてしまうかもしれないけど。
里帆さんが望むなら、行ってみたい。アルマジロを抱っこして、嬉しそうに笑う彼女が見たい。
しばらく待つと、ポコンと音を立てて彼女から返信が届いた。
『うれしい!』
という一言に、はしゃいだようなスヌーピーのスタンプが添えられている。
さて、さっそく予定を立てねば。次の週末の天気はどうだろうか、それにお昼の場所も探さないと。せっかくだから早めに待ち合わせて、一日ゆっくり過ごしたい。
ふと、近くの壁にかけられている鏡に目が留まった。そこに映る私はなぜか、妙に生き生きと嬉しそうで、先ほど彼女から送られてきたスヌーピーと同じような顔をしていた。
END




