校正者のざれごと――『山椒魚』と改変の功罪
私は、フリーランスの校正者をしている。
教材の仕事で、井伏鱒二の『山椒魚』を読んだ。「山椒魚は悲しんだ。」で始まる、有名な小説だ。学生時代、太宰治の小説を常に鞄に忍ばせていた私だが、じつは『山椒魚』をちゃんと読んだのはこれが初めてだった。
岩屋の中に暮らしていた山椒魚は、知らぬ間に自分の体が大きくなり、岩屋から出られなくなっていることに気づく。どんなに力を入れて入口へ突っ込んでいっても、つかえてしまって外に出られない。嘆き悲しむうちに、よくない感情を持つようになる。岩屋へ飛び込んできた蛙を、外に出られないようにした。自分と同じように。二人は言い争いをしながら歳月は流れ、衰弱した蛙は自分の死期を悟る。山椒魚に「いま、何を思っているか」と聞かれ、蛙は遠慮がちにこう答える。
「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ。」
最後の一文を読んで、仕事中でありながらふと手を止めて考え込んでしまった。『山椒魚』についてはさまざまな考察がされており、ここでその内容について深くは触れない。ただ驚いたのは、この最後の一文を含む後半の一部分が、初めて掲載されてから半世紀以上も経ってから、著者本人によって削除されたことだ。
削除された部分は、言い争いをしていた蛙と山椒魚の関係が少し変化していくという部分。お互いを罵りあっていた両者が、あるときから押し黙り、同じ境遇である相手と少し距離を縮めていく。ここをすべて削ってしまうと、この小説の印象はだいぶ違ってくる。これについてもさまざまな考察がされているが、著者の意図する本当のところはわかっていないらしい。
このように、著者が自らの小説を改変することもある。自分の書いた文章を変える権利はもちろん著者にある。『山椒魚』のようにたくさんの人に読まれている小説であっても、それは変わらない。
ただし、著者ではない人間が勝手に改変することは許されない。著者がそれを望んでいないのであればなおさらだ。
2024年1月、ある人気漫画家の急死が報じられた。前年に彼女の漫画を原作としたドラマが放映され、その内容について「ドラマ化するなら『必ず漫画に忠実に』」と主張していたが、意に反した改変がされていたという。テレビ局側は著者の許諾を取っていたと主張していて、真相はわからない。著作権には「著作者人格権」というものがあり、そこには「同一性保持権」が含まれている。少なくとも、書いた本人の意に染まない改変はあってはならないことだと思う。
歌の世界でも改変によるトラブルがあった。森進一さんの歌う『おふくろさん』という歌にまつわる騒動だ。
2006年のNHK紅白歌合戦で、森さんはこの曲を歌うときに、作詞家の方が書いていない内容をつけたして歌唱した。それを見た作詞家は激怒し、著作権の侵害だと主張した。森さんは所属プロダクションや作曲家には許諾を得ていたが、作詞家には伝えられていなかったらしい。その後、森さんはこの歌を歌うことを封印した。和解したのは、作詞家が亡くなったあとだった。
校正者は自分が何かを生み出しているわけではない。なので、著者の表現を尊重することは言うまでもない。学習参考書の校正では、教科書の文章と合っているか一字一句照合する。字下げや、トジヒラキ(漢字をひらがなにするかどうか)などが正しいか。かぎかっこの後の文章は、行頭が一字下げられていることが多いが、天ツキ(一字下げずにいちばん上から書く)の場合もある。これらが教科書どおりになっているか確認する。
校正者の仕事はあくまで、著者が表現したいと思う世界を著者の思い通りに表現するお手伝いだ。しかし、ただ受け身ではいけないと主張する校正者がいる。
大西寿男さん。NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で取り上げられた、ベテランの校正者だ。作家や編集者から絶大な信頼を得ている彼は、小説の内容にも踏み込んでいく。もちろん、安易な改変ではなく、その著者の文章を極限まで読み込んでのことだ。
芥川賞作家である宇佐美りんさんは、自分の書いた文章の一節について、大西さんから「この文章は不要なのでは?」との指摘を受け、その一文を削った。それによって、文章はより良いものになったという。校正者がそこまで踏み込むのは異例ともいえるが、それだけの信頼を得ているからこそなしえることなのだと思う。校正者としてどこまで踏み込むべきなのか、「まあ、いいか」と流してしまっていいのか。大西さんの仕事への姿勢を見て、この仕事の奥深さを痛感した。
変えてはいけないこと、変えたほうがいいこと。今もゲラ(校正紙)と向き合いながら、頭を悩ませている。きっと、完璧な答えなんてないんだろうな。それでも、今日もことばの海に潜り込む(カッコイイ表現だ。NHKの受け売り)。たまに、息継ぎをしながら。