皇帝
———北の大国シルヴァリオン帝都。
そこには暗い雰囲気が広がっていた。
人はいるが活気がない。
今やその地には、音が……無かった。
「ここが、北の帝都か。フィストリア、ここは…昔からこんな状態だったのか?」
ルーカスは帝都の惨状を目にするが信じられない様子だ。
人々に生気が感じられない。
誰も会話をしていない。
最小限の動きしかしていない。
もはや生きていると言うよりも、生かされていると言うのが正しそうなくらいだった。
フィストリアは過去のことを思い出す。
「昔は、ここまででは無かったはずです。それこそ30年ほど前はもっと活気があったはずです。グラディアと同じように…」
「前皇帝の時はもっと良かったはずなのに…どうして…」と彼女は呟く。
「これほどまでに活気がないのは確かシルヴァリオン建国から100年くらいですよ。」
———シルヴァリオンの建国から100年は暗闇の時代だった。
かつてのアンバラシア皇族から外れた者たちの血筋。
裏切りという言葉を極端に嫌い、人を信じられなくなってしまった一族。
その特徴が建国から100年近くは顕著だったのだ。
「これほどまでの完全統制を敷いていたのはそれくらい昔のことです。ですが、私もそれほど昔のことはどうにも記憶があやふやで…」
ルーカスとフィストリアは帝都を歩き進む。
おそらく民たちにも支配が及んでいるのだろう。
目に光はなく、死んでいるかのようだ。
「シルヴァリオンの国宝はこれほどまでに強力なのか……」
以前フィストリアが話してくれたことだ。
北の大国シルヴァリオンの国宝、パンドラの冠。
それは当時の第二皇子が皇帝に秘密で果実に願ったものだったと言う。
人間不信だった彼は自身に忠実な絶対的に裏切らない存在を欲した。
冠はその願いを叶えた。
しかし、それは大陸に墨を落とした過ちでもあった。
冠による支配。
それは冠の戴冠者が死んでも解除されない真に絶対的な統率であった。
血によって受け継がれる冠。
この国の人々はもはや裏切ることは出来ない。
この国を離れることは出来ない。
それを知った当時の皇帝は恐れた。
支配された者に意識なんてほとんど残らない。
不都合な現実を覆い隠し、夢の中に揺蕩う幸福な夢を見続けさせられるのだ。
その支配はもはや平和な時代には必要のないものであった。
皇帝は冠を禁忌として宝物庫の最も深部に厳重に保管したのだ。
しかし、アンバラシア帝国が崩壊に向かう最中、それは、大陸が再び動乱の世に向かう時、第二皇子と同じように皇族の血を引く者が、冠を手に取り、北に逃げ、シルヴァリオンを建国したのだ。
「安心してください。私が果実による生成物を解析し続けたのはその冠に対抗するため…私を信じてください。」
フィストリアの言葉にルーカスは安心を覚える。
彼女が構築した結界であれば冠による支配をも弾くことができると信じるしかなかったからだ。
「それにしても、こんなもの国を治めると言えるものか……」
ルーカスは手を握りしめる。
フィストリアはその様子を見つめる。
同じ帝国の血を引いている彼女としても何か思うところがあるのだろう。
やがて2人は帝城の前にたどり着く。
城門は開いたままであった。
「俺たちを招いているのか、なにか他の思惑があるのか…」
◇ ◇ ◇
玉座の間は帝城最上階……最高階で最深部にあるそこはひどく冷たい空気で満ちていた———
高い天井、彫り込まれた石柱、そしてその中心に玉座。
扉を前に厚絨毯を踏むたび、ルーカスの心は鼓動を速めた。
側にはフィストリア。
彼女は入城時に既に、周辺の支配魔術に対抗するため盤外の書と浮遊石や聖杯、半冠の解析から導いた魔術言語を紡ぎ、抵抗の結界を張っていた。
彼女は確信を持っていた。
あの冠の支配にも耐え得る術を編み上げたと。
扉をゆっくり押し開ける。冷たい音が室内を割る。
ルーカスの視点が部屋の一番奥で留まる。
玉座には一人の男が、肘をつき座していた。
灰色がかった長衣と、深い藍の瞳。
その髪はフィストリアと同じ白い毛髪。旧帝国の血を濃く引いているのだろう。
彼はふと顔を上げ、二人を睥睨する。
唇が緩んで笑みを作る。
短く、よどみない声。
「…来たか。不死なる者よ……」
その呼びかけにフィストリアの肩が僅かに竦む。
ルーカスもまた、知らぬ相手が彼女の秘密を知っていることに警戒を強める。
「グラディア国王ルーカス……我は、シルヴァリオン皇帝アドラスだ。其方に提案が…ある。隣の女を寄越せば、戦争を止めようではないか。」
ルーカスは即座に前に出て、フィストリアの腰に手を回す。
引き寄せる。顔には怒りが滲む。
「アドラス皇帝。一体、何を言ってるんだ。フィストリアは俺の妻だ。ふざけたことを言うな。」
アドラスは先ほどの笑みを深め、嘲笑した。
「ハハハ…妻だと?人ならざる者と、人がか?笑わせる。貴様のような小童にはその女の価値が分かっていないようだな…」
ルーカスと同じくらいの年齢に見えるアドラスはそれでも、その言葉には重みがあった。
その嘲りの刃が不意に鋭くなる。
アドラスは静かに右手を上げる。
玉座間の空気がひゅっと変わるのをルーカスは感じた。
フィストリアの顔色がほんの一瞬、変わる。
「あっ、これは———」フィストリアが真剣に警告する。彼女の声が割れる。
「魔術です!冠に気を付けてください!」
その言葉と同時に、玉座の間は眩い光に満たされた。
光が波紋のように広がる。
フィストリアが目を閉じ、体が沈む。ルーカスは何かを掴むように叫んだ。
「フィストリア、無事か!」
だが彼女は反応しない。
外傷はない。
しかし、意識の奥が、静かに奪われていく。
冷たい、不可視の糸に操られるように、フィストリアの姿勢はゆっくりと崩れ、視線が空虚に変わっていった。
「まさか……支配…魔術か…?」
ルーカスの胸を、言葉にしがたい冷たい絶望が叩く。
彼女が自分の元を離れていってしまうかのような現実が重くのしかかる。
彼女が、彼女自身が———目の前で誰かの命令に屈する。
ルーカスはそんな光景を想像し、言葉を失った。
アドラスは驚いたように目を見開き、しかしすぐに興奮を隠そうともせず言葉を放つ。
「何?国王には掛からなかったのか?まさか、女が結界か何かでこれを防いだのか?まぁ、一度掛かった身である以上、二度はないだろうよ。」
その言葉の違和感をルーカスは捉える。
冷えてしまった心の中を晒しながらアドラスに疑問を投げかける。
「何を…言っているんだ…?フィストリアは少なくとも三十年の間、シルヴァリオンは訪れていない。冠を前にすることも無かった…はずだ……」
ルーカスの疑問にアドラスは笑みを深め、その秘密を開示する。
「クハハ、やはり其方は何も知らない!——我が国には、冠の使用記録が建国当時から残っている。しかし!その冠の支配に掛からなかったと残されているものが、ただ一人だけ!存在していたのだ……」
「その者は今から130年前のこの場にも居た…その者が、今我の目の前に居る女なのだ!」
ルーカスは途切れ途切れの苦笑が溢れる。
「ハ、ハハ……な、何を言っているんだ。それでも、お前が…フィストリアこそがその者…だと判断できる材料は……存在しないじゃないか…?」
アドラスは己の欲しかった疑問がルーカスから飛んできたことを笑みを深め、答える。
「フハハ、何…簡単なことよ。その者に冠を使用した皇帝……それこそが、我なのだからな———」
◇ ◇ ◇
その皇帝は完全性を求めた。
己の完全性を危うくする存在は悉く抹消してきた。
だからこそ、その皇帝はフィストリアに執着する。
初めて抹消できなかったその存在を手に入れ、今度こそ完全なる者に至るために———
◇ ◇ ◇
ルーカスはアドラスの言葉を一度で理解した。
彼には理解できる理由がある。
———フィストリアは言った。
かつて自分に冠を使った皇帝が居たと。
———ルーカスは知っている。
魔術を用いれば別の時代に転生することが可能だと。
思えば、確かにそれらがもたらす答えはただ一つだ。
『今アドラスが言ったことは全てが事実だと———』
彼が前皇帝と違い、建国当初の支配をしているのも。
それを事実だと示していた。
ルーカスの心の底に沈む絶望感が更に深まる。
そんなルーカスを尻目にアドラスは声を上げ、命令する。
「———女よ。こちらに来い。」
その命令に反応して、フィストリアはゆっくりとアドラスの方へ歩を進める。
ルーカスの手が必死に掴むが、彼の腕は震えている。
「くっ、フィストリア、ダメだ。そっちに行くな!」
彼は叫んで彼女を引き戻そうとするが、体は言うことを聞かない。
やがてフィストリアはルーカスの手を振り払い、アドラスの前で振り返り、彼の前に立ちはだかる。
「フィストリア……まさか…」
アドラスが次にどんな命令を下すのか、ルーカスには理解できた。
その様子を満足そうに見たアドラスが勅命を下す。
「———やれ。」
その一語が、刃のようにルーカスを貫く。
命令に従い、フィストリアは魔術を放つ。
彼女の瞳の奥は空っぽで、そこに宿る深い青色も霞んでいるようにすら見えた。
放たれた魔術は冷たい奔流となり、玉座の間を引き裂く。
ルーカスは咄嗟に浮遊石を思い出し、その石を光らせる。
彼は空間を歪め、正面に迫る魔術の軌道を後ろに逸らした。
次に轟音。
背後の壁が崩れ、暗い空が見える。
しかし、そう遠くない所に支配された人々の姿もある。
ここから魔術の一端が抜け落ち、帝都の内部に被害が広がる危険がルーカスを苛む。
「くっ、ダメだ。フィストリアの魔術だと、帝都への被害が…」
ルーカスの胸に冷えた焦燥が湧く。
絶望に打ちひしがれながらも民の心配をできるのは彼が今世で手にした美徳でもあった。
支配された者が放つ力は、制御不能の暴風になる。
彼は瞬時に決断を下す。
目の前の戦いだけでなく、民の命を守るためには大掛かりな手が必要だ。
ルーカスは一抹の思案の後、空中に向かい、石に声を投げるように叫ぶ。
「浮遊石よ…天を絡め取りその力を発揮しろ!」
その叫びが発した後、玉座の間を覆うほど巨大な揺れが帝城を包む。
石や床板が唸り、重圧が耳を塞ぐ。
城は信じられない速さで、だが確実にその基盤から引き上げられていく。
城壁の影が地を離れ、厚い土煙が上がる。
城が浮かぶ———
———その光景は、かつてのアルカノスの城を思い出させる。
浮遊石の最大出力は確かに危険だ。
だが、地上に残る市街地に落ちる破片を避けるためには、城を浮かせて被害を最小限にする以外に手はなかった。
急激な圧力でフィストリアは膝をつき、アドラスもかがみこむ。
ルーカスは揺れに体をまかせつつ、その強靭な体躯で体制を整え、ゆっくりと抜刀する。
アルカディアの柄が掌に馴染み、その刀身には自分の顔が映り込む。
わずかな時間のことなのに、酷く疲れた表情をしているように見える。
しかし、城を浮かせた以上、逃げ場のない戦いが始まる。
先ほどまでの動揺も落ち着いてきた。
それでもルーカスの胸は硬く張りつめている。
フィストリアが目の前で操られていることへの絶望は、彼の中で猛火となった。
彼女を奪い返す。
支配を断つ。
全て…この手で。
王としての願いも、個人としての想いも、すべてをこの一戦に託す。
———もう迷ってなんていられないのだ。
彼はアルカディアを高く掲げ、ゆっくりと前へ踏み出した。
彼女に言葉を掛けながら。
「この大陸で比肩する者はお互いだけだと……考えたことがある。」
「それでもその考えは必要無いものだと切り捨てていた。」
「まさか、こんな形で君と対峙することになるとはな。」
「君にも聴こえているだろうか?」
「俺は君を愛している。だからこそ———」
「ここで、君を…止めなければならない!!」
暗い空の裂け目から冷たい風が流れ込み、二人の間の空気を切り裂く。
玉座の上でアドラスは薄く笑い、両手を広げるように構えた。
「来い、ルーカスよ。我の完全性を前に立ちはだかって見せよ!」
ルーカスは答えず、ただ前に進んだ。
避けられぬ戦いの始まりを告げる一振りが、浮遊する城を背景に、夜空へと鋭く弧を描いた。




