均衡
開戦時、西方の空は晴れ渡っていた———
東方戦線の開戦を見届け、門を設置してから戻ってきた俺たちを迎えるように、西日が盆地の縁を金色に縁取る。
数時間前に俺たちは東の平原での応酬を終え、再びこの急峻な崖に囲まれた広大な盆地へ帰還した。
東方戦線では、シルヴァリオン軍に押され気味であり、フラクタル後方から援護に回れるように門を設置してきた。
「東方戦線の感じから門は適宜確認しないといけませんね。」
「そうだな。向こうが押され気味だし、やがて門の所まで侵略されるかもしれない。」
両戦線は同時進行している。
だが、ルーカスたちは東方だけでなく、ここ西方でも仕事は山積みだ。
西方戦線の前線配置は単純だが硬い。
盆地を取り巻く崖が天然の防壁となり、入口は二つに絞られている。
その狭隘な土地を利用して誘導と封鎖を繰り返し、盤外の書を戦術の要として運用するのが今回の俺たちのやり方だ。
書は範囲内の思考や動きを”映す”。
偵察は書に記されるものの読み取りと実際の目視で行い、得た情報を元に行動を起こす。
敵の行動を先読みし、奇襲の芽を摘み、防御を固める。
偵察、行動、防御の繰り返しが、ここしばらくの生存の秘訣だった。
「ベリタス…君の読み通り東方戦線の方が苦戦しているようだ。」
二人は西方戦線総指揮であるベリタスの元を訪れる。
「そうか。ならば、東方戦線の作戦の是非によってこちらの動きも考えるように動くべきだろうな。」
「あぁ、俺たちは向こうをいつでも援護できるように部隊を準備しながら、こちらの戦況を維持しよう。」
剣の国であるグラディアと違い、フラクタルの女王は賢明さが女王の証だ。
彼女が考えた作戦はすでに把握している。
「私たちもシャーロット女王の作戦が失敗するとは考えにくいが、備えておくことは必要だろう。」
◇ ◇ ◇
盤外の書の運用は戦場の細部に宿る。
書に記される記録は、瞬時に範囲内の行動を視ることができるからだ。
操り兵に支配魔術で行われている命令すらも読み取ることができる。
それは声や叫びでなく、雑念や計算の温度である。
戦場において情報が真に価値を持つのは、それが有効である時だ。
情報を持って如何にして兵を動かすか。
ルーカスとベリタスは盤外の書を介した偵察報を受け取り、即座に部隊配置を書き換える。
動かす時は速く、守る時は深く。
ベリタスはさらに一手を打った。
アスクレピオスの聖杯を前線に持ち込み、治療の効率を飛躍的に上げたのだ。
聖杯の水は傷を癒し、止血の役割を果たし、失った四肢を生やし、蘇生の可能性を高める。
それを初めて見る現場の治癒班はそれを奇跡と呼ぶほどだ。
仲間は倒れても、すぐに起き上がる———
その事実が兵士の心に希望の灯を点していた。
ある隊の長は俺にこう言った。
「剣王よ、聖杯の水を浴びると、冥界から門前払いされた気がします。こっちに来るなと言われている気がするのです。」
士気は確かに上がっていた。
しかし、その代償も見えぬところで積み上がっていた。
聖杯の恩恵はほぼ無尽蔵だ。
しかし、聖杯の水が効力を持てるのは小さい範囲。
全ての治療が聖杯の水だけで全てを補えるはずはない。
治癒術師への疲労も積み重なり、物資列は延々と続き、食料・薬草の減りは、話題になっている。
ある夜、補給隊の指揮官が疲れ切った顔で言った。
「このままじゃ、再来週には兵糧の心配をせにゃならん。」と。
士気という熱は戻って来る仲間という安心から生まれるが、それを支えるのは食糧と薬品だ。
理想と現実が、静かに齟齬を生んでいた。
◇ ◇ ◇
一週間が過ぎた頃、更なる不穏が顔を出した。
敵の動きが格段に"良く"なったのだ。
それは敵軍の新たなる援軍が到着した頃と重なった。
盤外の書が示す敵の行動は、これまでの単純な攻撃行動だけでなく、巧妙な意図を帯びてきた。
偵察で観察できる情報は減り、命令系統の計算が円滑になっている。
慣例ならば、ここで奇襲の芽を摘み、斥候を叩くのだが、敵は偽の意図を撒き散らし、注意をそらす。
盤外の書を利用していることが読まれているかのように、連合軍を動かしにくいところに敵軍が展開するようになった。
これにはベリタスも不安を漏らしていた。
「チッ、厄介だな。敵の援軍で来たであろう将軍が途轍もないやり手だな。」
「俺たちが将軍を抑えに行ってもいいが。」
「いや、やめておけ。ルーカス、君たちには魔族が現れた時のために力を温存しておいてもらいたい。恐らくだが、まだ、来るぞ……」
情報優位は、ただ得るだけでなく、精査し続けることにある。
ベリタスの考え通り、数時間後に書が告げたのは更なる増援の接近だった。
小規模の群れではない。
規模も多様性もこれまでとは比較にならない大量の魔族の群れだった。
◇ ◇ ◇
夜明け、北の黒旗が稜線に見えたとき、俺は心臓が締め付けられるのを感じた。
増援としてやって来た魔族の群れはただ、連合軍を襲うだけでなく、連携があった。
魔族すらも敵の将軍が操っているのだろう。
彼らは操り兵を”薄く広く”配し、我々の盤外の書で戦況を読みづらくするばかりか、入口を塞ぐように配置していた。
ベリタスは冷静に指揮を執る。
彼は盤外の書と視覚情報を元に、簡潔な合図を用いて各隊への命令を発し、聖杯の治癒班を最前線へ流し続けた。
「ここで固めるのだ、無理に前へ出すな。」と命じる声には、王としての理性と、司令官としての計算が同居している。
楽観と不安。
彼の指揮下で、膠着よりも攻めに偏っていた我々は、攻めよりも膠着を維持する作戦へと切り替えた。
東方戦線でシャーロットが平定するまでの間、ここでは動かないことで動かす戦術を徹底する。
だが敵は執拗だった。
援軍は断続的に到着し、わずかな開口を見つければそこへ突入を試みる。
盤外の書で予知した位置に軍を配置しても、敵は少数の部隊を撒いて挟撃を狙ってくる。
数週間に渡り、その消耗戦は続いた。
聖杯は幾度となく兵を救い、兵士達の顔には戻った仲間への安堵が垣間見える。
しかしそれにより物資は削られ、補給線には時折遅延が生まれ始める。
前線の兵の瞳に、疲弊の色が増えていくのを俺は見逃さなかった。
戦いは数字と時間の積み重ねだ。
ある朝、連合軍は盤外の書が示した一つのざわめきに基づき、夜通しの待ち伏せを仕掛けた。
斥候が知らせを上げ、ベリタスの号令で三隊が静かに崖の影へと潜み、朝靄の中で敵の小隊を包囲した。
書による思考盗聴で捕虜からは、増援がさらに数列で来る旨の断片が出た。
書は常に全てを語る訳ではないが、断片を積み上げることで真像を描くことが可能だ。
繋がる線が見えた時、指揮官の判断は研ぎ澄まされていた。
◇ ◇ ◇
補給の話をしよう。
数日前、我々の補給列が夜襲を受けた。
短い衝突の中、聖杯の治癒班が懸命に動き、数十の負傷者をその場で修復した。
あの時の光景を多くの者は忘れないだろう。
負傷兵が担架から起き上がり、もう一度槍を握る。
喜びは昂ったが、補給の遅延は現実に戻す。
誰かが食い繋ぐ糧を確保するまで、兵は戦い続けられない。戦場で生きるということは、常に矛盾を抱えることなのだ。
◇ ◇ ◇
それから、補給線は更に強化された。
それはきたる作戦のためでもあった。
フィストリアとは幾度も盤外の書の前で語り合った。
彼女にも若干の疲れが見えていた。
「どんどん魔族が増えています。もう少しで万にも昇りそうな勢いです。」と彼女は静かに言った。
俺はアルカディアを握り直し、こう返した。
「魔族は後方支援に固まっているからな。軍全体で魔族と相対することが無いな。前線に現れた魔族は斬っているが、後方の奴も対処した方が良いだろうか。」
その短いやり取りの後、二人で夜明け前の斜面を見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
しかし、そんな苦戦が続いていた時、ついに東方戦線でシャーロットが成功したという旨の報告を受けた。
東の成功がある今、西方戦線も動かなければならない時が来たのだ。
戦線はすでに数週間の膠着を経ていた。
士気は聖杯の恩恵で保たれているが、それも永久ではない。
ベリタスの下した決断は、戦術と倫理の微妙な天秤の上にあった。
だが、我々はもう立ち止まれない。
東の風は西の盆地に新たなる可能性が芽吹かせたのだ。
ある夜、夜営の火に腰を降ろした兵士が小声で呟いた。
「剣王、いつかあの旗が引き下がるといいな。」
俺は黙って頷いた。
希望は兵の言葉の中に沈殿しており、指揮官の決断だけでは生まれないものだ。
だが指揮官の決断は進軍の鍵である。
東方でシャーロットの契約の儀式が成功を収めたとの報せが入ったとき、俺は胸に一筋の光を見た。
それは単なる勝利の報ではない。
東と西が同時に動くことで生まれる戦術的な転機の始まりを意味していた。
◇ ◇ ◇
ベリタスは地図を前に静かに指を這わせながら言った。
「ついに来たぞ。東の成功を受けて、我々も大きく動ける時が来た。私たちはこの数週間、エル・メディス領に続く南の入り口と、盆地の東側を確保している。」
それは今の連合軍の現状であった。
急峻な山々に囲まれたこの盆地は南と北の入り口以外から入ることも出ることも不可能だ。
「これから数日のうちに、南の入り口を封じた後放棄、北のシルヴァリオン領に続く入り口を占領し、シルヴァリオン領に突入し、北入り口を封じ、内部に敵軍を孤立させる。数週間、この膠着で稼いだ情報と我々の資源を一気に投じるんだ。」
その決意は重かった。
犠牲を最小にする努力を続けてきたが、勝利は最終的には決断の質にかかっている。
ベリタスの瞳には、王としての責任と、人としての恐れが同居していた。
だがその手は震えない。
こうしてベリタスは戦況を動かす大規模作戦を行う決断を下した。
東方戦線と西方戦線が連動し、再びこの大陸に残る皇帝を崩す。
俺はアルカディアの鞘を撫でる。
希望と不安を胸に、だが確かな連携を信じて———
———西方戦線は次の段階へと進む。
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