契約
開戦から三週間が過ぎ、フラクタル領はこれまでにないほど深く侵されていた。
平原は焼け、村々は破壊され、フラクタルの兵たちは消耗しきっていた。
草むらは矢と魔術の焦げ跡で黒く染まり、夜ごとに焚かれる火は疲弊した兵士たちの体温をかろうじて保っているだけだ。
遠くの空を裂いて流れるシルヴァリオンの黒旗の影は、日増しに濃度を増しているように見えた。
その時、遠方の空が静かに裂けた。
その空の下、連合軍を寄せながら滑るようにして近づいてきたのは———テミスの半冠を戴いた誓約の女王、シャーロットであった。
彼女の到着を告げるのは鳴り止まぬ鐘のような一声ではなく、ただひとつの言葉だった。
戦端近くに立つ者たちの耳に、その言葉がすっと落ちると、草むらの中の動きが一瞬だけ止まった。
その女王は未だ蠢き続ける操り兵の前に立ち、睥睨する。
口元が動き、言葉を紡ぐ時、それは侵攻を食い止める契約の始まりだった———
「フラクタル一族の女王として、と契約を結ばん。我が祖は私に知恵を与え、我が民は私に力を与えてくれている…半冠よ、私の言葉を聴き、契約を果たせっ!!」
その宣言は戴冠での誓いに近いが、今は本物の儀式の始まりを意味していた。
半冠は、黄金の果実によって生まれた生成物であり、契約魔術を具現する遺物だ。
フィストリアのように言えば、それは人々が扱う魔術言語よりも言語の祖に近く、範囲も力も現在の支配魔術の効果を凌ぐ。
しかしこの半冠は使い手に幾つかの代償を課す。
シャーロットはそれも承知で、今前線に降り立っていた。
フレオンは前線の狼煙の陰でその声を聞いた。
三週間、彼は死に物狂いで治癒を振るい続け、指先は擦り切れていた。
眠りは短く、魔術は手の内で朧げになっていたが、鼓動は早まり、瞳に光が戻る。
シャーロットの到来は、彼にとって希望の灯火であった。
「シャーロットが来たぞ……半冠を持っているな———あの力なら、きっと……」
事前の連絡……
誓約の女王は操り兵との契約で不可侵を成そうとしているのだ。
それは今の押されている状態を解消する可能性を示唆していた。
しかしその希望も祝杯ではなかった。
シャーロット自身に降り掛かる代償———
それは契約の成立までの一切の行動不能を要する。
使用者は儀式の間、飲食も動作もままならぬほど束縛されるという。
それは通常の契約であれば大したことのない代償だ。
しかし、その時間は、この戦場では長く、苛酷なものだ。
だが、もし成し遂げれば数万の命を救える可能性がある。
フレオンはその重みを即座に受け止め、医療陣と兵站の再編を始めた。
◇ ◇ ◇
女王は高台に、淡い光を纏って半冠を戴き、手を組み、祈っているかのように見えた。
彼女の声はフレオンには聴こえないが、風に乗り、操り兵たちの心へと広がっているはずだ。
テミスの半冠が紡ぐ契約は、人と人の縁を超え、民と土地を結ぶ。
支配魔術に縛られた操り兵たちの奥底に残る薄い「自我」
いつか、フィストリアとルーカス、ベリタスが話したこと。
完全な支配は困難だからこそ、操り兵にとって不利な情報を閉ざしているはず。
それならば彼らにも意識はあるはず。
先日の西王暗殺事件の間者捜索の時にも分かったことだ。
———彼らの戦を終えて故郷へ帰りたいと囁くかすかな願いに、シャーロットは触れる。
女王はその小さな声を一つずつ拾い上げ、糸のように繋げていった。
◇ ◇ ◇
契約のはじまりから一日目、女王は一切の飲食が出来ないまま、儀式の言葉を繰り返しているようだ。
今も彼女の脳内には半冠からの言葉が流れ続けている。
それはあらゆる状況においての対応方法を厳密に決定しているからだ。
フラクタルの魔術師が輪になり、支援を施す。
シャーロットの思考を鮮明に維持するために。
それは契約の素早い完了と、彼女への負担、疲弊を減らすためであった。
フラクタルの契約の核心は「保証」だ。
シャーロットはそれを、明確にした。
操り兵の生命を守ることを、儀式の条件に据えた。
敵の支配魔術の命令は単純だ。「敵を殺せ」それだけの命令。
だがそれに対抗する契約は「不可侵」を宣言することで命令を相殺できるはずなのだ。
相殺が成立している間、条件に操り兵の生命保持を掲げた以上、もし一人でも死ねば契約は破綻する。
だから、女王は救済を同時に請け負った。
命令と契約が重複し、操り兵は行動不能になるだろう。
この数週間は、そんな操り兵の生命を守り、回復させるための大量の医療と食糧を、あらかじめ前線後方に配備するための期間でもあった。
それ故、今のフレオンの負担は増した。
彼は小隊を総動員しながら歩き回った。
砕けた顎を押さえる者に治癒を施し、凍てついた肢体を温める。
腕を吹き飛ばされた若者に簡易の義手を括り付け、眼を失った兵に暫定の視力補助を施す。
治癒とは完璧な回復だけを指さない。
今求められているのは「十分に生かす」ことであり、それは彼の血と時間を奪っていった。
◇ ◇ ◇
二日目の深夜、彼はひとり、星の光に向かって呟いた。
「助けたい命は零れちまうもんだな…」
契水の小隊隊長にも、幾度も回復の手を伸ばしたが、胸の深い破壊には追いつけなかった。
ここ数週間の闘いの疲弊でもあったのだろう。
彼の生命はフレオンの手を零れ落ちた。
隊長の最期を見届けた時、フレオンは初めて自分の手が震えるのを感じた。
己が世話になった人を失う感覚。
「あぁ、シルヴァリオンなんざ、消えちまえ…」
彼は自身の中に、
行き場の無い怒りの炎を滾らせていた。
シャーロットの契約は無駄ではなかった。
その死は悲嘆であったが、彼の仲間たちはその場で動くことを止め、生死の間で揺れる多くを救った。
フレオンは痛みを胸に刻み、再び包帯を巻いた。
◇ ◇ ◇
三日目の夜明け前、半冠の言霊は満ちてゆく。
女王は膝をつき、全身で契約を保持し続けていた。
彼女の顔は蒼白で、唇は乾ききっていた。そんな彼女を女官が世話をする。
未だ、彼女の両目には強い光が宿っている。
彼女が脳裏で唱えるのは法と誓いの節であり、それはすべての人々を包含する誓約であった。
◇ ◇ ◇
やがて、四日目の薄明に、半冠の薄明かりは鋭く一点に収束した。
戦場の喧騒がふっと薄れ、鉄と血の匂いの中に静謐が差し込む。
操り兵たちの動きが止まり、剣先がゆっくりと地に垂れる。
胸奥でぐっと押さえ込まれていた小さな声が、震えるかすかな息として戻ってくる。
眼の奥に戸惑いと安堵が混ざる者、ひざまずき嗚咽する者、ただ茫然と立ち尽くす者———その表情は様々であった。
戦場に立ち会った者は誰もが言葉を失った。
フレオンは拳を握りしめ、背中を撫でるほどの疲労に震えを感じながらも、救われた者たちの目に映る未来を見た。
女王は膝のまま、静かに殆ど呻くようにして立ち上がった。
三日三晩の断食と唱導は、彼女から多くを奪っていた。
だが、それと引き換えに数多ものの命の連鎖が断たれたのだ。
戦場の周縁では、民や負傷した兵がその光景を見守っていた。
村を追われ仮設のテントに暮らす人々は、契約の輪が伸びてくるのを目の当たりにして涙を流す。
契約の成立は単に軍事的効果だけでなく、消えかかっていた帰る場所を人々に返す行為でもあった。
だが、契約の代価は膨大であった。
半冠の力は果実の生成物だからか非常に強力だが、同時に使用者の精神と体を枯渇させた。
シャーロットは三日間、断食し、睡眠も断ち、肉体の疲弊を盾に誓言を読み続けた。
彼女は半冠からの言葉を払拭し、契約の言葉だけを選んで取り出した。
周囲の魔術師は彼女を守り、羽根のように柔らかな言葉を編んでは燃やし、彼女の体力をわずかに支えるに留めた。
また、誓約の女王であるシャーロットの契約は、政治的な意味合いも持つ。
操り兵を不可侵とすることで、北の軍は戦術の一部を失う。
西方戦線における支配による暴力の連鎖は止まり、戦乱の中でささやかな秩序が生まれる。
フレオンはそれを冷静に分析した。
「これで戦線は一時的に安定するはずだ。だがその分、敵の戦術は変化するんだろうな。北は必ず別の手を打ってくるぞ。」と、彼は所属の若者に告げる。
若者たちは疲れきった面差しで頷いた。
四日目の終わり、夜の帳が落ちる頃、兵たちは互いに肩を抱きしめながら涙を流した。
だが、フレオンの胸に寄せられたのは救いの笑顔だけではない。
彼は自らの治癒が及ばなかった者たちの面影を拭い去れないでいた。
契水の小隊隊長をはじめ、数えきれぬ名が彼の中に刻まれている。
だが彼は気付いていた———この仕事の終わりは、次の始まりにすぎないのだと。
治療の流れを回すための食料補給路、搬送用の担架隊、負傷者の恒久的な収容所。
その整備は戦後の平穏へ向けた現実的な歩みであると同時に、戦場の再編成でもあった。
◇ ◇ ◇
一方、北の側は静かに観察を続けていた。
「エレクトラ、北東の攻勢が止まったようだが?」
一人の魔族が己の皇帝からの言葉を聴いていた。
「まさか、半冠を持ち出して支配が相殺されるとは思っても見ませんでした。お許しください…」
「大半の魔族はストロニアが北西に連れて行った……其方の方に送れる援軍にも、限りがあるぞ……」
一人の魔族はニヤリと笑い皇帝に言葉を返す。
「無論、私が出ましょう。貴方様より与えられた力を、存分に振るってきましょう!」
周囲には甲高い笑い声が響く。
◇ ◇ ◇
フラクタルに生まれた静寂は決して永遠ではない———しかし、東方戦線の嵐は確かに収まって来ている。
こうして、三日三晩の契約はフラクタルに一瞬の希望をもたらした。
人々は帰路を夢見、負傷者は一定の安息を得た。
だが、その光を覆そうとする影は既に盤上に落とされていた。
北の深奥から、新たな駒が送り出されようとしていた———
続きを読みたい! と思って頂けましたら、
是非下のボタンから評価をしていただけますと幸いです……!




