大戦の始まり
夜明けは、火の線のように東の空を裂いた。
蒼と橙の狭間を切り取る風が吹き、盆地の稜線に黒い塊が浮かんだ。
それは軍旗だ———シルヴァリオンの旗が、はるか向こうの稜線に群れをなして揺れている。
その姿はまだ遠く、だが確かな脅威として視界の端に重くのしかかっていた。
◇ ◇ ◇
シルヴァリオンとの全面戦争において、西方戦線と東方戦線、その二つの戦線が重要な戦場となる。
西方戦線はエル・メディス、シルヴァリオン間の盆地となっている国境。
東方戦線はフラクタル、シルヴァリオン間の平野となっている国境。
今、ルーカスは丘の縁に立ち、冷たい朝霧を胸いっぱいに吸い込んだ。
脚下には南派閥連合軍の軍勢が、広大な盆地を取り囲むように陣を敷いている。
西方戦線の展開場所は崖に囲まれた盆地である。
エル・メディスとシルヴァリオンの国境であるこの山地と盆地は急峻な断崖が外界と隔て、この地形は一見して守りやすく、同時に閉塞的でもあった。
入り口は限られている。
諸将がそこを封じられれば、敵の大軍もやがて脆弱になる。
だが逆に言えば、その入り口の支配を誤れば———全軍が牙をむかれる場所でもあった。
遠く東方戦線では、数ヶ月前の北東戦線と同じ平野部に戦火が集まっている。
そこはかつての小競り合いで血が流れた土地だ。しかし、今回は規模が違う。
平原の風は、短い秩序を乱すほどに軍勢の足音を運んでいる。フラクタルやアルカノスの援軍は東に集まり、白い旗や整列された盾が朝露の中で鈍く光っているのだ。
ルーカスは深くうなずいてから、傍らのフィストリアに視線を送る。
彼女の青い瞳は大海のように平静で、すでに魔術構築の細部を計算している気配があった。
彼女は一瞬だけ小さく笑い、掌で風の感覚を確かめるように指先を動かした。
その所作ひとつで、ルーカスは安心を得た。
今の時代、戦場において最も頼れるのは剣と魔術だが、その両方を理解する者が側にいることは、何より安心できる拠り所となっているのだと感じていた。
「私はこの西方戦線に主力を置く。だが東方戦線に顔を出す遊撃部隊も必要となるだろう。」
ベリタスの声が伝令のように届く。
盤上を眺める王は前線の高台から俯瞰し、板のように静かな表情で指揮を執っていた。
彼は今や国家の重みを肩に背負った指揮官だ。
国宝であるアスクレピオスの聖杯を何週間と掛けて前線に運び、兵士たちの生命に対する配慮を示すその姿は、軍の士気を支える灯火でもあった。
「ルーカス、フィストリア、二人にはその役を担ってもらいたい。君たちにはこの盆地の抑えと、必要時の転移遊撃を任せたい。」
「分かった。基本的には西方を固めつつ、東方の様子も確認しに転移で遊撃に向かおう。」
ルーカスは小さく答え、剣の柄に手を掛ける。
アルカディアに込められた己の願いは、握るだけで胸の奥で再び燃え上がる。
個人の誇りと国を守る責務。王として、そして一人の男としての思いが交錯する。
フィストリアは頷きつつ、そっと天絡の浮遊石を確認した。その正二十面体は今や二人の合図のごとく、静かに光をためている。
浮遊石は危険だが有効。ルーカスは今回の大戦でそれを使い、剣を浮かべさせ、空中を自在に歩くつもりだ。
西方と東方、盆地と平野———異なる地形に合わせるための工夫でもあった。
背後で軍鼓が鳴り、補給路の人波が動き出す。
数千、数万の兵が動員され、騎馬隊の蹄が大地をたたく。
東方戦線には水の魔術師、南西からは魔術師を擁する援軍が到着している。各前線の配置は短く、だが綿密に組まれていた。
西方戦線の盆地には主力の騎兵と重装隊、魔術陣を展開するチームを配置。
東方戦線の平野では魔術に長けた部隊を並べ、互いの補完が可能な配列だ。
「入り口は西領土側と北領土側の二つだ。勿論、敵の侵攻は北側から来るだろう。」
ルーカスは地図を指で辿る。
崖に囲まれた盆地は自然の要塞だが、北の大軍は支配した兵士の数と機動力で押し切ろうとするだろう。
そして今回の大戦でも敵は操り兵を多用してくることが考えられる。
操り兵をどうするか考えなければ北東戦線のように数週間、数ヶ月と膠着状態が続く可能性も考えられる。
だが盤外の書、そして連合軍の知見があれば———突破できる可能性は高いと踏んでいた。
ベリタスの瞳が一瞬鋭く揺れる。彼は王としてだけでなく、指揮官として冷徹な判断を下す。
書が利用された北東戦線以降、彼は情報戦の重さを理解していた。
盤外の書が示す景色は恐ろしい。
だがそれが味方につくとなれば話は別だ。書の情報ほど頼もしいものはない。
東方戦線に魔術師が多く送られた関係から、西方戦線は魔術師が少ないが、そこを情報で補うのだ。
そして盤上で更なる有利を取るために、人、魔術、地形を最大限に使わねばならない。
「私たちは不要な犠牲を減らす戦を理想として戦う。」
ベリタスは静かに言った。
「だが、相手はその理想を破ろうとしてくるだろう。ならば私たちは知恵で対抗するのみだ。盤外の書もある今、我が国の治癒と皆の力でこの西方戦線を死守するんだ。」
ルーカスはその言葉に力を得る。
己の剣が、ただの攻撃の道具以上の意味を持つことを思い返す。
自分の願い———大切な誰かを失わないために戦うという個人的な動機と、国を守るという王としての責務とが、一つの刃の重みとなって手の中で合わさる。
やがて、夜明けは完全に空を満たし、各国の軍旗が稜線に近づく。
グラディアの戦士は戦争において金獅子となり戦う。
遠く、敵の陣列が微かに動いた。
操り兵の波が、遠方の丘を越えて押し寄せる気配。それは静かだが確実な脅迫だった。
フィストリアが短く呟く。
「戦場が膠着状態に移行してからは西方と東方を行き来することになります。準備は整えておいてくださいね。」
「もちろんだ。この場の膠着はそれほど時間が立たずに現れるだろう。———すぐ戻る。」
ルーカスは言い、天絡の石に手をかける。
肌が冷たくなる感覚、浮遊の感覚が戻る。剣がふるえるほどに意気が高まる。
かつて戦士として生まれた自分は、この一瞬を待っていたのだろうか、とも思う。だが今は待機ではなく行動だ。
兵士たちが整列し、ベリタスの指揮が下る。
南派閥の連合旗が風になびき、各国の誇りが混じり合う。
同じように東方戦線ではフラクタルの白い旗が、アルカノスの象徴が、それぞれの色を空へと放っていた。
◇ ◇ ◇
ルーカスは一振りの剣に心を集中させ、剣を振るい、やがてフィストリアの元に帰ってくる。
その時二人の影がふわりと消え、転移魔術が地面にさざめく。
彼らは西方戦線の盆地に降り立ち、同時に東の戦線へ小さく顕現する遊撃部隊の役を負う。動きは速く、的確だ。
鼓動が地面に伝播するように、軍鼓の音が徐々に増していった。
前線の兵士たちの顔にも覚悟が刻まれている。
老練の槍手、初陣の若者、魔術師の疲れた瞳。
だが全員の視線は同じ方向を向いていた。
ルーカスは一人一人の表情を心に刻み、フィストリアと短い目礼を交わす。
彼女の瞳には、ただ任務を全うするという静かな意思が宿っている。
彼らの背後には盤上の王たるベリタスの影があり、その影は今や国の行く末を示す羅針盤のように感じられた。
空は重く、しかし確かな光を秘めている。
そして、遠く稜線の向こうから、黒旗はさらに数を増やして見えた。それは合図でもあり、予兆でもある。兵たちの息遣いが固まり、時が止まったような緊張が辺りを満たす。
今は遠く、フィストリアの歌を聴いた日々が思い出される。
そんな日常を守るために皆で戦う。
こうして大戦の火蓋が切って落とされた———
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