炎影に身を沈める者
西の大国エル・メディスと南派閥が相対し、戦いが始まった日から、三週間が経過した。
互いに限定的に兵を衝突させ、フィストリアが両軍の致命傷を防ぐ。
険しい丘陵地帯と広大な草原が交錯する戦場で、両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、いまだ膠着状態にある。
東方の霧深い山並みを背にした南の本陣では、ルーカスが副指揮官を集めて静かに目を合わせていた。
西軍は北風に乗って銀白の甲冑を輝かせ、遠方の丘の頂に影を落とす。
敵将イザーク率いる元帥隊は、実に三度目の夜襲を仕掛けたが、いずれも南の治癒術師団とフィストリアによる前線の救護活動に阻まれた。
時間が経つごとに両軍ともに総指揮官の意図が伝わったか「これ以上無駄に血を流すべきではない」という暗黙の了解が出来てきており、剣戟が起きても短期の刺し違えにとどまり、大規模な突撃には発展しなかった。
南の魔術師は東のフラクタルから到着した契水の小隊の後方支援と連携しつつ、浅い結界を敷いては西軍の魔術構築をかろうじて防いでいる。
数度の小競り合いの末、両軍が消耗するたびに丘の頂へ西の治癒術師が現れ、傷ついた兵士をその場で回復させる光景が繰り返された。
戦況は一進一退に留まり、三週間たっても軍旗は互いの陣営を一歩も踏み越えられずにいる。
◇ ◇ ◇
三週目のある日の夕刻。
空に茜色の雲がゆらめき、遠く草原に立つ兵士たちの影を伸ばす。
ルーカスは膠着状態で腕が鈍らないようにフレオンと剣の訓練を繰り返していた。
2人は丘の麓で剣を握り締め、呼吸を繰り返していた。
その時、副指揮官が静かに近づく。
「王よ、西との消耗戦はこのまま続けても埒が明きません。双方の兵が疲弊し、同盟国への後方支援も限界に近づいています」
ルーカスはふと剣先を地に突き、黒い瞳を細めて呟いた。
「フィストリアが前線で救護してくれている限り、西の連中も躊躇せざるを得ない。しかし、長期化すれば兵たちの士気も下がる。何より民衆が不安を募らせるか。」
副指揮官は頷き、添えるように続ける。
「私たちもそろそろ、戦の終結を考えるべきではないでしょうか。もし西が冷静に話し合いに応じるのなら、交渉の準備を整えましょう」
よく晴れ渡った空を見上げ、ルーカスは深く頷いた。
「頃合いか———」
ルーカスはベリタスと結んだ盟約について考えていた。
「よし、折を見て和平の道を探ろう。まずは我らの態度と意思を伝える使者を送る。各同盟国にも通知して、必要とあれば同行させるのだ」
◇ ◇ ◇
三週間目の終わり、南派閥は同盟国にも連絡を行い、西との交渉案を練った。
交渉人として選ばれたのは、ルーカスとフィストリア。
グラディア王夫妻は何があっても場を離れられる転移魔術があることが選ばれた要因でもあった。
彼らは「まずは停戦を条件に、互いの言い分を聞き、決着の可能性を模索する」方針を打ち出した。
エル・メディス側には既に南の使者到着を伝え、西は「和平の意向があるならまず四人の特使を迎え入れる」との返答を寄越した。
その矢先、西軍の元帥イザークに小さな変化が現れた。
ある夜、野営地の闇に紛れて、水面を走るような冷たい風が吹いた。
イザークの耳に、流れるような声が囁きかける。
「斜陽の下、南はやはり欺瞞の手を練る。使者が来ると言っても、それは時間稼ぎに過ぎぬ。王太子ベリタス殿もお心当たりのはず。南が奪った盤外の書を返す気などない。今こそ、斬り込みをかける時だ」
だが、その声の主は誰か定かではなかった。
ベリタスですら同じ声を聞いたという。
2人の総指揮官は待ち侘びたこの時をうまく扱うために息を潜めていた。
ある者は「間者の術」と囁き、また別の者は「ただの幻聴だ」と否定するその声。
人々の中でイザークだけは、声を確信に変えていくために動き出した。
◇ ◇ ◇
声を聞いてから三日。
イザークの胸には疑念の種がふくらみ続けていた。
「もしあの声の言うように南派閥が西を欺くなら……西はすでに数千の兵を集めている。ここで押し込めば、国民は喜ぶだろう。」
しかし、彼の心の奥底には、ベリタス王太子の「まずは交渉」という慎重策が常に響いている。
日ごとに平原から聞こえてくる遠吠えのような風音は、まるで何かが蠢く予兆のようだった。
ある夜、イザークはひとり兵営の外れで剣身を研いでいた。
月光が鋼を銀白に照らし、研ぎ石を進めるたびにかすかな火花が舞う。
背後から落ちるように声がした。
「元帥、覚悟はできているか?」
振り返ると、いつの間にか一人の兵士が立っていた。
見知った西国の紋章をつけた魔術師で、しかしどこか影があった。
「お主が声の首謀者ではないだろうな?」
イザークは鋭く問いかける。魔術師は小さく首を横に振り、指をさすだけだった。
視線の先にあったのは、遠方の南本陣を照らす焚き火の赤い輝き。
「南に延びるその影、元帥の目にどう映る?」
不意に刃を向けるそぶりを見せ、消えるように立ち去った。
その場に残されたのは、「南を疑え」という声だけだった。
イザークは剣を握りしめ、荒れた息を吐いた。
心の中で何かが割れるように音を立てた。
◇ ◇ ◇
声を聞いた日から六日後
イザークは悩み続けた末に決意した。
ベリタス王太子に直訴するのではなく、自らが行動の先頭に立つしかないと。
もう彼の頭の中にはそれしか見えていなかった。
"国のため"という炎の裏には、影のように暗い敵への憎しみがあった。
「南派閥が本気で西を陥れようとしているなら、もはや妥協はありえぬ。和平の机上会談が続く中で、南は準備を整えるだけだろう」
そう言って、彼は仲間の数名を呼び寄せた。
「わしは今から単騎で南本陣に向かい、調査をするつもりだ。もし向こうが和平の意思なき相手なら、ここを捨てて丘を駆け降り、先方の主力へと切り込む。王太子殿下が許されなくとも、わしはわしのやり方で動く」
副将たちは息を飲み、一瞬だけ躊躇の色を見せたが、イザークの鬼気迫る瞳を見て頷いた。
夜明け前、イザークは上等な銀装の鎧に身を包み、剣と盾を携えて馬にまたがった。
「これが最後の決断になる。わしが戻らなければ、わしは南を討つために一歩も退かぬつもりで戦っているということだッ」
こうして西最強の元帥は夜闇を裂くように、南の丘陵を目指して駆け出した。
この日からイザークは決定的な証拠を見つけるために南本陣周辺を調査するようになった。
◇ ◇ ◇
不思議な声から四日目の朝。
ようやく西と南の間に、交渉場が設けられていた。
両軍の将校・外交官らが集い、長い円卓を前に初めて顔を合わせる。
テーブルには西の使者としてベリタス王太子とその側近、西の宰相が並び、南側にはルーカスとフィストリア、契水小隊の幹部数名、フラクタルの使節が控えている。
アルカノスからはアメリア女王の親衛隊が数名姿を見せていた。
議題は明白だった。
西が提示する盤外の書回収後の安全保障策、南派閥が求めるエル・メディス領の交易路維持と、北の陰謀調査への協力、その先に両国がいかにして互いの脅威を抑止し合うかを話し合う。
議論は始まった。
西側の宰相は重々しく口を開く。
「貴国が盤外の書を奪ったという誤解のもとで、西民衆は対南派閥の憤怒を顕にしております。まず、貴王はどのようにしてその誤解を解くつもりでしょうか」
ルーカスは淡々と答えた。
「グラディアははじめから、北の介在を疑っていた。この書を奪う動機は南派閥にはなく、西貴族の宴席での声を受けての衝動的な喧嘩騒ぎにすぎないと考えている。このため南は書が戻るまで停戦する用意がある。さらに北が関与しているとすれば、我らとご協力のうえ、北東および北の大国に対して共同で調査を行うことを提案する。」
西側の宰相は眉をひそめた。
「しかし、北は我らと同盟関係にある。北東の小国も北の属国……北と手を結んでいる以上、そこに調査の余地などあるのか。事態は複雑ですぞ。」
ルーカスは大きく頷き、拝礼するように頭を下げた。
「双方、ここまで譲歩してきた。この交渉が進展すれば、戦禍は最小限に抑えられるだろう。だが、もし北が本当に暗躍しているのであれば、最後の最後まで警戒を解くわけにはいかない。」
こうして話し合いの中でも膠着を続けた。
◇ ◇ ◇
交渉は四日にわたって続いた。
双方の理想と矛盾が浮き彫りになり、書面には小さな修正の墨が重なっていった。
ルーカスが要求を述べる。
「俺たちグラディアからはエル・メディスと面しているアルカノス、および南派閥の和平を要求する。疑念については無論グラディアでも調査を続けるが、必要なら国家は関与していないと俺の名でエル・メディスの民たちの前で宣言しよう。」
エル・メディス側も要求を告げる。
「エル・メディスからは書を見つけた際の速やかな返還と犯人調査の人員を派遣してもらうことを要求する。」
両者が食い違うところを擦り合わせ、最後に残ったのは両国合同の公開調査団を立ち上げ、中立評議団を招聘するという一点だった。
イザークは表向きは冷静を装っていたものの、目の奥に燻る炎は収まらない。
◇ ◇ ◇
交渉五日目の朝。不思議な声からは九日たっていた。
西・南双方の代表団が集う円卓で、ようやく交渉は終結に向かいだした。
ルーカスは筆を置き、静かにベリタスの顔を見上げた。
「俺たちは北の関与を明らかにしたい。それが済めば南と西の全面協力体制を築けるはずだ。南派閥の脅威を否定するつもりはない。だが、まずは北の可能性を潰すことが前提だ」
ベリタスは眉を寄せ、床を踏んだ。
「北の同盟を我々が疑うわけにはいかぬ……だが、北東の小国の動きが怪しいのも確かだ。貴国が我らとともに北の動向を監視し、調査に協力してくれるのであれば———」
その直後、外で怒号が響いた。
会談場の窓からは、遠方の草原を駆ける一人の人物の姿が見えた。
西最強の元帥イザークである。
彼は急ぎ来館し、大きく息を荒らげながら部屋に飛び込んできた。
「王太子殿下、ルーカス国王閣下。聞いて頂きたい!昨夜、北東の小国から南本陣近くの荒地に偵察の部隊が潜入した痕跡が報告された!おそらく、夜陰に紛れた敵の工作員だ!」
その言葉に、ルーカスは剣を握りしめた。
ベリタスも表情を崩さない。
南本陣のすぐ近くまで間者が潜入しているという。
交渉を続行するか否かを一瞬ためらった両国代表の視線が、再び乾いた鋼のように苛烈な決意へと変わっていく。
「これでは、南と北が共謀して我々を騙している可能性が高くなった。交渉は一時中断、撤退しなさるか?」
と、エル・メディスの宰相が口を挟んだ。
ルーカスは大きく息を吐き、柔らかく微笑んだ。
「北が本当に暗躍しているのであれば、それはすぐに判明する。南が共謀しているなら尚更だ。俺たちは南派閥と西が共闘して北の陰謀を打ち砕く時機を、逃すわけにはいかない。それとも、ベリタス殿、我が南が本当に北と共謀しているとお思いで?」
ベリタスは少し躊躇したように見えたが、やがて眉を引き締めた。
「それでは、交渉はここで一区切りとしよう。西は南とともに北東並びに北の大国の調査に協力する。もし間者が真に南派閥と共謀している証拠が得られたならば、我が国は貴国と国交の断絶。ただし、証拠が無ければ全ては北の陰謀とし、南と和平を結ぼう。」
イザークは頷きながら口を挟んだ。
「そうと決まれば、すぐに南の前線を一歩戻し、我が北への斥候隊を再展開する。南派閥が結託しているなら、すぐにでもエル・メディスに伝えよ」
契水の小隊幹部も続いた。
「我らは北東への討伐部隊を即刻派遣し、事実を明らかにする準備を進めましょう。ですが、奴らを野放しにできないため、南本陣も念のためフレオン副隊長と一部を守備隊として残しておきます」
こうして交渉は一旦停戦協定と条件付きの和平協議へと移行した。
その直後、ベリタスは重々しい口調で結んだ。
「まずはこの取り決めを宣言し、北への調査を開始する。それを終えずに新たな戦火を交えるのは、我々の良心に反するだろう」
だが、会談場の扉は開かれたまま、イザークの不穏な表情だけが軋む空気の中に残った。
◇ ◇ ◇
交渉から数時間後、西最強の元帥イザークは丘陵地帯のとある荒地へ向かっていた。
辺りはすでに暗くなっている。
そこは南本陣から見て、平原をわずかに越えた地点である。交渉を一時保留としたとはいえ、イザークは己が感覚を止められなかった。
「間者が南派閥と共謀し、西を欺く……」
普段の冷静な判断ができない感覚がする。
「全ては、エル・メディスの…ため…」
月影が剣身に落ちる中、彼はその疑念を拭いきれぬまま駆け下りた。
盾に結びつけられた小旗が夜風に揺れる。
遠方では南派閥の守備隊が静かに輪形陣を組み、火を囲んで警戒に当たる姿が見えた。
その後方には、薬草の香りを放つフィストリアの治癒陣地が炎に照らされている。
イザークは闇に紛れて静かに近づいた。
足元の草叢を踏まぬよう、大地の地形に神経を集中する。
鎧に映る月光で、南の守備隊の顎の形まで見分けられた。やがて、視線の先にひときわ高く輝く剣があった。
「ルーカス王の旗……ここまで出張るとは思わなかった。」
イザークは目を凝らす。
そこには王自身と、副隊長フレオンの姿があった。二人は火の側に立ち、地図を広げている。
互いの声は遠く、囁くようにしか聞こえないが、その緊迫感は伝わってきた。
「フレオン、その場で停戦を保ったままで構わない。西軍正面に討伐部隊を集結させる準備をしろ。敵が動いたと分かれば、俺たちはすぐに南本陣を支援できるよう動く」
ルーカスの声は低く、武将そのものだった。フレオンは大きく頷き、兵を呼び寄せるために立ち去っていった。
二人が居なくなると、残された火が揺らめくばかりだ。イザークは剣を引き抜き、その影を火の浮かび上がる夜空へ投げかけた。
「西軍正面に兵を…?…まさか……いや…これで…決まり、か……」
彼は肩越しに火を見下ろしながら、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
心の中に渦巻くのは、「国のためならば」という信念だけではない。
しかし彼の心の中に「北の可能性を見なければ」というベリタスの言葉は何故か消え去っていた。
イザークは交渉をうたっていながら、己はすでに戦端を開く覚悟を固めていた。
やがて、丘の上に連なる西軍の野営地から一隊の騎馬兵が静かに駆け降りてくるのが見えた。イザークは剣に手をかけ、その姿を待ち受けた。
火の揺らめきに照らされる顔には、かすかに冷笑が浮かんでいた。
「そろそろ南本陣へと迫ろう。ベリタス殿下の言いつけは守れぬ。敵の影を潰すためならば、我が剣は二度と収めぬ」
炎が夜闇を切り裂き、闘志に燃える西の将軍と、南の王ルーカス、そして契水小隊の副隊長フレオンが火の側で対峙したとき。
それはルーカスにとっても大きな転機となる。
新たな戦いの幕が、再び開かれようとしていた。




