新たなる戦い
『だからこそ自分は次に賭けそれを願う』
その者は未来を思う。
果実を手にする自分を思い描いて。
◇ ◇ ◇
西の大国エル・メディスでは、古くから伝えられる『アスクレピオスの聖杯』、『盤外の書』の二つの異物が最重要の国宝とされていた。
アスクレピオスの聖杯は西の大国を治癒術師の国とする所以の遺物である。
エル・メディス王家の先祖が果実に願ったことは
『怪我や事故による苦しみを減らしたい』
という人々の単純な願いでもであった。
異常に重く、転移魔術にも抵抗するため、持ち運びが非常に難しく、その代わりに四肢欠損までなどであれば治すことのできる水が溢れている。
この水は持っていくと力を失う特殊な水である。
この水を解析して広がったのが治癒魔術なのだ。
もう一つの遺物、帝国時代に生まれた盤外の書には、人々の動きを視覚化する力が込められている。
戦時も平時も、領内の動向を把握するために不可欠なものであり、西王宮は代々それを厳重に護り続けてきた。
西国家はその盤外の書を北の大国からの不可侵のために明け渡そうとしていた———
しかし、西の南方領海で盤外の書を積んで航行していた西の商船団が忽然と消息を絶った。
護衛の軽装甲船すら戻らず、海面には破片と消え残る魔術の痕跡だけが漂っていた。
翌朝、漂着した数隻の破片の中から、かろうじて錆びついた海図と護衛隊士の持っていた小型治癒魔導具が発見された。
だが、最も衝撃を与えたのは、船団が積んでいたはずの盤外の書が忽然と消失していたことだった。
エル・メディス王都では、真っ先に南派閥———南の大国、東の大国、南西の小国———が共謀して書を奪ったという噂が飛び交う。
民衆は「南派閥はわが国の情報を利用して北の謀略を見破ろうとしたのだ」「わが国の家族を南派閥に脅かされるわけにはいかぬ」と怒りを露わにしていた。
大商団の重臣たちも「このままでは交易路が海賊同然に狙われる」と主張し、南派閥の脅威を唱えた。
だが、西の王太子ベリタスは、事の成り行きに違和感を抱いていた。
北の大国シルヴァリオンに献上しようとした『盤外の書』を北の大国が奪取するとは思いにくい。
だが、南派閥が『盤外の書』を奪う動機など今はない。
確かに強力な遺物であるが、アルカノス女王アメリアは半年前のグラディアとの小競り合いで欠けた自国の魔術師の育成に専念していた。
そして、フラクタルは北東の小国シルヴォールの動乱に気を取られている。
グラディアの新王ルーカスも、戴冠から三ヶ月ほどで戦力の大半もアルカノスなどの復興に振っていたはずだ。
この状況下で、南派閥がわざわざ西の商船を襲う合理性が見出せなかったのである。
西の賢王エメリウスは民の怒りと貴族たちの圧力に押され、「南派閥が本当に手を染めたかどうかを確かめるまで待機しろ」と命じたものの、諸侯の中にはすでに戦を請願する声が渦巻いていた。
中でも西最強の元帥イザークは「敵を前にして悠長なことを言わないでもらいたい。今こそ軍を率い、南の前哨を叩き潰すべきだ」と息巻いている。
南の防衛力を侮らないが、イザークの胆力と実績は王宮でも一目置かれており、南派閥への制裁を急がざるをえない状況だった。
それでも賢い者たちの中では南派閥の動機や時間がないことから同盟国である北の大国に疑念を募らせる者が増えていった。
その翌日、王宮の謁見の間。
朝日が大理石の柱をぬくもりで染め上げる中、ベリタス王太子は白銀の鎧を身にまとい、元帥イザークを前に語りかけていた。
「元帥、昨夜の報告書によると、襲撃に使われた魔術結界は確かに古い魔術の系譜、帝国時代からの魔術言語を含んでおり、通常の南派閥の技量を超えている。彼らが自国にそれほどの魔術言語を継承しているとも思えない。」
「ですが、王太子殿下、民の怒りは収まりません。あの書の所在がわからないままでは、我が国の安全はどこにもないという声ばかりです。今動かなければ、西の国力は衰え、そこにつけ込まれ、北の影響下に置かれる危険すらあります。」
元帥イザークの声には厳粛さが滲む。
彼の鋭い眼光は、王太子の背中にも揺るぎない信頼を寄せているが、その口調は抑え難い焦燥を帯びていた。
「わかっている。だが慌てて南に大軍を投じるのは、まだ早い。南派閥全体が敵かどうかの確証が欲しいからだ。もし北の手先が仕組んだ罠と露見すれば、我らは南と全面戦争を仕掛けたという大恥をかくことになる」
「では、どのように動くつもりなのでしょう?」
イザークは短く問うた。
ベリタスはゆっくりとした足取りで窓の外を見つめ、琴のような調べを思わせる声音で答えた。
「まずは南派閥の真意を確認する。即ち……もし南が本当に我が国を狙ったのなら、表立って戦いを挑んでくるはずだ。南の将軍や王子たちを、我々の戦力をお目にかけた上で揺さぶりをかけよう。真正面から睨みを利かせれば、南の気勢も萎えるかもしれない。」
「ですが、グラディアのルーカス王は剣の才に優れ、魔術も見分ける目を持つといいます。彼の前に我の親衛隊を差し向けるだけでは、進軍に足踏みしてしまうかもしれません」
ベリタスは微笑んだ。
「だからこそ、元帥には直接ルーカス王と対峙してもらいたい。君は西で最強を誇る戦士であり、魔術師たちをも圧倒する実力者だ。南の王国ならびに同盟国に対して、我々が相当の戦力を持っていることを示すには、最適の人材だろう」
イザークは頷き、武勲を蘇らせるように剣の柄に手を掛けた。
「わかりました。我自ら前線に向かいましょう。先方と睨み合うにしても、我が国の誇りを見せつけるには十分でありましょう」
互いの計画に合意した二人は、その背後に垂れ下がる銀糸の旗章をしばし見つめた。
「それにしても、北の可能性も考えなければならないのは難しいものだ。北が我が国と南を争わせようとしているかのように感じてしまうな。」
王太子は一応同盟国である北の大国を思う。
どちらにせよ王太子は自国に害をなす者を排除するだけだ。
それはたとえ同盟国であっても同じだ。
「一度ルーカス王と会ってみるのも悪くないだろうな。」
エル・メディス王国の新時代を支える若き王太子と、揺るぎない忠誠を誓う元帥。
その決意は、やがて南の地平線へ向かって槍となるのである。
◇ ◇ ◇
そのころ南の大国では、一通の文書が王宮に届けられていた。
ルーカスの戴冠式から三ヶ月が経過した頃だった。
差出人はエル・メディスの宰相、東と南西の同盟国を刺激せず、停戦を維持したまま南の大国に、使者として宰相が赴くという内容であった。
ルーカスとフィストリアは、王城の中庭で二人きりの時間を過ごしていた。
その折、西の宰相が謁見を願うという。
「手紙の届く翌日に来るとは、よほど重大な要件なのか」
ルーカスは眉を寄せた。
フィストリアもすぐ隣の苔むす石畳に腰を下ろし、書物を閉じながら首肯する。
「ルーカス、西の宰相はエル・メディスでもっとも信頼がおかれている相談役です。もしかしたら本当に西で大きな事件があったのでは……?」
フィストリアは軽い調子で噂を口にした。
「最近、西の国宝が何者かに奪われたという噂も聞きますし。」
その噂話はルーカスも耳にしていた。
「ああ、俺たちが怪しまれているというが現場には不審な点が多くあったと聞くからな。それでも、グラディアがエル・メディスにいきなり攻め込む可能性は薄い。ましてや、西は北に半ば従属している国なんだ、グラディアと全面衝突すれば両国は疲弊する。北は漁夫の利を狙っているんじゃないか。」
ルーカスは静かに吐露する。
「それでも西の王太子が動くなら理由がありますよね……」
2人は王太子が動く理由を考える。
フィストリアは本を抱えたまま、空を見上げた。
空は雲ひとつなく、白鷺が悠然と飛び交っている。
◇ ◇ ◇
西の宰相は、南王ルーカスとの謁見を終えると、書状を差し出した。
書かれていたのは、西側の盤外の書奪取事件についての詳細な報告と、西の王太子ベリタスの談話要約だった。
「貴国の王と王妃閣下に、我がエル・メディス国民および貴族・軍上層部の意向をお伝え申し上げに参りました。盤外の書の奪取は、西国内で紛れもない対南派閥の挑発行為と受け取られており、我らはこのまま黙認することができません」
西の宰相の声は柔らかく、それでいて重みを帯びていた。
だがルーカスは書状の末尾に書かれていた一文を目にし、眉をひそめた。
『盤外の書が北に運ばれた途上で紛失しており、現段階では奪った者が誰か断定できません。グラディア国王陛下は、南派閥を断じて正犯と断定するには疑問があると述べておられますが、貴国におかれましてはどう対応されますか?』
「俺たちからすると北の大国以外あり得ないのだが、どう答えたものか……」
ルーカスはため息をつく。
西の宰相はそっと頷いた。
「北に対する懐疑の念は、王太子殿下から、我が国の上層部にも伝播しております。ですが、北と南派閥のいずれが背景にいるか、我々もまだ定かではありません。ただ現状では、南派閥が奪ったという国民の声を無視できません。残念ですが、今月末までに回答を頂けなければ、西は南派閥に対して限定的な戦端を開く用意があります。何より、わが国の安全を保障するための最小の措置です」
ルーカスは握り拳を作り、ゆっくりと開いた。
「わかった。それなら我が国でも調査を進める。ただし盤外の書は誰にでも扱える。いまだ見つかっていないその物品が南派閥のどこにあるか断定しにくいことを、ご理解いただきたい。」
「かしこまりました。ともあれ戦争を回避したければ、我が国の王太子と南国王閣下が一堂に会し、話し合う機会を設けて頂ければ、少なくとも我が国民の不安は和らぐと思います」
西の宰相は真摯に申し出た。
「その提案は受け入れよう。互いに誤解されたまま斬り合うなど、本意ではない」
ルーカスは力強く答える。
◇ ◇ ◇
それから数日後———
届いた王太子ベリタスからの書状には…
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親愛なるルーカス陛下へ
貴国と我が国との関係が、いまや鋭き刃の間合いに近づいていること、私は深く憂慮しております。
民意は高ぶり、兵たちの足並みも整いつつある。しかし、その戦の火種が、必ずしも貴国より発したものかどうか、我が心はなお定かならず、疑念は未だ胸中に渦巻いております。
ゆえに私は陛下に願い申し上げます。一度、互いに剣を置き、御身と直に言葉を交わしたく存じます。
両国が滅びの道を辿るか、あるいは新たな盟約の道を歩むか、それは我ら二人の決断に懸かっております。
ただし、疑いが完全に払拭されたわけではないことを、どうか御承知くだされ。
その上でなお、私は貴国の誠意を信じ、会見を望むものであります。
エル・メディス王太子 ベリタス
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西と南の会合を組む提案が記されていた。




