化物聖女の恋煩い
* * *
「貴方の悪行はよく知っていますわ! 自分の立場を利用して民はおろか王までも堕落させた、大嘘つきの魔女! それが貴方でしょう!?」
豪奢な離宮の一室で、二人の少女が対峙している。
一人は椅子に縛られ、一人はそれを見下ろしていた。
「堕落だなんて、そんな……」
一人は笑い、一人は震えていた。
一人は聖女と呼ばれて崇め奉られるフィアーラ。
一人は異国からやってきた貴族の令嬢クラリス。
この日、彼女達の運命が決まろうとしていた。
* * *
──王子リュークによる反乱が起きたのは、エイラド王国の少年王リドとその同い年の聖女フィアーラの婚礼を二か月後に控えた、ある冬の日のことだった。
聖女フィアーラの住む神都フェキラ、その中央には神官達が集う神殿がある。
王子リュークの婚約者として異国からやってきていた令嬢クラリスが、改宗のために神殿を訪れたいと言い出した。異国から突然帰ってきた王子は少々いわくのある人物だったが、それでも神殿は彼の婚約者の申し出を受諾し、歓迎する──だが。
「驚きました。まさかわたしの家を襲ってくる人間がいるなんて」
フィアーラは目を丸くする。それでもクラリスの倨傲な笑みは陰らない。
「無駄口は叩かなくてよろしい。魔女フィアーラ、おとなしく投降なさい」
クラリスの自信の源は、彼女の祖国からやってきたらしい騎士達だろう。騎士達は剣を抜いて神官達を威圧していたが、フィアーラだけは怯えの色を見せなかった。
「これはあなたの祖国……ヴィドル王国の総意ですか? これは我が国への侵略行為とみなしますけど、最初から戦争目的でリューク王子とお近づきに? それとも、あなた一人がリューク王子にそそのかされちゃっただけですかね?」
「貴方に答える必要があって?」
クラリスは不愉快そうに吐き捨てる。困ったフィアーラは少し考えることにした。
クラリスが引き連れた私兵達を前にして、神官達にできることなど何もないだろう。
元から神殿には武力などない。大いなる神に対する叛意などないことを示すため、神殿は一切の武装を放棄していたからだ。
神殿に暴力的な行為を持ち込んではならない。神官も、非力であればあるほどいいとされている。そのため、荒事に向かない者達が神官になるのは当然のなりゆきだった。
そんな組織だからこそ、神官達は誰かと戦うことなど想定していないし、そもそもこの国に神殿を襲おうとする者などいない。
襲う可能性があるとすれば異国から来た人間達ぐらいだろうが、神都が侵略されるほどの事態などそれこそ国が陥落でもしなければ起こらないはずだ。しかしたった今、その唯一の例外が起きてしまった。
(なるほどぉ。わざわざ神都に攻め入らなくても、神殿……もっと言えば、わたし一人が狙いなら、こういう風にできるわけですか。この国の人間の盲点をうまく突いた作戦ですね。……もしこれがリューク王子の差し金だとしたらちょっと困りますけど。お父様への畏敬の念を忘れてるってことですもん)
いくらここにフィアーラという要人がいるとはいえ、神殿は彼女を守るための力すら備えていない。
何故ならフィアーラは、誰かに守ってもらう必要などないからだ。
(とはいえ、起きてしまったことは仕方ありませんね。失敗は今後に活かすとして、ひとまず今はこの場を何とかしないと。……他の人間を危険にさらすわけにはいきません。人間が死ぬのは、リドが嫌がります。リドを悲しませたくありません)
無力な神官達を背に庇うように、フィアーラは前に進み出た。
「いいでしょう。その代わり、約束してほしいことがあります。あなた達がわたしをどう扱おうとしても構いませんが、ここの人間達には指一本触れてはいけませんし、どんな略奪も蹂躙も許しません。何もしないで出ていってください。それさえ守っていただけるなら、わたしを捕まえてもいいですよ」
自分の身柄と引き換えに配下の身の安全を乞うフィアーラに、クラリスは拍子抜けしたような顔をした。クラリスは、きっとフィアーラは神官達を盾にしてでも醜く逃げ回るだろうと思っていたからだ。
とはいえ、手間が省けるならそれに越したことはない。クラリスは部下の男達に命じ、フィアーラを手荒く取り押さえさせた。
「そんな、フィアーラ様……! 御身を差し出してまで助かる気など、わたくし達には……!」
「そんな顔をしないでください。わたしはお父様の娘ですから、何があっても大丈夫です。それに、あなた達は何も悪くないんですよ? だから、怖がることはありません」
顔を青ざめさせた神官達に、フィアーラは優しく声をかける。
「あっ、でも、誰かが死んじゃうと困るので、お父様にお祈りしておいてくれますか? 外国の人が死んじゃったら、きっとリドの胃と頭が痛くなっちゃいますもん」
「かしこまりました、フィアーラ様!」
神官達は勇気を取り戻したようだった。力強く肯定する神官達を見て、フィアーラは安堵の笑みを浮かべる。
「それじゃあわたしは行ってきますね。……リド、助けに来てくれるかなぁ」
罪人のように鎖につながれても、まだそんな世迷言が言えるとは。クラリスは失笑し、侮蔑の眼差しをフィアーラに向けた。
「あの偽りの王が来るはずないでしょう。彼は今ごろ、リューク様の前に跪いて命乞いをしているんですもの」
クラリスは、愛しい青年と共にこれから手にする栄華を想う。
卑劣な弟王子の策略によって外国へと追いやられた悲劇の王子。それがリュークだ。
クラリスを見初めた異国の王子は、クラリスのためにこの国を取り返すと約束してくれた。クラリスの父も、クラリスが王妃になれるのならばと快く送り出してくれた。
国土こそ小さいが、国は国だ。それに平和で裕福。本来なら第一王子たるリュークが継ぐべきものは、彼を飛び越えてその三つ年下の第二王子リドが継承していた。その事実は、クラリスを義憤に駆り立てるのに十分だ。
クラリスほどの美姫を迎えるのなら国主でなければ釣り合わないと、リュークは口癖のように言っていた。だからクラリスは、その覚悟を尊重して彼を後押しすると決めたのだ。
リュークが王冠を戴くために、目障りなものはすべて排除しなければならない。
偽りの王と異教の聖女など、他国出身のクラリスにとっては敬う価値もないものだ。
「……」
そんなクラリスを、フィアーラはただ微笑を浮かべて見つめていた。
*
「いきなり帰ってきたと思ったら、これは一体どういうつもりだ、兄上」
「お前には、王冠はふさわしくないと思ってね。僕のものを返してもらうよ、リド」
「貴方がそれを言うのか。よりにもよって貴方が」
弱冠十六歳の若き国王リドは、凪いだ瞳でリュークを見つめた。異国の騎士達を従えたリュークは、軽薄な笑みを浮かべている。
そのさまは、弟王に謁見を求める殊勝な兄王子にはとても見えない。
リュークが引き連れているヴィドル王国の騎士達が不遜にも剣をリドに向けているというのも、その印象に拍車をかけている。謁見の間にはリドの護衛をつとめる騎士達も控えていたが、いつ緊張の糸が切れて戦闘に発展するかわかったものではなかった。
「ヴィドルの老狸どもにうまく乗せられたようだな。だから貴方を遊学に行かせるのは反対だったんだ」
自分を溺愛する母妃の手引きによって国外に逃げおおせたリュークが、婚約者を連れて勝手に戻ってきたと思った矢先にこれだ。リドは苛立ち混じりに王座のひじ掛けを指でトントンと叩いた。
「違う。これはずっと昔から考えていたことだ。僕は、この国を再建させたいんだよ。古臭い何もかもを捨ててね。どうする、リド。おとなしく王位を僕に返すなら、命までは奪わないよ? そもそも、この国の正当なる王位継承者は嫡男たるこの僕だ。あるべきものをあるべき形に戻すのは当然だろう?」
リュークは二年前から、ヴィドル王国に身を寄せていた。表向きは遊学ということになっているが、その実態は亡命だ。彼には先王の暗殺と、弟王子リドの暗殺未遂の疑いがかけられていた。
リュークが追及から逃れられたのは、長男を偏愛する母妃が過剰に彼を庇ったからだ。
その母も、最初は第一王子不在の間の代理の国主として振る舞うつもりだったようだが、リドが信頼できる臣下達と共に強引に父の跡を継いですぐに辺境の離宮へと追いやった。王太后にはもう、リュークの後ろ盾になれるほどの権力はない。
「貴方の言動が本当に国と民を想ってのことであれば、私は貴方の言う通りに王位を退いていただろう。改革を目指す貴方の統治の邪魔をしないよう、ただの名無しの旅人としてフィアーラと共にこの国を出てもよかった」
だが、とリドは言葉を切る。その眼光はあどけない少年のものというにはあまりに鋭く、それまで飄々としていたリュークは一瞬息を詰まらせた。騎士達の間にもぴりりとした空気が走る。
「貴方は昔から、やたらと金や権力にこだわっていたな。貴方が王位を欲しているのは、私利私欲のためだろう?」
信頼できる側近が多くいるとはいえ、少年の華奢な肩に政は重すぎる。
それでもその重圧に負けないよう、即位してからのリドは意識的に威厳あるもったいぶった話し方をするようにしていた。それは、兄の前でも変わらない。
「旧体制の打破と言えば聞こえはいいが、ようは古から定められている命晶花の輸出規制を緩和させたいだけだ。そんな貴方にとって、伝統に忠実な父上と、神の子であるフィアーラと婚約している私はさぞ目障りだっただろうな」
命晶花は、このエイラド王国の財源だ。
淡い光を放つ結晶のように見えるその花の蜜を塗ればどんな怪我もたちまち治り、葉を煎じれば万病に効く薬になる。滋養強壮にもいい。健康な人間が飲めば、さらなる活力が得られるだろう。
不老不死の霊薬といえばさすがに大げさが過ぎるが、あらゆる傷病を回復させられる万能の治療薬として重宝される希少な植物、それが命晶花だ。
あの時父王が摂取した毒物の量がもう少しだけでも少なかったのならば、リドのように一命を取り留めることもできただろう。
リドが生きているのは、毒が回りきる前にフィアーラの独断で純度の高い命晶花のポーションをありったけ飲まされたおかげなのだから。
命晶花は多く採れるものではないし、ほんの微量であってもそれなりの薬効を持つことから、流通は王の名によって徹底的に管理されている。
命晶花の成分を抽出して薄めたポーションが、エイラド王国の特産品だ。閉鎖的な土地柄ながら、エイラド王国はこのポーションのおかげで国際的な地位と平和を約束されていた。
「わざわざヴィドルの騎士を連れて私の前に現れるとはな。他国の支援を受けて調子に乗ったか? おおかた、高純度のポーションを優先的に輸出することを条件に、ヴィドルの協力を取り付けたんだろう」
「……!」
「貴方とヴィドルの人間、どちらが先にその密約を持ちかけたのかはこの際どうでもいい。結果は変わらないからな」
エイラドをぐるりと囲む迷いの森や奈落につながる渓谷といった天然の要塞と、命晶花のポーションの輸出を条件にして多くの国と結んだおかげでがんじがらめになった中立の条約が、命晶花を狙う他国の動きをお互いにけん制しあってくれる。武力による手出しはどの国にもできない──だが、エイラドが内側から瓦解するなら話は別だ。
「貴方にも私と同じ家庭教師がついていたはずだが、兄上は歴史学の講義を真面目に聞いていなかったらしい。……私達の祖先は、命晶花を巡って醜い争いを続けた。命を救う奇跡を巡って命を落とし続ける愚かな人間達には罰が下り、罪の贖いのために神殿が生まれたんだ」
命晶花は元々、人ならざるものの至宝だった。孤独なかのものの無聊を慰め、その有り余る力すら浄化できるほど純粋な輝きを放つ美しい花だからだ。
後から来たくせに好き勝手に庭を荒らして命晶花を摘み取る人間を、かの大いなる存在は許さなかった。
──だから先祖は、ソレに“神”という名を与えて奉ることで怒りを鎮めようとした。
その目論見は、成功したと言えるだろう。“神”は人間との共存を受け入れたからだ。大切にしていた花を人間に分け与える代わりに、“神”は人間の営みを眺め、時にはその中に加わることで退屈を紛らわせることにした。
だからといって、大いなる存在への畏怖を忘れていいわけではない。エイラドの民の魂には、“神”への畏れが刻み込まれていた。
「遠い昔の話だ、すでに許しを得たと思うのも無理はないが……だからといって同じ過ちを繰り返していいはずがない」
「そう思うなら、まず僕達の無駄な争いを避けるためにさっさと退位すればいいじゃないか!」
「それはできない。命晶花が切り売りされれば、次に売り飛ばされるのは国そのものだからな。ヴィドルの抜け駆けを、他の国は見過ごさないだろう。我が国の中立と平和は永遠に失われ、命晶花を摘むためにやってきた異国の兵士のせいで多くの民の命が踏みにじられる。そんな残酷な未来をもたらすわけにはいかないんだ」
リドはそっけなく答えた。その冷ややかな声音に、リュークは憎悪のこもった眼差しを向ける。
「その目。その目だよ。リド、僕は昔からお前のことが嫌いだったんだ。そうやって、弟のくせにいつも僕を見下してたんだろう? あの気味の悪い小娘に好かれてるからなんなんだ? 何が聖女だ、ただの化け物のくせに!」
「……あれで中々、可愛いところしかない女なんだが」
幼いころから不器用ながらも一途に好意を寄せてくれる愛らしい少女を想う。誰がなんと言おうとも、リドにとってフィアーラは大切な存在だ。フィアーラから伝えられる愛はもちろん、リドが彼女に返す愛にも打算はなかった。
「お前が調子に乗っていられるのも今だけだ。そろそろ僕の婚約者が、あのおぞましい魔女を捕らえたころだろう」
「なんだと!?」
「賢いお前でなくても、これからどうなるかわかるはずだ。魔女がお前を売るのが先か、お前が魔女を見捨てるのが先か。そのどちらかしかないんだから!」
「おぞましい、か。兄上が思っているほど、フィアーラは危険ではないぞ? ……そもそも、そう思っている相手に自分の婚約者を平気で差し向けられる兄上のほうがおぞましいと思うが。兄上の婚約者は、フィアーラが何者なのかきちんと理解しているのか?」
リドは怒りのあまりこぶしを強く握るが、深く呼吸をして激情を鎮める。
(為政者たるもの、常に堂々と落ち着いていなければ。ここで隙を見せれば、兄上の思うつぼだ。大丈夫、フィアーラは無事に決まっている)
フィアーラまでもが狙われているというのなら、もはやこの問答を続ける必要はない。
早く王都を発って、神都に彼女を迎えに行かなければ。王家に伝わる幻獣ペガサスで思いきり翔ければ、一時間とかからずに着くだろう。
リドは配下の騎士に目配せをする。側近達は小さく頷いた。
「兄上。頼みの綱の母上はもういない。異国の人間しか味方につけられない時点で、勝敗は決まっていたんだ。……この国は改革を必要としていない。かの神も神殿も、そして命晶花も、エイラドに残り続けるだろう」
「うるさい! 短い栄華だったねリド、僕の代理を立派につとめてくれた礼に、すぐ父上のところに送ってやろう! 後は兄たる僕に任せて、安らかに眠るといい!」
睨み合いの均衡が崩れ、互いの騎士達が激しくぶつかる。
リドが立ち上がるまでもない。決着はすぐについた。
「……ヴィドルの風は、貴方から神への畏れだけでなく犯した罪の重さまで奪ってしまったようだな」
確かにエイラドは平和な国だ。大規模な侵攻ならいざ知らず、要人を襲撃するだけなら少ない数の兵士だけでもなんとかなると、リュークの支援を決めたヴィドルの重鎮も判断したのだろう。だから彼らはリュークの帰還に際して自国の騎士を貸したのだ。
だが、日常的に命晶花のポーションを摂取して強靭な肉体を獲得したエイラドの精鋭騎士に、並の戦士で歯が立つはずがない。
現在の平和な環境にあぐらをかいてはいけないとリドに教えたのは、皮肉にもリュークの蛮行だ。
父が兄によって殺され、兄が他国に逃げてから、リドはこうなることを心のどこかで考えていた。いつか兄は他国と手を組み、国家転覆のために戻ってくるかもしれないと。そのときに備えて密かに軍事力の増強をはかっていたのは正解だったらしい。
「その男は、先王陛下を暗殺し、あまつさえ反乱まで起こそうとした大罪人だ。牢につないでおいてくれ」
「リド……! 弟の分際で、いつまでも王を僭称れると思うなよ……!」
取り押さえられたリュークは悔しげに何かを喚いている。しかしリドは振り返ることもなく謁見の間を後にした。
*
神都にあるリュークの離宮は好きに使っていいと、クラリスはリュークに言われていた。リュークがヴィドルにいる間は閉鎖されていたようだが、さすが第一王子のための離宮というだけあって居心地は悪くない。その離宮も、今はフィアーラという虜囚のための牢獄だ。
「悪いことをしちゃいけないって、教わらなかったんですか?」
椅子に縛りつけられてなおもフィアーラは余裕を失っていない。天真爛漫な顔立ちに見合わない、どろりとした毒を秘めた目がクラリスを見ていた。
本能的にクラリスの身体がこわばるが、詐欺師風情に怯えているなど認められるわけがない。室内には、クラリスの私兵の男達もいる。彼らの前で、拘束された華奢な少女に恐れを抱くなど、絶対にあってはならないことだ。だからクラリスは堂々と胸を張り、フィアーラをきつく睨みつけた。
「何を。すべて貴方の自業自得でしょう。父親すらわからない平民の分際で神の子だなんて吹聴して、図々しくも弟王子をそそのかして兄王子から王位を奪わせるだなんて。恥を知りなさい。ここがヴィドル王国であれば、即刻斬首でもおかしくありませんことよ」
「やだなぁ。それ、誰が言ってたんです? リューク王子ですか? わたしが神の子なのは事実ですし、わたしのお父様のことも、リドがすっごく大変だったことも、エイラドの人間ならみんな知ってることなのに。あなたはヴィドルの人間だから、知らなくても仕方ないですけど……」
フィアーラがこてんと首をかしげた。わざとらしいその仕草に、クラリスの表情がわずかにひきつる。
(この場に及んでしらを切れるだなんて、一体どこまで面の皮が厚いのかしら!)
フィアーラの予想通り、フィアーラの素性をクラリスに教えたのはリュークだ。
彼の祖国エイラドには独自の国教がある。その聖職者達の頂点に立つ神官長は、女であれば聖女と呼ばれるそうだ。
当代の神官長はクラリスとそう年の変わらない少女だが、彼女の母親は先代の聖女その人だったという。
忖度による世襲だというのはクラリスにもわかったが、ヴィドル王国の国教では聖職者の結婚を認めていない。聖女フィアーラの出自について話を聞いた時、なんてふしだらなのだろうとクラリスは眉をひそめた。
案の定、リュークいわく問題は世襲そのものではないらしい。聖職者の模範になるべき女が姦通し、父親のわからない子供が神聖なる神の家の頂点に我が物顔で居座っているのが問題なのだという。
エイラド王国において、その国教は政治や生活に密接にかかわっているらしい。王権は神より与えられたもので、神殿こそが王位を保障するとか。
数年前に即位したばかりの若き国王リドも神殿の強力な後ろ盾を得ていて、当代の聖女を妃に据えようとしている。第二王子のはずのリドがリュークを差し置いて即位できたのも、きっと神殿のせいだ。その影響力に疑いの余地はないだろう。
異教が汚されようと、クラリスにとってはどうでもいい。しかし汚らわしいフィアーラの存在こそが、国王リドの瑕疵になる。ならばそれを利用しない手はなかった。
「今すぐリューク様を新たな王と認めて忠誠を誓うのなら、情けをかけてあげてもよくってよ」
厳かなその宣告に、フィアーラは肩を震わせる。しかし彼女は怯えているのではなかった。この期に及んで笑っているのだ。
「ついに気でも狂ったのかしら。それとも、リド国王の手の者が貴方を救い出してくれることをまだ夢に見ているの?」
「いいえ。あなたの言葉は面白いなって。情けをかけてあげるって、つまり苦しまないよう殺してあげるってことですよね? だって、あなたとリューク王子にとってわたしってすごくお邪魔じゃないですか」
フィアーラの発言は的を射ていた。
クラリスの目的は、偽の国王リドを引きずり下ろし、リュークを王位につかせることだ。
この国でもっとも権威があるという“聖女”がリュークの即位を宣告すれば、誰もそれを覆せない。そのためにクラリスはフィアーラを拘束し、従わせようとしていた。
それが終わればフィアーラはもう用済みだ。新王リューク、そして新王妃クラリスを超越する権力者など必要ない。神の子を騙る私生児を魔女として断罪して、新しい神官長にはクラリス達の息のかかった人間を据える予定だった。
「やってもやらなくてもわたしを殺すつもりなのに、なんでわたしがリューク王子のために戴冠式をしてあげると思うんですか? わたしがこうして捕まったのだって、あなたに付き合ってあげてるだけなのに」
「……その口を閉じなさい。でなければ、貴方の想像以上の苦痛と恐怖を今すぐここで与えてあげるわ」
「はぁ、どうぞご自由に。わたしも、あなた達が想像できる限界に興味があります。だから、試してみましょう。ちゃんとわたしの想像を越えられるんですよね?」
フィアーラは笑みを崩さない。クラリスは怒りで顔を赤く染めながら、背後の男達に対して感情のまま指示を出した。
だが、彼らはクラリスの望む結果を出さなかった。フィアーラに向けて一歩歩み寄った途端、彼らは恐怖に目を見開きながら悲鳴を上げ、一目散に逃げだしたからだ。
かろうじてその場にとどまった者もいたが、その理由は勇敢さではない。胸を押さえて倒れ込み、逃げるだけの余力が残っていなかったせいだ。心臓の発作に苦しみながらそのまま気を失った男達に、フィアーラは痛ましげな目を向けた。
「かわいそう。あなた達が与えようとした恐怖がわたしを越えるほどに純然なものだったなら、わたしに恐れなんて抱かなかったのに。この程度の恐怖にも耐えられないのに、一体何をするつもりだったんです?」
「あ……貴方、今、何を……」
配下の男達の惨状を目にし、クラリスは茫然と尋ねる。返ってきたのは軽やかな笑い声だった。
「まさか本気で神の子を誘拐できたとでも? クラリス様、ヒトの話はきちんと聞いていただかないと。言ったでしょう、わたしはあなたに付き合ってあげているだけだって。わたしがその気になれば、家に帰ることなんて簡単なのに」
愛らしい双眸がクラリスを捉える。その瞳孔が山羊のように細く横長く見えたのは、偶然がもたらした錯覚のせいだろうか。もうその瞳孔に異常は見えない。
「だったらやってみせなさい! ここで、今すぐ! 貴方が本物の神の子で、正真正銘の聖女だというのなら、その程度の奇跡も行使できますわよね!?」
嘘つきの少女が得体のしれない化け物に変わる。じわじわと心を蝕む恐怖から逃れようと、クラリスはフィアーラの頬を平手で力いっぱい張り飛ばした。
ばちんと大きな音が響き、フィアーラの頬に赤い跡が残る。フィアーラは哀れむようにクラリスを見上げた。
「クラリスさん。あなたは利用されてるんですよ。あなたはリューク王子に嘘を吹き込まれたんです。リドが王様にならないといけなくなったのは、全部リューク王子のせいなんだから。もしかしたらあなたの故郷の人間も、この国を手に入れようとして暗躍しているのかも。その人間達にとって、あなたは捨て駒でしかないんです」
慈悲をもってクラリスに語りかけるその声音は、“聖女”という名にふさわしいものだ。それでもクラリスは、怯えたようにフィアーラを見た。
「だけど、今ならまだ間に合います。こんなことはやめましょう? わたしには、あなたを殺すつもりなんてありません。……そこで倒れてる人間達も、別に死なせたかったわけじゃないですから、ちゃんと気絶で止めてあげましたし」
「黙りなさい!」
もう一度クラリスはフィアーラに平手打ちをした。ぽろぽろと剥がれ落ちていく虚飾を怒りで拾い集めて食い止めようとする令嬢に、聖女はなおも改悛を訴える。しかしその言葉がクラリスに届くことはない。
「……わたし、一生懸命生きてる善の人間が大好きなんですよね。一人で立てなくて何かに救いを見出さないといけない弱さも好きですし、どれだけ無謀な壁に当たっても絶対折れずに輝き続ける強さも好き。だからリドのことはとってもお慕いしています。リドは弱くて強いから」
説得を諦めたフィアーラは、焦がれるように目を伏せる。リドを想う彼女のかすかな吐息は甘い熱を帯びていた。
「リドは負けませんよ? たとえあなたとリューク王子が何をしようと、その凶刃はリドには届きませんし、この国を盗み取ることも叶いません。クラリスさん、こんなことをしたって無駄なんです」
「そのような世迷言、二度と言えないようにしてあげますわ! わたくしに頭を垂れなかったことを後悔なさい!」
フィアーラの声はあまりに美しい。魂を絡め取る魔性の響きから耳を塞ぎ、クラリスは金切り声で叫んだ。
「貴方の悪行はよく知っていますわ! 民はおろか王までも堕落させた、嘘つきの魔女! それが貴方でしょう!?」
自分を鼓舞するように、クラリスは言葉を叩きつける。
クラリスは、異教の神の実存を信じていない。祖国の宗教ならいざ知らず、この国の神殿も聖女も、クラリスにとっては恐れるに足りないものだ。そのはずだった。それなのに、どうして震えが止まらないのだろう。
「堕落だなんて、そんな……」
何がおかしいのか、フィアーラはクスクスと笑っている。
「リドが堕落してくれたら、それはそれで面白かったんですけどね。そしたらきっと、この国はあっという間に破滅していきますし。でも、リドは悪に堕ちてくれないんです。そんなあの人が好き。だからわたしも、この国と人間を守らないと」
思えば最初から、この少女の振る舞いはあまりにも奇妙だった。
いつだって優位に立っているのはクラリスのほうなのに、フィアーラの余裕は一向に消えない。クラリスの調子が狂うのは、きっとそのせいだ。
「貴方のその態度は、神が貴方を守っているだなんて根拠のない妄想のせいなのかしら?」
「お父様が誰かを守るわけがないでしょう? この国の人間の敵を罰することで、間接的にこの国の人間を守ることならあるかもしれないですけど……あっ! あなたの国だと、守ってくれる神様がいるんですか?」
「何を……」
「宗教が変われば、常識も変わります。あなたは多分、何か勘違いしてるんです。この国の神官長って、お父様に見初められた信女か、お父様の子供がなるものなんですよ。今、お父様の子供はわたししかいないから、わたしが神官長です。次にお父様が誰かを見初めたら、今度はその人が神官長ですね。その人が子供を産んだら、その子が新しい神官長になるでしょう」
ようするに“神官長”になれるのは“お父様”に選ばれた者だけだとフィアーラは言う。そんなこと、クラリスには関係ない話だ。
「あなたの国ではどうだかわからないんですけど、別に神官の結婚って禁止されてないですし。もしダメだったら、わたし、リドのお嫁さんになれないじゃないですか」
「それがなんだと言うの!? これ以上くだらないお喋りに付き合うつもりはないわ!」
「だって、あなたはなんだかヴィドル王国の考え方をエイラド王国にもあてはめてるみたいだったから。いいですか? そもそも、人間を苦しめないことこそが、お父様が人間にもたらす最大の恩恵なんですよ。だから人間はそのことを感謝しますし、これからも苦しめられないよう祈ります。だけどわたしはリドが好きなので、お父様より話のわかるヒトになりたいんです」
「フィアーラ! すまない、遅くなった!」
ドアが勢いよく開いてリドが現れる。きっと王都から急いで神都に駆けつけて、フィアーラが連れ去られた可能性のある場所を手当たり次第当たったのだろう。フィアーラは頬を膨らませ、「ほんとに遅いです」とぼやいた。
「でも、わたしひとりでも大丈夫だったのに、わざわざ来てくれてありがとうございます。……あっ、そこで倒れてる人間達は死んでませんからね。勘違いしないでくださいよ」
「貴方が人を殺すとは思っていないから安心しろ。そんなことより、顔が腫れているじゃないか。かわいそうに、痛かったろう」
自国の騎士達を連れたリドはまっさきにフィアーラに駆け寄り、その拘束を外す。フィアーラとクラリスの立場はあっという間に逆転した。今度はクラリスが騎士達に取り押さえられる番だ。
「離しなさい! リューク様はどうしたの!?」
「兄上なら今は牢獄にいるぞ。……君は我が国の内乱に加担したとはいえ、その元凶は兄上だろう? だから、君を直接裁くつもりはない。君の沙汰はヴィドル王国に任せるつもりだ」
リドはクラリスを一瞥だけして淡々と答え、フィアーラを抱きしめる。
「怖い思いをさせてすまなかった、フィアーラ」
繰り返された謝罪がフィアーラの耳朶を打った。その真摯な声音に、フィアーラの表情が自然と緩む。別に怖くもなんともなかったが、心配されて悪い気はしない。
「仕方ないですよぉ。お父様との約束で、神殿には戦える人を入れちゃいけない決まりなんですから。今回約束を破ったのはヴィドルの人間達なので、エイラドの人間達は大丈夫だと思いますけど、きっと今ごろ神官のみんながお父様に一生懸命お祈りしてくれてると思います」
クラリスが連れてきたヴィドルの騎士は、神殿の中に武器を持ち込んでしまった。とはいえ、彼らがちゃんとフィアーラとの約束を守ってくれたのなら、父なる神も神官達の説得に免じてヴィドルの騎士達に手酷い罰を下してはいないだろう。……多分。
「リューク王子は……ちょっとどうなるかわからないですけど……」
「兄上はそれだけのことをしでかしたからな。兄上をみすみすヴィドルに逃したのは私の責任だ。きちんと兄上を捕まえられていれば、こんなことにはならなかった」
リドの眉間にしわが寄る。ヴィドルの重鎮達は、反乱への関与をきっと否定するだろう。クラリスとその家にすべての責任を押しつけるかもしれない。元を正せばエイラド王家の恥でもあるので、国として強く出ることも難しかった。
とはいえ、リュークという橋渡し役さえいなくなればヴィドルも表立って侵略を続けようとはしないだろう。他の国の目もある。このことが明るみになれば、国際社会で槍玉に挙げられるのは条約を破って中立国を手中に収めようとしたヴィドルのほうだ。対外的には何もなかったことにしてしまうのが、落とし所としてはちょうどいい。
「もう。リドはただの人間なのに、なんでも一人で背負おうとしないでくださいよ。第一、完璧なんてつまらないです。わたしは、足りないところがたくさんあってあがく人間が好きなんですから」
言い方を間違えたと思って、フィアーラは慌てて口をつぐむ。だが、リドは愛しげに目を細めて微笑むだけだった。
「そうだな。私はただの情けない男だよ。それなのに私を王にしてくれる民には感謝してもしきれない。もちろんフィアーラ、貴方にもだ」
フィアーラはほっと胸を撫で下ろす。リドのこういう、うまく話せないフィアーラにもちゃんと向き合ってくれるところが好きだ。
「これで終わりだと思わないことね! 神子を騙る魔女も暗愚の王も、いつか必ずリューク様の前に跪くことになるわ! この国の王になるべきなのはリューク様だもの!」
騎士達に囲まれながら部屋を連れ出されそうになる寸前、クラリスはそう吠えた。フィアーラは眉根を寄せ、クラリスを見る。
「フィアーラ、やめてくれ」
「大丈夫ですよ、リド。わたしが一体なんなのか、クラリスさんに教えてあげるだけですから。だってクラリスさんは、もうわたしと話したくないみたいですもん」
すかさずリドはフィアーラに声をかける。それに構わず、フィアーラはクラリスに向けて笑みを浮かべた。
「ひっ……!」
その瞬間、クラリスは凍りついたように動けなくなる。
フィアーラは笑っているはずだった。それなのに、クラリスを見つめるその闇を凝縮したような目と山羊のような瞳孔が、フィアーラの表情を笑顔と認識させてくれない。
心臓をじかに握り潰されて脳髄を焼かれるような痛みがクラリスを襲う。恐怖に顔を歪めたクラリスの口から絶叫が迸った。クラリスはその場に崩れ落ちそうになったが、傍らの騎士が慌てて彼女を抱き止めた。
「恐怖とか、狂乱とか、絶望とか。わたしのお父様はね、そういう悪意の概念が受肉した存在なんですよ。ここがお父様の土地だと知らないでエイラドを興した人達が目覚めさせてしまった、人智を超えたなにかです。……外国人のあなたには、悪魔とか魔王とか邪神とか、そういう言葉のほうがわかりやすいかもしれませんね」
直接“恐怖”という悪意を叩きつけられてがちがちと歯を鳴らしながらうわ言のように許しを請うクラリスを見て、フィアーラは悲しげに呟く。
「この国の人はみぃんなお父様の怖さを知ってるから、お父様を鎮めてくれる神殿を襲ったり、その娘のわたしを傷つけたりするなんていう馬鹿なことはしないんです。わたしもお父様みたいな力、使えますし。……リューク王子はきっと、お父様やわたしのことを何も知らない人が必要だったんでしょう。知ってたら、こんなことできませんから。つまり、あなた達は騙されて、生贄として連れてこられたんです。本当にかわいそう」
白目を剥いて泡を吹くクラリスは、いつの間にか気を失っていた。
「あなたがわたしを魔女って呼んだの、合ってると思います。わたしが普通の女の子だったら、こういうことにはなってないでしょうから」
クラリスの元に歩み寄ったフィアーラは、彼女のまぶたをそっと閉ざしてその口元をぬぐってあげた。
「こんなにいっぱいおどかしたんですから、きっとクラリスさんも悔い改めてくれましたよ」
フィアーラはどきどきしながらリドを見上げる。リドは小さく首を横に振った。
「いくら私が頼りないからといっても、こんなことはやらなくていい。貴方は兵器でも怪物でもないんだからな」
「……そっかぁ。そうですね。うん、そうでした」
真っ赤になってとろける顔を隠すようにうつむいて、フィアーラはリドの手を握った。
「でもね、わたし、リドの役に立ちたいんです。だから、この国の人間達のためにもっと善い神様を作って、邪神の遣いの魔女を放逐してもいいんですよ? お父様には、わたしがちゃんとお話ししますから。それであなたの権威が高まるならお安い御用です」
「馬鹿を言うな。女を踏み台にしてまで名声を得ようとは思わん。……確かにかの大いなる神は由来こそ恐ろしいが、神殿ができてからはきちんと共存できている。たとえ命晶花のことがなくても、信仰を棄てる必要性など感じない」
リドは少しかがんでフィアーラの顔を覗き込む。フィアーラの目をしっかりと見つめ、リドは真剣に言葉を紡いだ。
「神は直接人を救わないかもしれない。それでも、ただあるだけで人の心は救われる。すべては考え方次第だぞ、フィアーラ。貴方の存在も、私にとってはそういうものだ」
神の名において武力を持ち込むことが許されず、安全が約束されている神殿は、弱き者達が逃げ込める砦だった。
頼れる者のいない孤児、家族に抑圧される被虐待者、病や貧困に苦しむ者。社会という大きすぎる網では拾い上げられなかった声であろうとも、神殿はすべてを受け止める。これまでも、これから先もずっとそうだ。他国の人間から見れば異端の邪教とそしられるかもしれないが、それでもエイラドにとっては偉大な精神的支柱だった。
「貴方は国を想い民を想う、素敵な人だ。みすみす捕らわれたのだって、怯える神官達を庇うためなんだろう? もしその場で抵抗して血が流れようものなら、神の怒りがクラリス嬢とヴィドルの騎士に降り注ぐどころか神官達まで巻き込むかもしれないからな。そんな優しい貴方を犠牲にする王など、民は為政者とは認めてくれないだろう」
「えへへ。やっぱりリドは、堕落なんて絶対しませんね」
「堕落?」
リドは小さく首をかしげた。フィアーラはいたずらっぽく微笑む。
「クラリスさんが言ってたんです。わたしがリドを騙して堕落させたって。そんなことあるわけないのに」
「そうだな。私を王と呼んでくれる民が一人でもいる限り、どれだけ力不足だろうと道だけは踏み外さないぞ。貴方に落とされるとしたら、恋ぐらいだろうな。もうとっくに落ちているが」
「……んん???」
「さあ、神殿に帰ろう。神官達が貴方の帰りを待っているぞ」
「はっ、はい!」
愛しい少年に手を引かれ、フィアーラはきょとんとしながらも歩き出した。確かにリドの言う通り、神官達を安心させてあげるのは大事なことだ。
──諸外国に付け入られる隙を見せたくないエイラド王国と、失敗に終わった密約と暗躍の事実をうやむやにしたいヴィドル王国。二つの国の思惑は今度こそ噛み合い、人知れず和解が成立した。
リュークとクラリスの呪詛が実ることもついぞなかった。
クラリスは祖国でほどほどの相手との縁談をまとめられたことで新しい幸せを掴んだし、そのずっと前にリュークは獄中でひっそりと息を引き取っていたからだ。
リュークの死を知らないクラリスは、しばらくはリュークへの熱病にも似た恋心に浸っていた。
しかし新しい婚約者の誠実さにほだされた彼女の中からリュークへの想いは次第に薄れ去っていき、自我の肥大した少女期特有の思い込みによる過ちの記憶として永遠に失われた。
エイラドで体験した出来事を、クラリスが忘れたいと思うのも当然だろう。
リュークの死に顔は、とても人目には晒せないほど歪んでいたという。
まるでこの世ならざるものを見たかのようなその恐ろしい形相に、亡骸を発見した看守は不憫にも三日三晩寝込んで悪夢にうなされてしまったそうだ。
──エイラド史上最年少で即位しながらも、後の世に名君と讃えられる賢王リドと、いかなる時も民に寄り添う慈悲深き王妃フィアーラ。
そんな二人の婚礼の前に起きたある事件は、一人の王子の名前とともに歴史の闇の中に忘れられていった。




