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純文学

あなたというひと

作者: 西表 けい



 「そこに跪いて足を舐めなさい」


 黒いピンヒールをはいたあたしの脚を、男の顔の前に突きだす。

 ボクサーパンツいち枚だけの男。

まるで馬の顔の前に、ニンジンをぶら下げているみたい。

 こんな使い古された陳腐な台詞にも、男はだらしなく頬を歪ませている。

 欲望を熔かしきって濁った濡れた眼で、白い足を凝視する。

 うやうやしく、まるでどこかの国の王様に捧げられるダイヤモンドを扱うように。そっと両手であたしの足を掬う。

 仔犬のような眼差しでちらりと窺い、赦しを乞う。

 あたしは寛大な慈悲を施す。薄く微笑んで、ゆっくりと肯いてやる。

 男は喉をごくりと鳴らす。渇いた唇を開き、濁った色の舌を這わせようとするとき――すっと脚を組み替えて、男の手を振りほどく。

 御褒美をもらい損なった惨めな犬のように、あたしを見る哀し気な瞳。しかし、歓喜にのたうつような瞳の色。

 

 「どうして欲しいの? 言ってごらんなさい」


 威厳を保った、それでいて期待を膨らませてやる甘い声色を使う。目を細めて男を射る。赤く塗った唇を見せつけるように舌で濡らす。ラズベリーの味がする。好きなコスメブランドの新作。

 

 「その靴で……踏んでください」


 四つん這いになり荒い息を吐きながら、待ちきれない興奮に全身を汗で濡らす。

 ホテルのベッドサイドの常夜灯はオレンジ色。それに照らされる肌。

 

 「……汚い身体ね。豚の方がきっと、もっときれいよ」


 そのまま、ピンヒールをはいた脚で男の肌を撫でてゆく。爪先と踵を交互に意識しながら。ゆっくりと。

 

 「お肉は美味しいわ。でも、あなたは美味しくはない。醜いだけ。……こんなことを言われて興奮するなんて」 

 

 ぞくぞくと薄ら寒い。

 いつも感じる冷たさだ。

 だけど、決してこの冷たさが嫌いなわけではない。

 あたしは、いつの間にかこの冷たさを心待ちにしているのかもしれないと、ときどき思う。


 「……本当にクズね。なにを喜んでいるの?」


 微笑みを張りつけた表情(かお)をして、囁く言葉を巻きつけながら男を踏む。

 痛いだけではないように。気持ちのいい痛さになるように。男が悦ぶように。

 あたしは知っている。痛いことは気持ちがいいということを。

 痛めつけて、痛めつけて、癒してゆく。

 痛めつけて、痛めつけて、解放してやる。

 目の前の男が、歓喜を吐き出すまで。





*****

 


 身体は容れ物にすぎない。

 そう気がついたのは、わりと幼い頃だった。


 容姿の優れた同級生がチヤホヤされるのを、横目で見ていた。

 彼らとわたし。なにが違うのかといえば、姿形だ。

 同じことを言っても、同じ行動を取っても、好まれるのは彼ら。

 わたしは、姿形じゃない。この頭蓋骨の、この脳みその中にこそいるのに。

 

 大学を卒業後に、なんとか潜り込んだ会社は親会社の不祥事を受けて傾いた。

 残業代もカットされた。基本給だけでは生活ができない。奨学金の返済もできない。

 途方に暮れていたときに、趣味でSNSに投稿していた写真にダイレクトメールが届いた。

 『そのピンヒールで、私を踏みつけてください』と。


 


*****


 

 いわゆるフリーということになるのだろう。

 会社での勤務時間が終わると、予約が入っていれば駅のコインロッカーに預けていた荷物を取り出して、待ち合わせのホテルへと向かう。愛好者のそういったネットワークがあるようで、客はそこそこについていた。


 ホテル以外では決して会うことはない。

 この時間のあたしは、この時間にしか存在してはいけない。わたしはあたしであって、わたしではなくなるのだから。


 フロントでキーを受け取る。

 部屋に入るとシャワーを浴びて、下着と服を着替える。

 今日は、初めて予約をいれてきた客。

 上下、黒の下着。それと白いブラウスに、黒のタイトスカート。ベージュのストッキングに黒いピンヒール。それが相手の注文だった。


 待ち合わせ時間ぴったりに現れたのは、三十前後の男。

 身長は低くもなく、高くもなかった。わりと細身のスーツ姿。

 

 「……どうぞ、入って」


 男はあたしの全身に視線を這わせた。それから緊張しているように、すっと視線を逸らす。

 あたしの後ろを、おずおずとついてきたかと思うと、上着を脱ぎもしないでいきなり抱きすくめられた。

 

 「……あたし、オプションにお触りないけど」


 威嚇のために声に険を込める。

 最初のうちは、こんなときにはどうしたらよいのかと驚き、戸惑っていたが、今はもう、慣れていた。

 いざとなれば急所を蹴り上げて、逃げ出す覚悟もできている。

 

 「……すみません。料金はお支払いします。あの……ほかのことはいいので……このままでも……いいですか?」


 絞り出すような囁き声は、熱に浮かされて震えていた。頬にかかる息が熱くて、荒い。


 「このまま……って? ただ抱きしめているだけっていうこと?」


 「はい……。そうです」


 「……」


 ただ、それだけなのだろうか。

 本当にそれだけなのなら、楽でいい。なにもされないのなら。


 「あの……だめですか?」


 「それだけなら……いい、けど。だけど、そうじゃないなら」

 「それだけです」


 男は返答を遮って、きっぱりと言いきった。

 

 「じゃあ、いいわ……」


 初見の相手だ。普通なら信用などしない。

 それなのに、あたしは肯いた。

 男の返事は確信めいた響きをもっていたから。


 男はそれから九十分間、ベッドの上で本当に、あたしをただ抱えていただけだった。身体のどこをも、わざと触ろうともしなかった。

 ブラウスに顔をうずめて、ときに息を深く吸い込み、ときに荒げ、ときに泣いているように呼吸をすすった。

 正面から背中に手を回したり、膝の上に乗せたり、背後から抱きしめたり。ゆるく、強く、体勢を変えながら。だけどその間も男は、なにも自分のことを話さなかった。

 奇妙な男だとは思ったが、彼はなんだかいい匂いがした。香水だろうか。

 接触した肌と衣服を通して、伝わる熱と心臓の鼓動。

 他人の熱と音と匂いに触れたのは、ずいぶんと久しぶりのことのように思えた。

 



 それから彼は多いときには週に二回、少なくて月に三回ほど、予約を入れてきた。

 相変わらずにただ、あたしを抱きしめているだけ。抱き枕でも抱えていた方が安く済むでしょうに。という軽口にも、それじゃあ、意味がないから。と、答えるまでの仲にはなった。


 抱えられているだけ。服も脱がない。それは確かに楽だった。

 見ず知らずの赤の他人と触れ合う肌を(いと)う人間もいるだろう。でも、あたしにとっては、身体はただの容れ物に過ぎない。本当のあたしは頭蓋骨のなかにいる。それは誰にも侵せない。 


 注文は最初から変わらなかった。黒の下着の上下。白いブラウスに黒のタイトスカート。ベージュのストッキングと黒いピンヒール。

 それがなぜかは訊かない。あたしがなぜこの商売を続けているのかと、訊かれるようなものだからだ。

 意味はある。そして、ない。


 彼以外の客があたしに求めるモノ――鬱屈されたストレスの発散、または理解されない欲求の発露。

 それを彼は求めなかった。違う形で求めたそれが、彼にとってのモノだったのかもしれない。


 「あたし、S嬢だよ。忘れているかもしれないけど」

 

 なにもしなくていいのだろうか? という意味を込めて、最初のころに訊いたことがある。


 「これは、つらい?」


 彼の返事は答えにはなってはいなかったが、なにもしなくていいということは理解できた。

 

 




*****


 

 彼とのあとは、薄ら寒い、あの感じを覚えない。

 ただ抱えられているときに、ときたま、うとうとと、浅く眠ってしまうことがある。

 そんなときには物足りないような、ほっとするような熱が、肌の奥にちりちりと残る。その熱は薄ら寒い感覚よりも、性質(たち)が悪いような気がしている。



 彼はずっといい匂いがしていた。最初は香水だと思った香りは、彼自身から発せられる体臭だった。


 人間の遺伝子は種を存続させるために、自分とは違う、遠い遺伝子を選ばせると、高校の生物の教師が話していたのをよく覚えている。それを解らせるのは匂いだ、と。好みの匂いほど遺伝子が遠いらしい。

 教室の後ろで誰かが言った。「なんか、動物みたい」。そうだ。人間は知能が進化しただけの、ただの動物なのだ。本能には抗えない。だから、あたしも商売ができる。


 抱えられている間は、ずっとその匂いを嗅いでいる。

 熱と鼓動と匂い。混じりあって、日常が熔けてゆく。

 ひょっとしたら。

 彼の初めての日にあたしを抱きすくめたのは、あたしの匂いを確かめるためだったのかもしれない。



 セットしたタイマーが(とき)を告げる。


 彼の腕が背中からほどけた。そのあとの肌を空気が晒す。熱が逃げてゆくのがわかる。

 

 「転勤になるかもしれなくて」


 ワイシャツの首もとの釦を嵌めてネクタイを結び直しながら、ぽつりと言った。

 ベッドサイドの、橙色の灯りだけの部屋の中。

 崩れた髪を鏡の前で梳かしていた指をとめる。よく磨かれた鏡面に写り込んだ彼と視線が合う。そう、と返事をした。


 「異動になったらたぶん……もう会えない、かな」


 それを聞いたとたんに、あたしの中の、なにか得体の知れないどす黒く、よくわからない感情が一気に沸き上がるのを感じた。まるで、真夏の強い太陽に照らされた積乱雲のように。


 髪を結ぶのを途中で諦めて振り返る。


 「会えない? そうじゃなくて、あたしを買えないの間違いでしょう?」


 一瞬、あっけに取られたような表情(かお)をした彼は、小さく、「……そうだね」と呟いて。ゆるく唇をあげた。

 それはどんな意味を持つ?


 時間と癒しを買った女。その女にどんな感情を持つのが正しいのか。知らない訳がない。生憎と、世間知らずなお嬢様はとっくに卒業している。喩え、どんなにあなたからいい匂いがしていても。


 「すこしは、淋しいと思ってくれるかなって……」


 ばつが悪そうに彼はうつむく。

 

 あたしになにを言わせたいのか。

 あたしがなにを言えば、満足するというのだろうか。

 

 なぜ、あたしに言わせようとするのか。


 これは、どんな感情? 怒り? 失望? 哀しみ?


 ああ……ほら、ぞくぞくと薄ら寒い。

 

 「そうね……淋しい。とても、とてもね」

 

 強く見据えながら微笑んだ。

 とてもとても極上に。

 

 忘れていたのかもしれないけど、あたしはあなたが買ったS嬢。

 痛めつけることが、お仕事なの。


 





*****



 「鈴木さん、この書類、急ぎで出してきて」


 「はい」


 主任から渡された封筒をクリアファイルに挟み、手提げに入れる。


 「悪いね、頼むよ」


 主任は顔の前で軽く両手を合わせて拝むと、コーヒーを取りに行った。隣の席の佐藤さんがすいっと椅子を寄せてくる。


 「今どき郵送なんてね。あそこも早く電子化してほしいよね。っていうかさ、コーヒー飲んでる時間があるなら自分で行けばいいのにね」


 「まあでも、散歩がてら、いい息抜きにもなりますよ」


 当たり障りなく、そんな返事をすると、まったくいいコちゃんなんだから、だから主任、いつも鈴木さんに頼むのよ、と笑われた。


 じゃあ、行ってきます。そう言って席を立つ。行ってらっしゃーい。と、後ろから佐藤さんの声が追いかける。



 郵便局は会社から歩いて五分。大通りの歩道橋を渡ってすぐの場所にある。


 いくばくかの桜の花びらが歩道橋の隅に落ちて、薄汚れて朽ちているのが目についた。

 どこかで散り残った花びらが、風に運ばれてここまできたのだろう。

 腕時計を見て、時間を気にしながら足早に歩くサラリーマン。幼い子どもを連れた母親。のんびりと散歩をしているような老夫婦。制服のようなかっちりとしたスーツとパンプスの女性。その中に混じったわたし。


 ふと、鼻腔をあの香りが抜けたように感じた。


 アカウント名は知っていても、名前も知らない男。あたしを抱えるだけの男。あたしの好きな体臭をもつ男。あたしを、買った男。


 あの夜。

 あたしは男の望みを壊した。

 いや……それこそが実は、彼の望みだったのかもしれない。

 非日常なあたしと男の関係は、だからこそのものだった。それを超えて繋がっていられるはずがない。

 夢は目が醒めるからこその、夢なのだから。


 痛めつけることが、お仕事。

 痛めつけるには、相手の痛さを知らなければならない。

 だから、あたしも痛さを知ることが必要。

 ちょうどよい痛さは気持ちがいい。

 あたしはそれを、心得ている。


 目の前を、いち枚の花びらがひらりと落ちてゆく。

 そのとき、春特有の強い風が吹きつけた。

 髪を押さえて、とっさに目を閉じる。

 風が抜けて目を開けたときには、花びらは風に乗って、またどこかへと運び去られていた。


 なんの気なしにふと、空を見上げると。

 歩道橋の上には、薄い水色の春の空が広がっていた。


 手提げに入れていたスマートフォンから、メッセージを受信した音が鳴る。

 『チョコがきれちゃった。コンビニでなにか甘いものを買ってきて。お願い』

 佐藤さんからだった。佐藤さんの机の引き出しの中にはいつも、個包装のチョコレートが入っていた。お茶の時間に、よくもらう。

 

 「佐藤さんは、甘党ですよね」


 そう呟くと、なんだか急に可笑しくなって、ふふっと笑う。

 佐藤さんには今日は特別に、新作のチョコレートでも買っていってあげよう。


 スキップでもして走りだしたい気持ちを我慢して、唇をきゅっと引き締めた。

 うきうきとした足取りを隠しながら。また、行き交う人に紛れて、郵便局へと歩き出す。

 

 


 

 

 

 






この作品は、とある作品に刺激を受けて描いたものです。

投稿を快く承諾してくださって、ありがとうございます。

心よりお礼を申し上げます。

↓にリンクがあります。

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