鬼火
近付いて来た気配は、柚月の直ぐ真後ろに立つと、何をする訳でもなく、ただ黙って柚月を見下ろしている。
その視線に敵意を感じない事から、敵ではなさそうだと、柚月は恐る恐る首を回して背後に視線を移動させる。
だがあと少しで相手の姿が見える場所まで振り返ると、廊下に別の気配が現れた。
ミシ…ッと床を踏む音から察するに、新しくやって来た人物も一人の様だ。
仲間だろうかと、警戒しながら二人の動きを気にしていると、最初に近付いて来た人物が高く飛び跳ねた。
その気配は天井へ溶ける様に消え、その直後、襖が開いて道真が姿を見せた。
「…おっと…、思った以上に香が焚き染められてんなぁ」
室内に入って来た道真は、そう言うと口元を腕で隠しながら柚月の前に回り込んで来る。
どうやら、先客がいた事には気付いていない様だ。
だったら今の侵入者は何者だったのかと考えを巡らせるが、その思考は道真によって中断させられた。
「待たせたな、やっと準備は全て終わったぜ。お前の出番だ」
「…出番…?」
考えられる事は、生贄の儀式しかないが、敢えて聞き返すと、道真は大袈裟に驚いて笑って見せる。
「ぎゃはは!!分かっているくせに、知らねぇふりかよ…!!」
やはりか…、と口惜しさに唇を噛むと、道真は柚月の耳元に顔を寄せて来た。
「五日後だ」
「い…五日?」
「あと五日でちょうど満月。血に濡れた儀式をするには相応しい夜だ」
血に濡れた儀式という道真の言葉に、改めて命の危険が迫っているのだと実感する。
詳しい儀式の内容を教えられていない分、その恐怖は何倍にも増す様だった。
恐ろしい儀式を、自分で想像して身震いする。
すると道真は待ちきれないとでも言う様に、上手く身体を動かす事の出来ない柚月の頬に舌を這わせた。
「ッ!!」
おぞましさに声にならない悲鳴をあげてしまう。
そんな柚月を見下ろすと、道真は柚月の左胸に手を伸ばした。
「!?」
まさか襲われるのかと身体を固くすると、道真は乳房ではなく、その下に指を当てた。
「生贄として、生きたままお前の心臓を取り出す…」
「…え!?」
聞き間違えだろうか。
今、生きたまま心臓を取り出すと聞こえた。
真っ青な顔で道真を見るが、その顔に浮かぶ残忍な笑みが、聞き間違えではないと暗に語っていた。
「い…生きた…まま…?」
「そうだぜ?お前は生きながらにして、心臓を抉り取られる…。こんな興奮する儀式はそうねぇよなぁ!!」
そう愉しそうに言いながら、道真は柚月から離れた。
「はぁー、楽しみでしょうがねぇよ…!想像を絶する激痛だろうなぁ、苦しいだろうなぁ。その顔はどんな風に歪むんだ?!どんな声で叫んでくれるんだ…?!」
「う…」
「ク…ッククク…アハハハ!おい、今どんな気分だ?生きたまま心臓を抉られるって聞いて、今どんな気分だよ…?!」
「…ッく、…はー…ッ」
この男の笑い声を聞いているだけで、自分まで狂ってしまいそうになる。
柚月は心痛に顔を歪めながら、深呼吸を繰り返した。
自然と涙が溢れてくる。
この涙は命を奪われる事への恐怖なのか、それとも自分は何も出来ないのだという情けなさからなのか。
理由も分からぬまま、ただただ感情が高ぶり、柚月は溢れる涙もそのままに、嗚咽を漏らした。
その間、部屋に充満する香の匂いが強くなっている事に、気が付かなかった。
政宗の元に、柚月の居場所を探りに行かせた斥候…忍が戻ってきたのは、出発してから実に数日後の事だった。
普段なら、どんな隠密任務も直ぐに終えて戻ってくる、優秀な忍である。
その事からも、今回の火焔城攻めは相当難しいものになる事が予想出来た。
「じゃあ確かに柚月は火焔城にいるんだな?」
「はい、確認しました。可笑しな紋様が画かれた室内に寝かされており、どうやら生贄と言うのは本当の様です。それに…」
そこまで言うと、忍は言いにくそうに口を閉じ、目を泳がせる。
政宗は眉をひそめると、何だ?と話の先を促した。
「…香が…部屋で焚かれていたのですが、おそらくあの香…身体や精神に異常をきたす類いのものかと」
「…香…だと?」
忍の予想が外れていないとするならば、その焚かれていた香と言うのは、海の外から入ってきた物だろう。
「どんな物かまでは分かりません…が、使われている事は確かかと思われます」
「ちきしょう…!!」
予想以上に切羽詰まった状況の様だ。
例え儀式の前に柚月を取り戻したとしても、薬で心が壊れてしまっている可能性がある。
その危険性は、時間が経てば経つ程に高くなるだろう。
(猶予はねぇ…)
命さえ無事なら、いつでも取り戻せると思っていたが、そうもいかない様だ。
政宗は事態の重さを再確認し、奥歯を噛み締めた。
事件が起こったのは、柚月が道真から生贄の儀式の内容を聞いた翌日だった。
その日の早朝、に来てからと言うもの、毎日の様に行われる御祓の為、いつもの湖へ来ていた。
おそらく香のせいだろうが、頭は朦朧とし、身体には全く力が入らない状態だった為、正確には湖まで兵士達に運んで来られた、という形だ。
まさかこんな状態で湖へ入るのか、と思っていたが、どうやら今回は御祓ではないらしく、いつも湖のほとりで祷りを捧げている女の姿が見えない。
何故連れて来られたのかと思っていると、兵士達は柚月を湖ではなく、湖の先にある小さな木屋へと連れて行く。
「な…に?」
一体何なのだと、震える声で聞くと、兵士達は柚月を木屋へ閉じ込め、お互いに頷き合う。
この期に及んで、まさか強姦か…と、諦め混じりに笑うと、兵士の一人が柚月に小さな小瓶を差し出した。
「…?」
意味が分からずに小瓶を見つめると、兵士は小瓶の蓋を開け、柚月の口に中の液体を注ぎ込む。
「…ん…ぐ」
予定が変わり、毒でも飲まされたのかと吐き出そうとすると、兵士は柚月の鼻と口を手で押さえた。
「…!!」
苦しさで、必死に空気を吸い込もうとするが、鼻も口も塞がれており、呼吸が出来ない。
助けを求める様に兵士を見るが、兵士は無表情のままだ。
(駄目…、苦し…息が…)
もうこれまでか。
毒を飲もうが、窒息だろうが、身体が思うように動かない今の状態では、逃げる事は出来ない。
せめて一矢報いてやろうと思った時だった。
口の中に入っていた液体が喉の奥に流れ込み、柚月は反射的に飲み込んでしまう。
静かな木屋の中に、喉が鳴る音がはっきりと聞こえる。
柚月が小瓶の中身を飲み込んだ事が分かった兵士達は、急ぐ様に立ち上がった。
「…待っ…」
飲んだ毒のせいなのか、喉が火がついた様に熱くなり、上手く話せない。
兵士二人は、そんな柚月を見下ろしており、何のつもりなのかと聞こうとした直後、柚月の意識は闇に溶けた。




