女の本懐
時は少し遡り、柚月が湖で御祓をしている頃。
奥州で片倉小十郎に敗れた羅刹女が、火焔城へ到着していた。
脇目もふらずに平天大聖の元へ駆け付けると、羅刹女は佇まいを直して深く頭を下げる。
「牛魔王様…ただいま戻りました」
そう言って、頭を下げたまま平天大聖の言葉を待つと、頭上から感情の読めない声が聞こえる。
「…羅刹女…どう言う事です?」
奥州での敗北の事を言っているのだろう、平天大聖は短く言い捨てる。
「申し訳ありません…」
「まぁいいでしょう、最初からあてにはしてません」
「……」
「それより、何の用があって此所へ来たんですか?」
「…火焔城へ向かった道真からの連絡が途絶えたので、牛魔王様に何かあったのかと…」
「はぁ、そうですか。見ての通りです」
そう言うと、平天大聖は用はないとでも言う様に背中を向ける。
羅刹女は緊張で生唾を飲み込むと、その背中に声を掛けた。
「牛魔王様、此度の生贄の儀…その、取り止めには…」
そこまで言った羅刹女は、振り返った平天大聖の冷たい視線に息を飲む。
やはり聞き入れては貰えない。
自分の意見など、この方には必要ないのだ。
「聞かなかった事にします、下がりなさい」
「…はい」
羅刹女はこれ以上の問答は、さらに平天大聖の気分を害するだけと、頭を下げて部屋を出た。
羅刹女から離れたとたん、息苦しさから解放された気がするのは、気のせいではないだろう。
いつまで経っても、あの威圧に慣れる事はない。
特に指輪を手に入れてからの平天大聖は、前にも増して、意欲的に勢力を拡大する様になった。
その際の残忍さは、今までとは比較にならない程だ。
以前は戦をする事も、農民を殺す事も、勢力拡大や一揆鎮圧など、はっきりとした目的があった。
だが今はどうだ。
目的と手段を間違えているのではないかと思える。
今の平天大聖はまるで、殺す事が目的の様ではないか。
殺す事はあくまでも、天下をとるの為の"手段"であり、決して"目的"ではない。
「牛魔王様…」
羅刹女はかすれた声で呟くと、胸元で手を握った。
もともと羅刹女が平天大聖に嫁いだのは、自ら望んだ事ではない。
いわゆる政略結婚であり、平天大聖との間に情はなかった。
だが嫁いだ以上、自分は魔王の物。今後何があっても、平天大聖に全てを捧げて生きていく覚悟を決めた。
勿論それは、嫁いだからには…という覚悟や、諦めからではない。
羅刹女自身が、平天大聖の魅力に惹かれたからだ。
平天大聖には、穏やかな性格ながらも、人を惹き付け心服させる圧倒的な威厳と頭の良さ。
そして非凡な統率力と指導力があった。
それに出会ったばかりの、まだ優しかった頃の牛魔王。
その全てが羅刹女を魅了していたのだ。
今、平天大聖に心酔し、全てを捧げて付いて行っているのは、昔とは違い、自分自身の為でもあった。
心も身体も、魂に至るまでの全てを、愛した男に捧げて生きるのは、女としての本懐である。
だが今の平天大聖には、以前の魅力がなくなってきているのだ。
全ては、あの指輪を手に入れてから。
(あんな物があるから…)
陰陽師の言う通り、あの指輪に不思議な力がある事は確かだろう。
自分の愛する平天大聖は、指輪の力に囚われ、変わってしまったのだ。
だとしたら、指輪さえ無くなれば、平天大聖も目を覚ますのではないか。
指輪に何かあれば、平天大聖はきっと自分に落胆するだろう。嫌われてしまうかも知れない。
だが、このまま指輪を平天大聖の元へ置いておく訳にはいかない。
羅刹女はちらりと背後の襖に目を向けた。
襖を挟んだ奥にいる平天大聖は、今何を考えているのだろうか。
(牛魔王様…私が必ず…、私の愛した貴方に戻してみせます)
今自分がやるべき事は、奥州攻めでも、生贄の儀式でもない。
羅刹女は、この火焔城の何処かに奉ってある指輪を盗み出す決意を固めた。




