Even
柚月が小十郎の視界から消えたのは、ほんの一瞬の事だった。
紅孩児から意識を逸らさず、それでも柚月を必ず視界の中に捉えていたはずだった小十郎は、柚月が居たはずの場所を見て心の臓が凍り付いた様な錯覚に陥る。
今思い返しても、柚月の周りには誰も居なかったはず。
それでも柚月の身体は気が付けば宙に浮き、瞬きの間にその姿は消えていたのだ。
一体何が起こったのか。
目の前で柚月を拐われ、動揺した小十郎が思わず紅孩児から意識を外すと、紅孩児はその隙を逃さず小十郎の刀から抜け出して飛び跳ねた。
身軽に廊下から庭へと踊り出ると、形勢逆転と言わんばかりに小十郎に向けて弓を構える。
「へへーん、残念だったねー」
わざと怒らせ様とでもしているのか、紅孩児は小十郎に向かって笑いながら舌を出した。
その小馬鹿にする様な仕草に、小十郎は顔を歪めながら、手にした刀の束を握りしめた。
落ち着け。
先ずは状況を整理しなければならない。
拐われた柚月の事は勿論だが、道真と刃を交えているであろう政宗の事も気掛かりだ。
柚月をこの場で殺さず、拐ったという事は、今はまだ生かしておく必要があるという事。
ならば先ずやるべき事は、目の前にいる敵を片付ける事だ。
やるべき事と順序を誤ってはいけない。
焦りで頭に血がのぼりかけていたが、小十郎が何とか冷静さを取り戻すと、紅孩児は弓に矢をつがえた。
「後はお前を殺すだけだ!」
既に勝った気で余裕を見せている紅孩児を睨むと、小十郎は小さく口を開いた。
「…今のは平天大聖の忍ですか」
「そうだよ、母様が僕にくれたんだ」
自慢気にそう言うと、紅孩児は弓を小十郎に向けたまま、楽しそうに夜空を見上げる。
「これで父様の天下だ、父様に褒めてもらえるぞ!」
「…?待ちなさい、なぜ柚月様を拐えば魔王の天下になるのです、柚月様は関係ないでしょう」
「あぁーあ…、お前ってほんとに何も知らないんだな。しょうがないから僕が教えてあげるよ。母様が言ってたんだ、指輪の持ち主の命を使って、父様はこの世の全てを手に入れるって」
「今、命…と言いましたか?」
ぴくりとこめかみが動く。
攫った理由が命を奪う為ならば、あまり猶予はない。
「生贄だよ、あのお姉ちゃんは父様の為に死ぬんだ。光栄だろ?」
「馬鹿も休み休み言いなさい。まさか生贄で天下が取れると本当に思っているのですか?」
呆れた様にそう言うと、紅孩児は不快感をあらわに睨んでくる。
「何だよお前…、父様を馬鹿にするのか?」
その目の色は、余裕から怒りの色へと変わっている。
ピリピリと肌を刺す様な気当たりに、小十郎が気を引き締めた直後、紅孩児は一気に数本の矢を放って来る。
だが怒りで冷静さを無くした攻撃はひどく出鱈目で、小十郎は難なく避けると紅孩児に向かって飛び跳ねた。
着地ざま、袈裟懸けに斬り掛かると、紅孩児は焦った様に弓を使って刀を防ぐ。
だが一度距離を縮めてしまえば、こちらのものである。
弓とはあくまでも遠距離用の武器であり、近距離での戦いには向かない。
さらに言えば小十郎と紅孩児には、まさに言葉通り、大人と子供程の力の差があった。
紅孩児は小十郎が近付く前にもっと距離を取り、遠くから戦うべきだったのだ。
「卑怯だぞ!!僕は子供なのに、手加減しろよ!!」
「分が悪くなった途端に子供を武器にするとは…卑怯はどっちですか」
情に訴えてくる紅孩児に冷たく言い捨てると、小十郎は刀を捻り、弓を弾き飛ばす。
「あッ!!」
弓が手から離れ、弧を描きながら飛んでいくと、紅孩児は真っ青な顔で小十郎を睨み付けた。
だが明らかに虚勢であり、睨み付ける目に力はない。
小十郎は紅孩児の首に刀をあてると、ふぅ…と息を吐いた。
「さぁどうします?命乞いでもしますか?」
これは問い掛けと言うよりも希望に近い。
いくら敵でも、年端もいかぬ子供を斬りたくないと言うのが本音だった。
助けてくれ。
そう一言でも言えば、命までは奪わないつもりだったのだ。
だが紅孩児は命乞いどころか、小十郎の真意などお見通しと言いたげに座り込み、両手をひらつかせた。
「殺せば?…殺せるなら」
「…何ですって?」
「殺せないだろ?僕はまだ子供だぞ、子供を殺せるのかよ」
飄々とし、全く罪悪感など感じない言葉に眉をひそめる。
さすがは魔王の子と呼ばれるだけはあるという事か。
つい先刻まで、人の命を狙っていたとは思えない、ふてぶてしい態度だ。
いくら子供とはいえ人の命を奪う以上、同じく命を奪われる可能性もある。
はたしてその現実を教えてやるのが正しいのか、それとも…。
小十郎は迷った挙げ句、小さく首を振った。




