決戦前夜
その日の夜。柚月は眠れないまま、庭で朧月を見上げていた。
温度は低く空気は冷たいが、風が吹いていないせいか、堪えられないほどの寒さは感じない。
平天大聖軍が進軍を始めた時期と規模から、明日の日中には、先発隊が奥州に到着すると小十郎は言っていた。
上手く行けば、指輪を取り返す事が出来、今夜が政宗とゆっくり過ごせる最後の夜になるかも知れない。
当の政宗と言えば、戦の前夜にまで女の元を訪ねてくるとは思えず、今夜は一人きりの夜になるだろう。
政宗どころか、小十郎や兵士達は、眠る事すらせずに平天大聖軍の攻撃に備えているはずだ。
こんな所で一人でのんびりしていて良いのかと、ふと疑問がよぎる。
だが手伝おうとした所で、自分に出来る事は何もなく、柚月は溜め息を吐くと、懐から簪を取り出した。
政宗に初めて貰ったこの簪は、柚月の宝物である。
髪に挿す訳でもなく、それでもいつも持ち歩いていた。
「政宗…」
吐息の様に囁いた声は誰に届く訳でもなく、月明かりの照らす薄闇の中に消えていく。
気が付けば、月を覆い隠していた雲は晴れ、綺麗な満月が顔を見せていた。
「…満月…」
この世界に来て、満月を見るのは何度目だろう。
それだけの月日をこの世界で過ごしているのだと思うと、思わず苦笑してしまう。
飛ばされて来た時はどうなる事かと思ったが、此処での暮らしも悪いものではない。
全ては政宗のおかげなのだろう。
(…政宗、天下統一出来ると良いね)
そんな楽しい事だけを考えて、嫌な事は考えずに過ごそう。
そんな事を考えていると、みし…と足音が響いた。
「…?」
誰か来たのかと廊下に顔を出して辺りを見回すが、庭は勿論、左右の廊下にも誰もいない。
気のせいかと首を傾げる柚月の耳に、再びみしり、と音が響いた。
「…政宗?」
この離れにやって来るのは殆どの場合、政宗だけだが、いつもの聞き慣れた政宗の足音とは異なる。
「…誰?小十郎さん?」
違うと解っていながらも、敢えて祈る様に名前を問い掛けると、低く笑う声が耳に届いた。
「…ぁ…」
この心臓を凍り付かせる様な笑い声は聞いた事がある。
いつでも逃げられる様に体勢を変えて目を凝らすと、暗闇に慣れた目が一人の男の姿を捉えた。
「ぁ…あ…」
近付いて来た人影の姿を見て、余りの衝撃に絶句する。
それもそのはず。
暗闇の中から姿を見せたのは、厭らしい笑みを浮かべた赤い髪の死神、菅原道真に違いなかったからだ。
「よぅ、夜這いに来たぜ」
「な…何で…ここ…に…、平天大聖軍が到着するのは明日の日中だって…」
「それは先発隊だろ?俺一人なら、忍び込むくらい朝飯前だ」
目の前の事が信じられないと言う様に首を振る柚月にそう言うと、道真は辺りを見回した。
「あまりゆっくりしてるとまた邪魔が入るからな、とっとと済ませるか」
「来ないで…!そ…それ以上近付いたら、大声だすから」
近付いて来る道真から一歩離れ、精一杯に強がりを言うと、道真は大袈裟に困ったふりをして見せる。
「おっと、そりゃ困ったなー。誰か駆け付けて来たら、そいつも殺さなきゃならねぇなぁー。困った困った」
「…ッ!」
「面倒な事させんなよ?雑魚なんか斬っても愉しくねぇからな」
そう言った道真の声と表情からは、本当はどうでも良い…という雰囲気がありありと分かる。
誰かが駆け付けて来れば斬るし、来ないならこのまま柚月を拐って行くつもりなのだろう。
実際大声を出せば、離れに詰める兵士達が集まって来るだろうが、道真の恐ろしさを身を以て知っていた柚月は、声を出さずに俯いた。
(…駄目。人なんか呼んだら、皆確実に殺される…)
自分のせいで誰かが死ぬなんて真っ平だ。
だが今此処で捕まる訳にもいかない。
何とか隙を見て逃げ出そうと様子を窺うと、道真はつまらなそうに空を仰いだ。
「なーんだ、呼ばねーの?呼べよ、ったく興がさめるぜ…、人間っつーのは、他人を犠牲にしても生き延びたい醜い生き物だろ?俺はそんな人間が大好きなんだよ」
「…あんたに好かれても嬉しくないけど」
心底コイツが嫌いだ。
柚月は改めてそう思う。
菅原道真という男は、人間の闇とエゴを具現化した様な悪意の塊。
人間の悪意が集まって人の姿を形作ったとしか思えない。
顔を見ているだけで吐き気がし、嫌悪感を隠さずに睨むと、道真は嬉しそうに舌なめずりして見せた。
「怖い顔すんなよ…」
「寄らないでよ!ひっぱたくから!!」
「おー、怖い怖い」
楽しんでいるのか、道真は怖いと繰り返しながら、一歩一歩とゆっくり歩み寄ってくる。
「お前のその強さに惚れたのか?独眼竜は」
「…は?」
「独眼竜は随分とお前にご執心だとか…、尻に敷かれるのが好きなのか?」
「な…何を…」
「心底惚れた女がめっちゃくちゃにされたら、あいつどんな顔をすっかな?」
そう呟いた道真の恍惚とした表情に、柚月は背筋がゾォっと総毛立つ。
「来ないで…来るな…」
「そう邪険にすんなよ、俺だって傷付く心があるんだぜ?」
伸ばされた手を払い退ける様に腕を振るが、その腕は簡単に道真に掴まれ、柚月は恐怖に顔を青ざめさせた。
「いやだ…ッ」
掴まれた腕を引かれ、廊下に転ぶと、道真が馬乗りになる様に上に覆い被さって来る。
「さぁて…どうしてやろうか?惚れた女が切り刻まれて、ただの肉の塊になって積まれてたら、超興奮するよなぁ?」
そう呟くと、道真は刀をゆっくりと振り上げた。




