第7話「顧問・菜々緒の本気」
土曜日の午前、まだ眠気の残る音楽室に、静かな緊張が流れていた。
この日は“顧問指導の日”。
普段は温和な空気が流れる吹奏楽部も、この日ばかりはピリッと張り詰める。
部員たちが楽器の手入れを終えた頃、音楽室の扉が静かに開いた。
現れたのは、白いパンツスーツに身を包んだ女性――菜々緒先生。
背筋を伸ばし、ヒールの音を響かせながら、一歩一歩と前へ進む。
「さて、今日は基礎を徹底的にやるわ。ごまかしは許さないから、そのつもりで」
その言葉に、部員たちの背筋がさらに伸びる。
梨奈もまた、楽器を手にして前列の一角に立っていた。
隣にいる彩乃が小声で囁く。
「今日の先生は……ガチで“プロモード”だからね」
「……うん」
菜々緒は一人ひとりの姿勢、指の角度、口の形、呼吸の流れまで細かく見ていた。
そして、細い竹の指揮棒を掲げて言った。
「全員、8拍のロングトーンから。梨奈、あなたから始めて」
突然の指名に、音楽室の空気が一瞬止まる。
梨奈は小さくうなずき、クラリネットを構えた。
深呼吸。
そして――息を吹き込む。
……プゥォーーーーン……
音は震えていた。
息が浅く、支えが弱い。だが、懸命だった。
「ストップ」
菜々緒の声が飛ぶ。
「今の音は“正しい音”じゃない。技術以前に“覚悟”が足りないわ」
ピシリ、とその言葉が胸に刺さる。
「音は、あなたの想いがそのまま形になる。自信がない、恥ずかしい、失敗が怖い――そういう雑音は全部音に出る。そんな音は、客席の心まで届かない」
梨奈は黙ってうつむいた。
それでも、心の奥では不思議と涙はこなかった。
なぜなら――その言葉には、真正面からの“期待”が込められていたからだ。
「もう一度吹きなさい」
菜々緒の言葉に、梨奈はもう一度クラリネットを構える。
今度は、ゆっくりと、確かに息を整えた。
「私は、吹きたい」
そう、心で唱えながら。
……プゥーーーーン……
今度の音は、まだ完璧ではなかったけれど、どこか真っすぐだった。
「――それでいい」
菜々緒の声が、少しだけ柔らかくなった。
「間違っても、未熟でもいい。だけど、気持ちだけは真剣であれ。それが“吹奏楽部”の最低条件よ」
練習が終わる頃には、部員たちは皆、汗だくになっていた。
だが、どこか満ち足りた表情だった。
帰り道、梨奈は思った。
(菜々緒先生は、厳しい。でも……本当に、音楽を信じてる人なんだ)
そして彼女も、少しずつ“音楽を信じる勇気”を持ち始めていた。