欠落
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アンデルス・ブレーズ伯爵。かつて、先代のリフティスノーラ当主から領土の爵位を与えられた老人は、戦争において負けを知らない無敵の将として有名だった。
自身の武力もさることながら、何よりも冴えているのはその頭脳だ。戦においてならばリフティスノーラにも引けを取らぬと称される彼は、今までに幾度もの戦火を治めてきた。
………そんな彼の老人は、老人自身の秘密を知るものだけが呼ぶ別名がある。
それは”加虐候”。敵味方を問わず、幼い娘を拷問することを好むためにつけられたらしい。
有力貴族の中で、特に暗部に精通する者たちには公然の秘密であるこの行為は、当然犯罪なのだが加虐候の王国への貢献度を考えれば、生贄たる女児を定期的に差し出し、飼いならした方が余程効率的であるため、黙認されているとか。
私がそれを知ったのは、ここに来て半年がたった頃だった。それを私に教えてくれた子はもう、この世には存在しないのだが。
「餌の時間だ」
加虐候が地下室の扉を開き、牢屋の鍵を開ける。干し肉や干からびた林檎などを汚れた籠の中に乱雑に放り込むと、数人の女児の中から一人を選んで牢屋から連れ出した。
ここにいる数人の女児は、私と同じく捨てられ、売られたものだ。唯一私と違うのは、私は何も知らされずにここに押し付けられたが、殆どの子は知っていてここに来ているという点である。結局のところ、どちらが良いのかは分からないが。
籠から林檎を右手で掴み、部屋の隅に急いで移動する。左手は深い傷跡があり、まともに治療も施されていないため使おうとすると痛みが奔るので、使いたくない。
この傷痕は私が地下室から逃げ出そうとしたときについたものだ。犬を放たれ、噛み千切られた。結構最初の頃だと思ったが、もう時間間隔が曖昧なのでそれも間違っているかも。
顔を上げれば部屋に唯一ある姿見。その硝子に移るのは、割れた爪で林檎を掴む、髪の半分ほどの色が灰白に変色してしまっている、やせ細った女の姿だった。
「ぅぇ………」
死なないために必死に林檎を齧るが、喉を通らない。最近は殆ど食べることが出来ないのだ。
「ィ―――………?!!?」
牢屋の外から悲鳴が聞こえる。悲鳴というよりは、最後の瞬間の断末魔か。ああ、彼女はとってもいい子だった。食べ物が喉を通らない私の背中をよく撫でてくれた。
「つまらんな。次は貴様だ」
返り血に塗れた加虐候が別室から出てくると、牢屋を開く。そして、私を冷たく見た。
「来い、ゲテモノ」
牢屋を出て、血の匂いが漂う別室へ。拷問台の上にはぶちまけられた血液と汚物が、そして部屋の端には、適当に片づけられた女児の亡骸があった。
吐きそうな気持ちのまま、拷問台に座り、大人しく縛られると、先端にフックの付いた鎖に引っ掛けられ、滑車が回って宙へと吊るされる。
体重が掛かり、痛む腕に思わず苦痛の表情を浮かべると、加虐候は嗤った。
「今宵はこれを使ってみようと思ってな」
手に取ったのは棍棒だ。先端には黒い布が巻かれていて、何かの液体にその先端を漬け込むと、加虐候は火打石でそれに火をつけた。特徴的な匂い、燃え上がるそれは………。
「え………たい、まつ………?」
「人の肉を燃やすと良い音がするものだ。お前はすぐに悲鳴を上げるのが利点だからな、こういう実験には具合がいいだろう?」
「や………やめて、やめてくだ―――ッ?!ああああああああああああああああ!!!」
炎が肌を焼き、熱さと共に激痛が訪れる。それと同時に襤褸布が燃え、胸や背中が露出した。
そして、背や腹に刻まれた鞭や切り傷の痕が現れる。以前の拷問で付いた傷だ。そして今日も新しく、この身体に消えない傷が刻まれた。
「あつい!!あついよ、たすけて………!!!いやだ、ねえさん………ねえさん!!!!!」
悲鳴を上げ、振り乱した髪に火の粉が飛んで、髪を焦がす。いや、焦がすなどという表現を超え、燃え広がろうとした。膨れた炎、それは幸いにも全ての髪を燃やすことはなかったが、長かった私の髪は肩に届くか届かない程度の物になってしまっていた。
でも、私はそれに気が付かずに悲鳴を上げ続ける。加虐候は満足げにその悲鳴を聞いていた。
喉も枯れるほどに叫び、掠れた声しか出なくなるとようやく床へと降ろされる。
人肉の焦げた臭いにさらに吐き気が増す。右手の痛みで本当に吐くのは我慢できたが。
「姉さん、姉さんか………カカ、無意味な助けを乞い続ける貴様は、本当に無様で良いぞ」
「む………ぃ………み………え?」
「そうだろう?既に貴様の生家のリフティスノーラでは、貴様の存在は抹消されている。最初から存在しなかったことになっている。無論、存在しない人間など助けるられるわけがないだろう。は、実際その姉とやらも、もうお前など忘れているかもしれんぞ」
「忘れる………そんな、わけないです………だって、姉さんと大事な約束を………」
「約束など、覚えている筈があるまい。誠に愚かよな、ゲテモノ」
クツクツと嗤うと、加虐候は茫然と震える私を牢屋に戻した。
姉さんが、もう私を忘れている………?それが本当かは分からないけど、でもお父様やお母様は間違いなく、私なんて最初から居なかったというだろう。ならば。記憶が薄れる程、長い年月が経ったのであれば。
―――本当に私を忘れることだって、大いにあり得るだろう。
茫然としたままもう一度、鏡を見る。火によって金色の髪が無くなっていた。あの約束をした月夜の晩に、姉さんが好きだといってくれた金色の髪が。
その髪の色はもう戻らない。罅割れた心に、先程の子の断末魔が共鳴する。
「ああ………そっかぁ………私、勘違いしてたんだ………」
ずっと痛かった胸を抑える。この薄暗い部屋で、私はようやく悟った。
「幸せになれるかな、なんて………思っちゃいけなかったんだ………私は、幸せになっちゃいけない人間だったんだ………」
黄金の瞳から一筋、涙が墜ちて、それっきり。もう、私の瞳が涙を流すことはなくなった。
痛いのは嫌だ。辛いのも嫌だ。もちろん悲しいのも嫌だ。でも、私は喜んじゃいけない人間だ、楽しいという感情を持ってはいけない人間だ。幸せになんて、なれない人間だ。
期待してはいけない、願ってはいけない、欲しがってはいけない。なんだ、そうか。とっても単純なことだった。思いなんて持っていなければいいんだ。
………この感情を、心を捨ててしまえば、もう何も痛くないのだから。
もう、胸の奥は痛くなかった。そのかわりにとっても大きな空洞が出来たような感覚だった。
そういえば。姉さんが似合うといってくれた笑顔の浮かべ方って、どうやったんだっけ。




