呪いの幕引き
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翌日。まだステラ様の傷が癒えていないため、相も変わらずに窓掛が締め切られた屋敷の中を、全身に包帯が巻かれた少女が歩く。
手に持った蝋燭台を淡く写し込む、普段は無感情に見える片方だけの瞳の奥。そこに今だけは静かな熱量を湛えていた。
「失礼いたします。フェレイラ様はこちらに居りますか」
「………ええ、います。何か用ですか、フラヴィア」
食堂の扉を開き中へ。実際は執事長に居場所を聞いていたため。わざわざ確認する必要はないのだが、ここでは敢えて言葉に出した。朝食を終え、少し食後の休憩を取っている所であったらしいフェレイラ様は、不機嫌そうに私を睨む。
「少々お話が。ステラ様の傷の件についてなのですが」
「それなら別の医者を手配しています。今更あなたに何かを聞く必要など―――」
「いいえ。治す方法ではなく、ステラ様の傷が出来た原因と方法についてです」
そういいながら、私は左腕の包帯を解く。裂傷痕の合間に、ステラ様の顔に出来ているものと全く同じ傷痕が存在することを見て、フェレイラ様は言葉を切った。
「ただし。それをお話する前に、一つだけ別の話をして頂きたいのです。この傷についてはもしも私の願いが叶ったのであればその時に、必ず」
「………いいでしょう」
「では、場所はフェレイラ様のお部屋にてお願いします」
「最初からそのつもりです。何について話をするつもりなのかは分かりませんが、貴女は二人だけで話がしたいのでしょう。ならば私の部屋しか選択肢はありません」
「お心遣い、感謝します」
わざわざ名指しでフェレイラ様を指定した時点でそう推測されるのは予測していた。否、寧ろそう思ってもらわなければ困る。
「ヒルメル様。奥様をお借りします」
「ああ、うん。………あまりいじめないでやってくれると嬉しいな、フラヴィア嬢」
「はい。善処いたします」
口を挟まず、私たちをじっと見ていたヒルメル様に一言断ってから、私たちはフェレイラ様の自室へと向かう。途中でウォーレンさんとすれ違った。
「ああ、フラヴィア。俺はもう荷物を纏めたぞ。お前も早くやっとけよ」
「はい。分かりました、ありがとうございます」
それだけ言うと、手を振る後ろ姿だけを残してウォーレンさんはどこかへと歩いていく。準備は整ったようである。まあ、準備と言っても子供のお遊びの延長線でしかないのだが。
部屋の前には執事長が門番の如く佇んでいたが、軽く頭だけを下げるとそのまま部屋の中へと入っていった。
足音を立ててフェレイラ様が奥の机の前に立つと、腕を組み私を睥睨する。
「それで、あなたは何を訊こうというのですか」
口を開く前に、一瞬だけ横目で部屋の右側に視線をやってから、息を吸った。心を知る、それこそが私の目的であり、唯一のやるべきことであるという意思に変わりはないが、ステラ様のために心を伝える役割も担いたいという気持ちに偽りはない。
なによりもわかりやすく、心を暴くのだ。私にはまだ分からない、人の心を知るという恐怖に立ち向かってくれた少女のために。
「昨日の問いかけの続きです、フェレイラ様。何故、ステラ様に作法を学ばせるのか。そして、その机の上に積み重ねられている釣書の数々は、何のためなのか。私が知りたいのはそれだけなのです」
「………しつこいことですね。ですが、約束は約束ですから、いいでしょう、話します」
机に腰を預けると、釣書の一枚を取って顔を顰める。溜息を吐いて、それを塵箱に捨てた。
「………ステラの結婚相手は、必ず貴族になるでしょう。今のノヴァリス家ならば、血筋のある人間とも婚姻関係を結べます。作法はその時に礼を失さないため、そしてステラ自身が恥をかかないために、です。………向こうに行ってしまえば、私たちは何もできませんから」
「なるほど、今の、ですか」
ノヴァリス家は今の当主であるヒルメル様が一代で築き上げた商家。陸路を主な手段としているということは恐らく初期は行商人だったのだろう。金を物に代え、物を金に換えて売り、さらに金へと変える行商人という職業は何よりも時流を読む才能と人間の底を見抜く目が必要になる。戦、農作物の不調、街道の治安など複数からなる要因を直感的に、また思考的に把握し必要なものを必要な分だけ買い、そして売る。買うものを間違えれば大損し、借金を背負うことすらあるのだ。最も商人として多い行商人はしかし、それ故にこのノヴァリス家ほどに大成功する人間は少ない。いや、少ないどころか滅多にいないだろう。
「フェレイラ様は、今のノヴァリス家の栄光は長く続かないと思っていられるのですね」
私の言葉で、フェレイラ様が目を伏せる。そして少々の間の後に、呟くように話し始めた。
「ヒルメルの………夫の才は、はっきり言って異常なものです。ステラも商人としての才のは間違いなくありますが、それでも夫には遠く及ばない。―――信じられますか?あの人はこの世の物の流れをすべて把握しているのですよ。遠く離れた地であっても人伝に聞いた話から必要な道具を必要な量だけ推測し、一切の無駄なく売る。幼いころから一緒に居ますが、あの人が何か物を売るたびに家は潤っていきました。投資に失敗したことなんて一度もない」
ああ、確かに。そういう人間は稀に生まれる。女神に愛されたかのように、圧倒的な才能を持つ人間というものがこの世界にはいるのだ。私も一人、そんな女性を知っている。
「ノヴァリス家は夫がいて成り立っています。これほどの栄華はヒルメルが健在の今だけしかありえない。………だから」
「だから、その前に力のある貴族の元へと送ろうとしたのですね。没落し、苦難の道を進むことになるその前に」
豪商としての力がある今なら、ノヴァリス家は結婚相手である貴族を選ぶことが出来る側だ。
あの無数の釣書が送られてくるのがその証拠である。もちろん釣書を送る貴族の方もそれなりに腹の底に抱えるものはあるだろうが、それでも優良な条件の相手がいないわけでは無い。
「………ええ。そういうことです。例えあの子に嫌われたとしても、あの子が沈みゆく家を守るために自分の人生を捧げさせるような事にはしたくないのです。だって、母親ですから」
「そうでしたか。それは、とても―――はい。とてもよかったと思います」
きっと私はよかったとそう感じている、筈だ。
「ですが、それならば。その意図をなぜステラ様に教えて差し上げないのでしょうか。ステラ様は、不安に思っていました。自らが一家の道具として使われているのでないかと」
「―――何を、そんなわけないでしょう?!」
「問題はステラ様がどう感じたかです。もう一度訊きます、何故教えないのでしょう?」
その場から動かずに、私はフェレイラ様に問う。もっと、この方の心を知りたい。まだ心の底の本心を隠しているようだから。真っ直ぐに目を見据えると、頭を掻いたフェレイラ様は観念したように溜息を吐いた。
「………言えるわけないじゃない。こんなの、私の勝手なエゴよ?ステラはきっとそんなことを望んでいないわ。私の行動で、あの子に本当に………嫌われていたら、辛いもの」
「先程の嫌われてもいいは建前なのですね」
「煩いわね!そうよ、悪い?!」
「フェレイラ様、口調が大分荒れております」
「………別にいいでしょう。ここには二人しかいないんだもの。私はこっちが本来の口調よ。いつものはステラに見せるために仕事の時と同じように話しているだけ。娘に作法を強制させてるのに、母親の私がやらないわけにはいかないもの」
「本当に、ステラ様のことが大好きなのですね」
「………当然よ。だって、大切な一人娘よ。実際は、お嫁になんてやりたくないわ………」
赤く染めた頬を隠すようにフェレイラ様は手で顔を覆う。
「あの子、とっても可愛く笑うの。その笑顔が昔から大好きで、でもこのまま私の手元に置いていたらそんな表情も浮かべられなくなるかもしれない。だったら、嫁ぐことでこの家から離れて幸せになってほしい………そんな風に、思ったのよ」
「婚姻関係を結び、一たびでも嫁に出したという形であれば、例え元の生家が没落してもステラ様には直接の関係は生まれない、ということですか」
「察しがいいわね。そうよ、継続的に支援をするという契約でもなければ、ノヴァリス家が滅んでもあの子は守られるわ。だから急いで結婚相手を選別していた。………でも、最近のステラはあまり笑わなくなってしまったの。私のせいね」
ぽつり、ぽつりと心が言葉となる。
「自分のお腹を痛めて産んだ娘、とっても可愛い私の子供。大事で大事で、大事にしすぎて普通に触れることすら怖くなってしまった。まったく、私は駄目な親よ………」
それは自虐か。だが、娘を思う親の心が必ず子に伝わるとは限らないのは普通のことだ。
「フェレイラ様の行為は間違っていないと思います。ただ、きっと意思疎通の機会が足りなかったのでしょう。もっと、ステラ様とお話をするべきだと思います。―――ステラ様のことが大切なのですよね。その心に、変わりはないのですよね」
「え、ええ。そうだけ、ど」
「私はかつて、大切な人と約束をしたことがあります。内容自体は他愛もない物でした。しかし、結局それを果たす前に、私とその方は遠く離れてしまいました。今ではもう会うことすらできません。本当の心を、思いを語らずにいてはいずれ離れ離れになった時に絶対に後悔すると思います。少なくとも私は今も、約束を果たせなかったことを………」
悔いている、のだろう。胸に手を当て、枯れてしまった感情に問いかける。
「思うだけでは伝わりません。行為だけでは汲み取り切れません。人間は決して、全能ではありません。言葉が必要なのです」
言葉は正しく心への特効薬になり得る。だから。
「本心からステラ様のことが大切ならば、好きならば言葉を交わすべきです。思いを口に出すべきです。私はそう思っています」
「………そう、ね。その通りだわ」
蝋燭台の灯火が揺らいだ。
「ああ。とっても、怖いわ。あの子と本心で話すのは。………大好きだから、嫌われたくないもの。でも、何よりも大事な娘だから―――きっと、このまま別れてしまっては最期に後悔するわね」
灯りを照り返すのは、フェレイラ様が手に握った一枚の釣書だった。姿絵はなく、文章だけに見えるそれは、机の上に積み重なっている他の釣書とは別に大事そうに扱われていた。
「もう、見つけていらっしゃったのですね」
「ステラにはまだ話していないけど、これは私の我儘ね。まだ、一緒に居たいという気持ちが邪魔しているの。………変かしら?」
「いいえ。とても良い母親の形だと思います」
「………ふふ、何よそれ。変な感想ね」
やはり、この親子はとてもよく似ている。口調も、思いも。一つ瞬きをすると、私は一つの行動をとることを決めた。部屋の中に良く響くように「少々失礼をします」と告げると、フェレイラ様から離れてクローゼットの前に立った。
「フラヴィア?」
「まず一つ、フェレイラ様に謝罪を。この部屋にいるのは私たち二人だけではありません」
「………え?いや、それはどういうこと」
疑問に答える前に、私はクローゼットの扉を思いきり開け放つ。大きなクローゼットの中には、見た目よりも随分と数の少ない服が仕舞われておりそして、その中から―――目を赤く腫らした十一歳の少女が飛び出してきた。
「………っ、ぁ?!」
急な行為で言葉が出ないのだろう。或いは声を出さぬように泣いていたせいか。体勢を崩しそうな彼女、ステラ様の手をダンスに誘うかのようにして取り、優しく着地させる。
赤くなった目の周りを見られたくないのだろう、強く擦っているもう片方の手も抑えると、目線が合うようにしゃがんで頬に触れる。
布が剥がれてしまい露出している傷痕を撫でると、小さな声で尋ねる。
「これが、フェレイラ様の本心です。安心、出来ましたか?」
「ぅ、うん………うん………!」
「ス、ステラ………?!まさか、今のこと全部聞いてた、の?!」
「ご、めん、なさい………お母様………」
「フェレイラ様。私が計画し、やったことです。すべての責任は私にありますので、どうかステラ様を叱ることのないようにお願いします」
ステラ様を連れてフェレイラ様の前に立つと、深々と頭を下げてから棒立ちになる。理由はどうであれ、勝手なことをした罰は受けなければならない。
「もう、色々と………フラヴィア。あなたは本当に色々とかき乱してくれるわね………こほん。随分と生きるのに苦労しそうな性格です」
「お母様、フラヴィアは………私のために………だから!」
「別に今更、叱ったりなんてしません。それよりも、昨日は叩いてしまってごめんなさい」
「いいえ。あれは間違いなく私に責があります。失礼なことを言った自覚はありましたので」
フェレイラ様の行動からステラ様を道具として扱う可能性は少ないだろうとは思っており、昨日の質問はその確認のためだ。何かしらの罰を与えられるのは想定していた。
「それよりも、今一度お二人だけで話をするいい機会かと」
私の服の臀部当たりの布を強く掴んでいるステラ様の背中を押す。そして一歩下がった。
「ふ、フラヴィアぁ………」
「大丈夫です、ステラ様。もう、心は分かったでしょう?あとは真っ直ぐにぶつかるだけです。ステラ様ならきっと出来ます」
「………っ?!うん、頑張る………」
包帯に覆われた顔に一瞬だけ、淡く笑みが浮かんだが、当人はそれに気が付くことすらなく。
「ねえ、お母様………私は、愛されているのよ、ね………?」
雛のように震える身体で、娘は母に向かう。
「道具じゃないんだよね、思ってくれているんだよね………!」
頬を伝う涙が地面へと落ちるその前に、フェレイラ様がステラ様を抱きしめた。
「………馬鹿ね。当たり前じゃない。あなたは、私の人生で何よりも大切な―――何にも代えられない、唯一無二の宝物なんだから」
「………ぅぁ、ぁぁぁぁあああ!!!!!」
一つの愛の形を赤い瞳に焼き付け、静かに私はその部屋を去る。悲しいだけではない少女の泣き声が、閉じられた扉によって遮られた。これでいい、暫くは二人だけの時間が必要だろう。
扉の先には、目元を揉み解す執事長と共に、戻ってきたウォーレンさんも一緒に立っていた。
そう。これは子供のお遊びの延長線、つまりただの隠れんぼだった。
執事長に協力を取り付け、私がフェレイラ様を呼びに行く間にステラ様をクローゼットの中に隠す。ウォーレンさんはその連絡役だ。確実に隠れたことを確認してから、部屋へと向かう私にそれとなくステラ様が隠れたことを知らせる役目を持っていた。
私が切れるカードは情報一つのみ。無駄にはできないため、確実さを求めた。
かくして、ステラ様はクローゼットの中へとしっかりと忍び込み、フェレイラ様の本心を知ることが出来たというわけだ。
肩の荷が下りた様な表情の執事長は、私の方を見て口を開く。
「フラヴィア嬢、ウォーレンに言われた通りに、お嬢さまの傷がどうやって作られたのかは旦那様に伝えておいた。これでいいか?」
「はい、ありがとうございます。ただ、あくまでも使い方の問題であり、植物自体に罪がないのも伝えてくださいましたか?」
「ああ。しっかりとな」
「あのヒルメルのおっさんなら、そんな勘違いしないと思うがな」
「そうですね。ですが一応、言葉にするのが大事ですので」
自分でいったことである。それよりも、執事長に確認しておきたいことがあるのだ。
「ゴルドー様。一応確認を。もしや、ゴルドー様は」
「あのお転婆娘の傷がどうやってできたのか、最初から知ってたんじゃないのか?」
私の言葉を途中から引き継いで、ウォーレンさんが質問する。
「最初にあの餓鬼どもから栗の花を投げられた時、餓鬼どもについて言い澱んでたよな。こいつの話を聞くにつれて、一番お転婆娘とその奥さんの事情に詳しいあんたがどっちの理由も知らないのはあまりに不自然だ」
「………傷を実際に作る方法までは分かっていなかったさ。ただ、お嬢様が自分の意思で傷を生み出していることは知っていた。それにあの子供たちが関わっていることもな」
「どちらの事情も分かっているが故に、動けなかったのですね」
「―――結局、私の怠慢だったのかもしれないがな。あまりそういうことは得意じゃない。余計に拗らせる原因になってしまうのではないかと不安だった。フラヴィア嬢、君を呼んだのはメディリアス家のマルシェ女史に勧められたからなのだ。”絡まった心をまっすぐに解くことのできる薬師がいる”と言われてな」
「………元凶、あいつかよ………」
「私はそれほど大した人間ではありません。ただ、心が知りたいだけなのですから」
「だとしても、実際に君は奥様とお嬢さまの関係を正した。それは間違いない。………ありがとう、この恩は忘れない」
恩というならば、私の方が頂いている。心を知ることのできる機会を貰えたことだ。
「こちらこそ、とても。とても、有意義な時間でした」
そうして、今回のノヴァリス家の”呪い”は幕を閉じたのだった。




