恐怖と傷色の瞳、ほんの少しの勇気
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その日の夜。せめて昼間に日の光に当たれなかった分を、星と月の光で補おうといわんばかりに屋敷の窓掛が開け放たれ、開放的な窓が良く晴れた夜の空を存分に映し出していた。
神秘的とも感じられる白銀の光が私の部屋をよく照らしているため、この様子ならば書物等を読むのでなければ蝋燭は不要だろう。
夕食は前までと同じく直接この部屋に持ってきてもらっていた。ウォーレンさんは食堂に顔を出したそうだが、フェレイラ様はまだ機嫌が悪いとのことだった。まあ、あれほど不躾な言葉を発したので仕方のないことだろう。
ぬるま湯を貰い、部屋の浴槽を満たす。そして体の包帯を解いていると小さく扉が叩かれた。
「あの、私………ステラ、だけど」
「はい。どうぞお入りください」
顔の右側の包帯だけを巻きなおすと、布を一枚持って扉をゆっくりと開ける。すると、夜になって顔の布が一時的に外されたステラ様が部屋の中に入ってきた。
「お邪魔します………って、あれ………お風呂入るところだったの?」
「はい。ですが問題ありません。すぐに服を着ますのでお待ちください」
「うん………って、え?」
驚きの声が上がる。顔だけステラ様の方に振り替えると、首を傾げた。
「どうかされましたか」
「あなたの、傷………背中にも、足にも………全身にあるん、だけど」
「そうですね。全て古傷ですのでお気になさらず」
「痛くはない、の?」
「もうほとんど痛みません。いえ、私自身が痛みになれてしまっているので、実際には痛んでいるのかすらわかりかねます」
この傷が出来たのはもう三年も前のことだ。最初の傷に至っては六年程の月日が経っている。
傷は様々だが、左腕の裂傷痕に右腕の大きな火傷の他、腹や背中は鞭を打たれた痕に、鋭利な刃物で斬られた痕。足にも無数の切り傷と、擦られた痕や、足枷とその際に穿たれたくさびによる刺し傷がある。いずれも命や、致命的に運動能力に支障をきたす傷ではないものの、見た目としては非常に醜いことは事実である。
「―――ねえ、フラヴィア。私が、背中流してあげる」
「いえ。一人でできますが」
「いいから!あの護衛のおじさん、あなたのこと危なっかしいって言ってたけどその通りね!なんでそんなボロボロなのに………あなたは誰にも甘えないの」
甘える。そんな行為をしても、誰も助けてはくれないから。だから、しなくなったのだ。でも、だからこそ。助けを求めている人には手を差し伸べたい。すれ違い、傷ついてしまっている人たちを癒したい。私が感情を知りたいという目的とは別に、そう思うのだ。
「その目の包帯も外して!」
「いえ。いいえ。これは、このままでいいのです」
「………そ。じゃあいいけど。私も服を脱がないと………よいしょっと」
現在のステラ様の服装は就寝用のネグリジェだ。絹で作られた肌触りのいい素材が、ゆったりと少女の柔らかな身体を包んでいる。それを脱ぎ捨て、丸めて適当に置くと私の手を取って湯舟へと近づく。
淡く月光を浴びて金色の髪を輝かせる様は、将来この少女は美しくなることを予見させた。
「ん、なんかぬるいんだけど」
「はい。ぬるま湯を貰っていましたので。もうだいぶ冷めてしまいました。ステラ様もまだ傷がありますので、ぬるいお湯で我慢していただますか」
「いや、温い方が入りやすいし私は別に、問題ないけど」
「そうでしたか」
実のところ私もあまり熱い湯は得意ではない。熱湯を浴びせられたことを思い出すためだ。
そうして浴槽の前にある身体を洗うための湯を溜めておく水瓶に桶を静め、湯を被るとステラ様が布を取り出して私の肌を優しく擦り始めた。
「痛くない、よね?」
「はい。ありがとうございます」
背中から腕、指先。太腿に足の先端へと徐々に移動していく布。誰かにこうして身体を洗ってもらうということは、あまり経験したことがない。髪も濡らされ、保湿と消毒効果のある薬草類から作られた洗液で綺麗にされていく。全てが終わると、洗い流すために湯を浴びて身体から洗液を落とした。
その後、自身も同じように洗ったステラ様と一緒に個人の部屋にあるにしては巨大な浴槽に二人で浸かる。
「ねえ、フラヴィア。………包帯びしょびしょだけど………」
「はい。問題ありません」
「本当かしら………」
それっきり、じっと口を噤んでしまったステラ様。
どうやら正面に向かい合って入るのは羞恥に耐えきれなかったようで、私たちは背中を合わせるようにして湯船につかっている。胸元までの若干低い温度の湯が心地よい。
暫くの間、月と星の光に見守られているとステラ様が静かに口を開いた。
まるで、何かを決意したかのように。或いは―――思いを零すかのようにして。
「………私、怖いの。お母様の心を知ることが」
「はい」
きっとその不安を吐露するために私の部屋を訪れたのだろうと思っていた。最後に三人で計画を立てていた時、ステラ様はとても不安そうだった。その感情は、計画が成功するかどうかではなく、フェレイラ様の本心に対してものであることは明白である。
「本当にお母様が私のことを道具だと思ってて、あの釣書が全部、考えた通りの道具としての私を売る相手の候補だったらって。そう考えると、怖いのよ………」
背中を通じて震えが伝わる。齢十一の少女は、この世界において小さな大人とも呼べる年齢だが、それでも本来の精神性は子供のものであることに変わりはない。
「直接確かめられないのも、本当は私に勇気がないからだわ。直接聞いて、もしそうだって言われたら私はきっと、耐えられない」
「ステラ様。人の、思いを知るのは………怖いことなのですか?」
「馬鹿ね、当たり前じゃない。誰だって他人の本当を知るのは怖いわ。自分がどう思われているのか、知らない方が楽なことだって多いの」
「私はそう感じたことがありませんでした。思いを、いえ感情を知ることが私の旅の目的だったので。それは恐怖が付随するものだったのですね」
ちゃぷり、と水面が揺れる。髪から水滴が垂れたのだろう。
「ああ、そっか。あなた―――本当に感情が分からないのね」
「はい。私にはとある時期から感情がありません。いいえ、感情を忘れてしまった。なので、知りたいのです。感情を、思いを」
「………違うわ。ねえフラヴィア。あなたはね、感情は分かってるのよ。だって私がどう思っているかとか、どう考えているかとか分かっているでしょ?そう、頭ではわかってる………でも、知識としてしかわかってない。感覚として、理解できてない」
どういうことでしょうか。言葉の意図を細かく読み取ることが出来ない。でもこれは、とても大事なことのような気がする。
「フラヴィア。あなたは、心が知りたいのね」
雲が懸かり、月が翳る。
「心と感情は、違うのですか?」
「違うわよ。本当に、馬鹿ねぇ………感情は、ただ何に対してどう思ってるかだけ。心は、なぜそういうふうに思ったのか。心の動きによって感情が生まれるの」
「そう、なのですね」
ああ。ああ、ならば。ステラ様の言う通り、私が知りたかったのは心に他ならない。
「………なんで私、フラヴィアの人生相談に付き合ってるのかしら。むしろ私の方がフラヴィアを頼りに来たのに」
「私は頼られていたのですか」
「あ、いや、今のなし。別に、頼りに来てなんてないし。ちょっと愚痴を話に来ただけよ!」
「愚痴ですか。私相手ならいくらでも零してください」
「ぐぬぬ調子が狂うわ………!」
溜息を吐いたステラ様は、窓を見る。
「いいわね、あなた。感情がないから、怖いものなんてないんでしょ。ちょっとだけ、羨ましいわ。私は怖いものだらけだもん」
「いいえ。ステラ様、私にも怖いものはありますよ」
「ふぅん?」
意外そうに私の方を振り向く。そう、私にも怖いものはある。ただ一つだけ、そして唯一この身に残った感情、恐怖の心が。
「それは誰にも見せたくない、私の最も醜い傷です」
「………本当だ。震え、伝わってくるわ」
右目に手をやって詰まりそうな息を吐き切る。
「そっか。………ねえ。フラヴィアもいつかはその一番酷い傷に立ち向かうの?」
「いいえ。まだ分かりません」
「そこは嘘でも立ち向かうって言わないと、今から怖いことに立ち向かわないといけない私への励ましにならないと思うんだけど!」
「そうでしたか。申し訳ありません。怖いことに立ち向かうには、励ましがいるのですね」
「人とか時と場合によるけど、そりゃあ、あった方が良いわよ」
「ですが、私は励ましたことがありません。どうしたら良いでしょうか?」
「それを私に聞かれても困るんだけどっ!?」
何度目か叫んだステラ様は、荒くなった呼吸を整えると、唇に指をあてて考え出した。
「そう、ねぇ。例えばだけど、一緒に怖いものを共有し合って。それで―――絶対にそれに立ち向かうっていう約束をするの。だって二人なら、超えられるから」
「二人なら、超えられる、ですか」
とても、懐かしい言葉を聞いた。かつて私にそれを語ったのは、今のステラ様よりもさらに小さな少女だったのだが。恐怖に立ち向かうために、恐怖を分かち合う。
なるほど、一人で大きなものを支えるよりも二人で力を合わせた方が良いのはこの世の真理である。それは、精神的な戦いや重荷であっても通用する。
「私が怖いものを話せば、ステラ様は安心して明日、フェレイラ様の本心を訊くことが出来るのですね」
「いや安心するかどうかは別問題だけど………でも逃げないわ。絶対に」
「はい。………はい、では。私の怖いものをお話します」
だがその前に、一つだけお願いがあるのだ。身体の方向を変え、ステラ様の方を向く。重要な話をすることに気が付いたのだろう、ステラ様もこちらに向き直った。
月光を遮っていた叢雲は去り、再び月明かりが私たちを照らす。
「どうか、私の怖いもの。それは他言無用でお願いいたします」
「二人だけの秘密、ってこと?」
「はい。どうか、私がいつかそれを克服できるその日まで」
「―――わかったわ。商家ノヴァリスの名に誓って、必ずその約束を守る」
信用が第一である商人の名で立てた誓いは、非常に重い意味を持つ。ステラ様はそれだけ私の言葉を重く受け止めてくれたということだ。
「ありがとうございます」
深く、とても深く礼をして、私は………右目の包帯を解き始めた。震える手で全ての包帯を解き終え、そしてゆっくりと目を開く。数年ぶりの光を右の瞳が捉え、視覚を形作った。
その視覚は久方ぶりの光によって一瞬ぼやけたがすぐに色彩を取り戻し、ステラ様の驚いた表情をしっかりと映し出す。
「………フラヴィア………?!その瞳は。まさか、あなたは!?」
眼を見開いたステラ様の視線の先。そこには、夕闇に煌めく最も大きな月よりも壮麗な光を放つ、黄金の瞳が宿っていた。
「この世界で、黄金の瞳を持つ人間なんて一つだけ………その名は、王国にいる人間なら小さな子供だって知ってる………女神の血を引く、リフティスノーラの一族………」
才ある一族。この国の神話に登場する地母神にして創造神である、白銀の女神と同じ身体的特徴を持って生まれ続ける高貴なる血。その血に連なるものは皆、白銀の髪と唯一無二の黄金の瞳を持ってこの世に現れるのだ。もっとも、私はそうはならなかった欠陥品だが。
「私はもう、ただのフラヴィアです。ですが、この目だけはどんなに月日が経っても消えることがない。―――私は、この目が怖いのです。私には余りにも分不相応な、この瞳が」
それに、この目を見ると様々なことを思い出す。かつては嫌だと感じていた筈のことや、もう果たすことのできない約束を。
小さな水滴を纏って、ステラ様の指先が私の右頬をなぞる。
「何がフラヴィアの過去にあったのかは聞かないわ。多分、言いたくないんだろうし。でも、その怖いことを、秘密を教えてくれてありがとう。………それにリフティスノーラに落胤がいたなんて知れたら大変なことになるでしょうし、隠すのもまあ、分かるわ」
正確には私は落胤ではないのだが、恐らくリフティスノーラの家系図など公的な記録には記されていない筈だ。存在しないものとして扱われているため、事実私生児よりも身分が低い。
血は繋がっていても、過去の私は感情を失う最期まで家族………両親と絆を結ぶことはできなかったのだろう。
「あなたがその瞳を受け入れるまで、誰にも話さないともう一度約束するわ」
「はい。ありがとうございます」
「でも、ちょっとだけ残念。あなた、包帯外すととっても綺麗な顔してるのに。それを誰にも見せないなんてもったいないなあ」
「………?」
「そこで何で首傾げるのよ………ふふ。変なの、本当に」
無邪気に笑うステラ様は、夜空を見上げてから目を閉じる。胸の前で両手を合わせ、呟いた。
「うん。逃げない。お母様の本心を訊くわ。手伝って、フラヴィア・リフティスノーラ」
「はい。私の全てを懸けて、お手伝いいたします」




