第八話 ぼくは、まだ書いていないだけ
子供の頃から作家に憧れた長瀬だったが……
長瀬が作家になりたいと思ったのは、中学二年の時だった。
たまたま見ていたテレビで、流行作家の谷川新之介の自宅訪問をやっていた。都内の一等地に豪邸を構えている割には、本人はボサボサの髪に無精髭、ヨレヨレの和服をだらしなく着た、冴えない中年だった。
しかし、インタビュアーから「学生で作家デビューして以来、ベストセラーを連発している、その創作の秘訣は何ですか?」という不躾な質問に、苦笑気味に答えた言葉が耳に残ったのだ。
「秘訣なんてないさ。おれ程度の作品なら、誰でも書けるよ」
それが謙遜であることは、さすがに長瀬にもわかったが、一度谷川の作品を読んでみようと思った。
何日かして、図書館で借りて読んでみたが、正直、どこが面白いのか、さっぱりわからなかった。谷川の作品は難解なことで知られており、中学生がわからないのは当然のことだった。だが、長瀬は自分の未熟さに気付くことなく、こう思ってしまったのだ。
(これなら、ぼくの方が面白いものが書けるんじゃないかな)
次の日、自分の小遣いで原稿用紙を買ってきた。それを机に広げ、いざ書こうとして、長瀬は、はたと困ってしまった。
何も書くことを思いつかないのだ。
(そうか。ぼくにはまだ人生経験が足りないんだな)
『人生経験が足りない』というのは、若くして売れっ子になってしまった谷川に対して、批評家がよく口にする言葉であることを、長瀬も知っていた。
(人生経験を積めば、書けるようになるさ。そうとも。そして、ぼくが書きさえすれば、すごい傑作になるに決まっているんだ)
それからというもの、長瀬は毎日が楽しくて仕方なかった。
今は目立たなくても、勉強ができなくても、駆けっこが遅くても、いずれ小説さえ書けば、みんなが自分を括目して見るようになる、はずだから。
平凡な高校、平凡な大学と進み、いよいよ就職先を決めなければならなくなった時も、深くは悩まなかった。
(とりあえず、どこでもいいや。数年間だけ辛抱して人生経験を積めば、小説を書いて作家デビューだ。そうなったら、すぐに仕事を辞めてやろう)
長瀬が目指したのがもっと別のもの、例えば、マンガとか音楽なら、早い段階で自分の才能のなさに気付いたかもしれない。
しかし、小説というのは、実際に書き上げて他人に読んでもらわない限り、才能のありなしなど自分でわかるものではない。そして、本能的にその危険性を感じていたのか、長瀬は一向に小説を書こうとしなかった。
だが、『いずれ作家デビュー』という呪文は実に便利だった。
なかなか仕事を覚えられなくても、ミスをして上司に怒られても、先輩にいじめられても、この呪文さえ唱えれば耐えられた。
それから、長い年月が流れた。
「長瀬先輩、定年おめでとうございます。長い年月を無事に勤め上げられた、その秘訣って何ですか?」
長瀬は苦笑した。
「秘訣なんてないさ。この程度のこと、誰でもできるよ」
「ご謙遜を。ところで、定年後は何をされるんですか?」
「うん、ちょっと」少し顔を赤らめ「やりたいことがあってね」
長瀬は密かに、今こそ小説を書き始めよう、と思っていたが、はたして……。