第4球:転校
栄川は3年生の3人に、通常通りの練習メニューをこなすように指示し、
佐倉を校舎の相談室に連れて行った。
ドアにかかっている「空室」の札を「使用中」にひっくり返し、中に入ると、机を挟んで向かい合わせに座った。
「正直、驚いた。」
その言葉を聞いた佐倉の顔は、
先ほどまでの真剣な表情とは打って変わって、女子高校生らしいかわいらしい笑顔だった。
「高校生で、いや、女の子であんなに素晴らしいナックルボールを投げられる投手は全国でもそうはいないだろう。」
「いやぁ〜、それほどでも。」
「君にとんでもない才能があって、その上に相当な努力をしたんだと思う。
それはあのボールを見ればわかる。弱小野球部とはいえ、男3人がかすりもしなかったんだからね。」
「いやぁ〜、それほどでも。」
「だからこそ、本気で野球をやりたいのなら、転校しなさい。」
「えっ…?」
「君がどんなにすごいボールを投げようと、規定で女子生徒は公式戦に出られない。
女子マネージャーが練習を手伝うだけで騒ぐ古い石頭だらけの高野連だ。
この規定は、すぐには変わらないだろう。
野球選手にとって、高校での3年間はとても重要な時期だ。
君ほどの実力を持った選手なら、余計にね。
だから、うちの野球部じゃなく、きちんとした女子野球部がある高校に転校した方がいい。
君なら、もしかしたらプロにだってなれるかもしれない。こんなところで、才能を無駄にしちゃいけないよ。
確か札幌の私立の高校で、女子硬式野球部のある高校があったはずだ。
そりゃあ、家族やいろいろな人たちと相談しなくてはいけないことだけど、
佐倉さんが本気なら、僕は応援するし、全力で手伝うよ。」
日本高等学校野球連盟の参加者資格規定には、
「その学校に在学する男子生徒で、当該都道府県高等学校野球連盟に登録されている部員のうち、学校長が身体、学業及び人物について選手として適当と認めたもの。」と明記されている。
現状の規定では女子生徒の部員は、選手としてグラウンドに立つことはどうしてもできない。
女子硬式野球部がある高校も存在するが、連盟に加盟している学校の数は日本全国で約20校。
男子の4000校と比べると、知名度や環境は比べ物にならない。
佐倉は、弱い声で話し始めた。
「それは、転校は、できないんです。
女子野球部がある高校も、中学のときに調べました。」
「それなら、どうして、この高校を選んだの?」
「私、元々は、女子野球部のある札幌の私立高校を志望していました。
でも、中学2年の秋に、父親が亡くなってしまって。」
「ああ…それは…。」
「母親は、その学校に行くように言ってくれました。
ただ、親元を離れて進学するとなると、学費以外にも相当なお金がかかるし、
ましてや私立の学校だと、相当な学費になってしまいますし、
そんなワガママを、突き通すことは、私にはできませんでした。
野球部なら、家から一番近い芝桜高校にもあるし、そこでいいって。」
「そうだったのか。」
「私、中学の時も野球部だったんですけど、試合にほとんど出してもらえなくて。
それなりに強い学校で、女子が出る幕なんてなくて、
どうやったら男子と同じように勝負できるんだろうって考えた結果、
ひとりでずっとナックルの練習をしていたんです。
女子野球部のある高校に進学できないことになっても、ずっと。」
佐倉南というひとりの人間のバックグラウンドを全く知らなかったといえ、
軽々しく転校という話をしたことを、栄川はひどく後悔した。
「私、楽しく、野球がしたいんです。男とか、女とか関係なく。
プロになりたいとか、そういうことじゃないんです。
だから、先生、お願いします。私を、野球部に入れてください。」
「…わかった。だけど、部活の勧誘期間は来週からだから、参加するのは来週からね。
練習試合も近場の高校に頼めばできるだろうし、一緒に頑張っていこう。」
佐倉の表情は、少し前のかわいらしい笑顔に戻っていた。